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二十一人討死之碑

2016年05月29日
二十一人討死之碑(大阪府大阪市福島区玉川4丁目5-17)です。

大坂野田

天文2年、福島・野田を訪れた本願寺第十世証如上人は、近江の佐々木六角定頼の手勢に不意をつかれました。
野田・福島の門徒の百姓衆が鋤・鍬・鎌を持って敵兵に立ち向かい、証如上人を護るために命をかけて戦い紀州に逃しました。
しかし信徒21人が犠牲になりました。
後に、このことを知った証如上人は、お礼を御書にしたため、犠牲者の菩提を弔ったそうです。

証如上人
戦国時代の浄土真宗の僧。
諱は光教。院号は信受院。
本願寺第10世。本願寺第8世宗主・蓮如の曾孫。

永正13年11月20日、誕生。父は遍増院円如。母は慶寿院鎮永尼。

大永5年、父方の祖父である本願寺第9世宗主・実如の死去により、10歳で継承し、本願寺第10世宗主となりました。
実如の弟で証如の母方の祖父である蓮淳の後見を受ける。
大永7年、当時の本願寺教団と中央権力との親睦を深め安泰を図るため、摂家に接近して関白・九条尚経の猶子となっています。

享禄4年、本願寺教団内部で対立(後の山科本願寺の戦いまで含めて享禄・天文の乱と呼ぶ)が起こるが、証如はこれを抑えて法主の指導力強化に努めました。

天文元年には、管領・細川晴元の要請を受けて門徒を動員し、三好元長を敗死に追いやったが、晴元はこれによってかえって本願寺の実力を恐れ、京都の日蓮宗教団や六角定頼と手を結んで、当時の本願寺の本拠地であった山科本願寺を攻撃し、これを焼き討ちにしました(天文法華の乱)。
山科本願寺を追われた証如は、居所を大坂の石山御坊に移し、石山本願寺を新たな教団の本拠地としました。
その後は晴元の養女(左大臣三条公頼の三女・如春尼。長姉は晴元に、次姉は武田信玄に嫁ぐ)を長男・顕如と婚約させて晴元と和睦し、室町幕府とも親密な関係を築いて中央との関係修復に努め、本願寺の体制強化を進めました。

天文15年には金沢に尾山御坊を築いて同地方における門徒の統制を強化したが、これは朝倉氏との対立もあって、証如の時代には必ずしも十分に達成されなかった。
また、加賀一向一揆の調停という形で北陸地方の門徒集団への介入を深めました。

天文23年8月13日、39歳にて示寂。
本願寺は12歳の顕如が継承する。
Wikipediaより


駅に向かって歩いている時に偶然見つけました。
何だろう?と見ても、柵の中にあって、碑に刻まれた文字も読めなくその場所ではわかりませんでした。
ただ、案内看板に二十一人討死之碑 ○○mというのがあったので、おそらく二十一人討死之碑だろうとは思っていました。
じゃあ二十一人討死之碑とはどういう出来事なんだ?という事に…。
帰宅後調べてみると、戦国時代の出来事の碑でした。

私の印象では、戦国時代の寺院には僧兵がいて、戦うお坊さんというのが浮かびます。
根来寺や延暦寺とか。
石山本願寺もよく聞きますよね。

証如上人の少し後の石山本願寺と織田信長はずっと戦っていたんですよね?
戦国時代はあまりよくわかっていませんが。

柵に囲まれ、木が生い茂っているので、あまり目立たないのですが、柵に囲まれているという事は大事にされているという事ともいえるのかな?










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大坂船手会所跡

2016年05月28日
しばらく歩いていると、大坂船手会所跡(大阪府大阪市西区川口1-3)というのがありました。

大坂船手会所跡2  大坂船手会所跡1

江戸時代には川口には瀬戸内海をはじめ西日本の海を治める幕府の拠点がありました。
長官に当たる「船手(船奉行)」は幕府の軍船管理や水兵指揮、参勤交代のため航行する西国大名の監視、琉球使節や外国使節の航行警護など国事にかかわる多彩な職務に携わりました。
資格や待遇は江戸の船手より上です。
会所なので事務所のようですが、大坂船奉行所がわかりやすいでしょう。


交差点の横にありました。
何だろう?
「大坂船手会所」とあるので、船に関係のある場所には間違いありません。
大坂の「さか」が「坂」になっているので、現在ではないのは確かです。
いわゆる「船奉行所」なんですね。
元治元年まであったという事は、新選組の池田屋事件のころまであったということで、ばっちり幕末です。

元治元年まで…、おそらく新選組は訪れてない?
大阪出身の隊士とかならわかりませんが、いわゆる幹部は来てないんでしょうね。
ただ、これから幕末で有名になる人物ではいてるかもしれません。

今は誰も立ち止まる人がいませんでした。
たまたま私が通った時がそうだったのかもしれませんが、気にしてないと見ようとは思わないですよね。
私は見ますよ!



