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関ヶ原-補遺

2009年07月15日
関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)周辺の、その他の史跡です。
前述のように、私は目的地に行く途中、寄ってもらったので、下記の史跡にまで足を伸ばせませんでした。
お時間のある方は、ぜひとも歩いてください。

奥平貞治の墓 …  家康に派遣されて小早川秀秋の動きを監視していました。秀秋が寝返ってからは陣頭に立ち、敵を追って玉村あたりで戦死したと伝えられています。
元治元年、子孫・奥平新左衛門源貞昭がこの地に墓を建てました。

丸山烽火場 … 関ケ原合戦の際、この山には東軍の黒田長政・竹中重門が陣どり、開戦の烽火をあげました。

島津義弘陣跡 … 北国街道を守備するため、島津は約1,000の兵を率いて、この地に布陣しました。
正面に銃手を3隊に分け、まず第1隊が敵を間近に引き寄せ、これを射撃。
第2隊、第3隊と交代、更に弾をこめて、再び第1隊が出る作戦でした。

徳川家康最後陣跡 床几場 … 敵の首を実検した場所。
合戦の最中家康は、東軍の動きを確認するため桃配山より軍を進めて、この陣場野に陣を敷きました。
最後まで味方の指揮にあたり、戦いが終わると部下が取って来た敵の首を実検したところです。
周囲の上囲いや中央の土壇は天保12年に幕府の命令により、竹中家の施工によるものです。

小西行長陣跡 … 北天満山に約6,000の兵をもって布陣し、開戦と同時にこの山において烽火をあげ、味方に戦闘開始の合図をしました。
午後になって小早川秀秋の反撃、次に大谷隊の敗報を聞いて戦意を失い、キリシタン大名ゆえ自決もできず、島津隊のうしろを廻り相川山を越えて春日方面に逃れました。

開戦地 … 北天満山を背にした西田運動広場の入口に、標柱が立っています。
ここは合戦場のほぼ中央にあたり、東軍の福島正則が井伊隊の抜け駆けに怒って宇喜多隊を攻撃した場所です。
現在の標柱の位置は、圃場整備によって史跡指定時よりも約200m北になっています。

東首塚 … 関ケ原合戦後、床几場で首実検をし、その後東西2ヶ所に埋葬したのが首塚です。
当時、この地の領主であった竹中家が戦後処理にあたりました。
両首塚は竹中家が造ったことが同家の記録に残っています。

宇喜多秀家陣跡 … 若くして豊臣政権五大老の1人となった秀家は、約17,000の兵をつれ南天満山に布陣。
開戦と同時に福島隊の猛攻撃を受け、一進一退の攻防を繰り広げました。
敗戦後、死罪を免れて八丈島へ流されましたが、息子や家臣とともに土地に根づき、83歳まで生きました。
陣跡の碑は杉木立に囲まれた天満神社の境内にひっそりと立っています。
巌流島の決闘で知られる剣豪・宮本武蔵は合戦当時17歳。宇喜多隊の一兵として激戦地で戦ったといわれていますが、その戦いぶりなど詳しいことは分かっていません。

大谷吉嗣の墓 … 盲目の軍師大谷吉継は、親友であった石田三成の懇請を受けて、宮上(藤川台)に出陣しました。
大谷は、かねてより松尾山の小早川秀秋の態度を疑って、それに備えていたのですが、小早川だけでなく、脇坂、朽木、赤座、小川らの裏切りによって、壮絶な戦いの末に自刀しています。

大谷吉嗣陣跡 … 三成とは若い頃から仲がよく、合戦にあたっては三成に挙兵を思いとどまらせようと説得しましたが、三成の強い決意を受けてともに挙兵し、死に装束で参戦したといいます。
9月3日からこの地で中山道を封鎖し、合戦では藤堂・京極隊を相手に善戦。小早川の裏切りにも果敢に迎撃しましたが、脇坂ら4隊までもが背いたため軍は壊滅。混乱のなか、吉継は潔く自刃しました。
周囲には、土塁の跡と思われる盛り土が今も続いています。