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大坂城

2015年04月25日
2014年の大坂城(大阪市中央区大阪城)です。

大阪城2

徳川慶喜、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬は京橋口より、城を脱出しました。

新選組がはじめて登城したのは、慶応4年1月7日でした。
第一の目的は、鳥羽・伏見の戦いでの負傷者の治療でした。
6日の夜、旧幕軍の総大将 徳川慶喜は松平容保らとともに城を出て、天保山沖の船にいました。
新選組も旧幕軍として、負傷者以外は深夜、隊士たちは城から退去しました。
2010年4月5日 ブログより

慶応3年12月9日に発せられた王政復古の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移り、居城していたが、慶応4年1月3日、旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって慶喜は船で江戸へ退却し、大坂城は新政府軍に開け渡されました。
この前後の混乱のうちに出火し、御殿や外堀四、五、七番櫓など城内の建造物のほとんどが焼失しました。
Wikipediaより









大坂城 豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地碑

2015年04月24日
大坂城にある、“豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地”碑です。

大阪城4  大阪城3

慶長20年の大坂夏の陣では、旧暦5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えています。
それにちなんで平成9年、現在の山里丸の一面に大阪市の手によりこの記念碑が建てられた。
現地説明板より

墓所は京都市東山区の養源院、大阪市北区の太融寺。
戒名は大虞院英厳大禅定尼、大虞院花顔妙香、大広院殿英嵓と伝わります。

しかし淀殿の最期を目撃した者の証言や記録などは存在せず、また遺体も確認されなかったため、秀頼と同様に彼女にも逃亡・生存説などの伝説が生まれるようになりました。
落ち延びた先としては薩摩や上野に伝承が残っています。
Wikipediaより


天守閣前の広場から、大阪城ホール方面に降りていきます。
天守閣の裏側方向です。
市内から出土したさまざまな刻印石が集められた刻印広場を通りすぎた奥に、ひっそりと建っていました。
たまたま、その周辺が工事中でひっそりに見えただけなのかな。

茶々が淀というのは、実は大人になってから知りました。
茶々という響きは可愛いと思うのですが、淀殿というと厳めしい感じがするのは私だけ。

しかし戦国時代の、しかも歴史の中心で生きる女性だと、それぐらいキツイ性格でないと生きて行けなかったのでしょう。
性格がひねくれても仕方がないでしょうね。
ただし、今の世の中でこの性格だと、クレイマーとかモンスターペアレンツとかになっていそう。
あっ、意外と政治家(ただし、善政に限る)には向いているかもしれないですね。

そして淀殿といえば、
「天正17年、捨(鶴松)を生む。この懐妊を喜んだ秀吉から山城国淀城を賜り、以後「淀の方」と呼ばれるようになった。」(Wikipediaより)
の淀城に関連する、京都市伏見区の妙教寺がありますが、この妙教寺は幕末に大いに関係するお寺なのです。
2008年10月22日のブログ参照してください。









大坂城 巨石 蛸石

2015年04月21日
大坂城を訪れたら是非とも蛸石を見て下さい。

大阪城1

桜門の正面にあるのが城内一の巨石として知られる蛸石(36畳敷)です。
厚さ平均0.9m、重さは約130トンと推定されます。
蛸石という名前は、 石の表面左端に茶色い蛸の頭形のシミがあることから名付けられたものといわれています。

大阪城1 - コピー

ドーンと行く手を阻む感じです。
大きいです。
私はサイコロ状の形だと勝手に思っていたので、厚さが1m無いと聞いた時は、「何だ薄い板状か。」と思ってしまいました。
でも、90cmって分厚いですよね。
縦と横の大きさがあまりに大きすぎて、90cmが小さく感じてしまうのですね。

豊臣・徳川幕府のあの時代にこの巨石を斬りだして運ぶ…、想像できないです。
いったいどうやったのでしょう。

もしかしたら、昔の人は今の人間よりずっと知能や知恵が優れていて、頭が良かったのではないですか。
あ~、尊敬です。






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