平塚為広の碑 … 垂井の城主でしたが、大谷吉継と親しかった為、大谷隊に加わって不破関付近まで進出し、藤堂・京極の隊と奮戦していました。
しかし、小早川秀秋が反応するに及んで、本隊支援のために兵をまとめて引き返し、背面の敵と激闘奮戦しましたが、藤川台で戦死しました。

西首塚 … 西首塚は、JR東海関ケ原駅前から国道21号を西へ700mほど行ったところにあり、東首塚と同様、合戦で戦死した兵士が葬られています。
西首塚は別名胴塚とも呼ばれ、JR東海道本線の敷設の際には埋葬された白骨が出たところから、当初は相当な規模であったと思われます。

福島正則陣跡 … 秀吉恩顧の大名でしたが、奉行派の三成との確執から進んで家康に加担。東軍の先鋒として宇喜多隊を攻撃し、これを破りました。
月見の宮とは春日神社の別名。
ここからは美濃中山の方角に出る月が鏡台の上に鏡をのせたように見えるので、月見の名所といわれました。
境内の大杉は樹齢800年、周囲5.8m。

藤堂・京極陣跡 … 福島正則隊に続いて東軍の第2陣として進軍してきた藤堂・京極隊は、現在の関ケ原中学校付近に陣を敷きました。
午前8時に開戦すると、両隊は不破関付近へ進撃して平塚為広隊と交戦し、さらに進んで大谷吉継本隊と戦い、午後には小早川隊と共に大谷隊を破っています。

本多忠勝陣跡 … 本多忠勝は徳川四天王の1人に数えられる猛将で、本戦では軍監として参戦しました。
十九女池西に陣を敷きましたが、開戦すると、井伊直政隊が対戦している島津隊に向かって進撃し、共に戦いました。

小早川秀秋陣跡 … 松尾山に陣を敷いた小早川秀秋は、山麓に約15,000人の兵を配していましたが、午前中は戦いに参加せず傍観していました。
午後になって、東軍の威嚇によって反旗をひるがえし、西軍の大谷吉継の陣を攻めてこれを破り、戦局を東軍有利に一変させたことは有名です。
標高293mの松尾山山頂にある陣跡へは、ふもとから徒歩40分。

脇坂安治陣跡 … 脇坂安治は、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保とともに松尾山麓に布陣。
大谷吉継の配下に属していましたが、戦が始まっても傍観するのみ。
小早川隊が寝返ると、4隊も続いて西軍の戸田、平塚隊を攻撃してしまいました。
かつて賤ヶ丘七本槍の1人として知られた安治は、西軍への参戦も本意でなく、藤堂高虎らと密約を交わしていたといわれます。
淡路洲本の所領は安堵となりました。

島津豊久の碑 … 西軍の中で、最後まで孤軍奮闘していた島津隊は、家康陣営前を突破して鳥頭坂まで来ましたが、東軍の松平忠吉・井伊直政・本多忠勝等が追撃してきたため、島津義弘(惟新)の甥の豊久が、ここで頑強にくい止めました。
その間に島津主従は、多良・時を経て、鹿児島へ帰ることができたのです。

桃配山 徳川家康最初陣跡 … 関ケ原町の東端、国道21号・一ツ軒の交差点を東へ約200m行ったところに、三葉葵ののぼりが立っています。
徳川家康最初陣跡は、道路脇の登り口からすぐです。
家康が関ケ原合戦の際、30,000の兵を率いて最初に陣をおいたのがこの桃配山でした。
家康が使用したと伝えられる腰掛岩と机石があります。
桃配山は、壬申の乱のとき大海人皇子(天武天皇)が野上の行宮からこの山へ出陣して、兵士を励まし、桃を配ったという伝説からついた名称です。

山内一豊陣跡 … 慶長5年(1600)家康の会津征伐に従軍した一豊は、関ケ原の戦いでの西上に際し、掛川城を明け渡しての出陣となりました。
岐阜、大垣城の兵と戦い、野上に入ると、一豊ら八将は一里塚より桃配山までの間の中山道左右に並列に陣し、南宮山の敵に備えました。
その後、家康の進旗にあたり、南宮山の隊に東軍攻撃の形勢がないため、使番による家康からの命令を受け、山内隊は有馬、蜂須賀の隊と共に柴井の地まで前進して戦いました。
戦後、妻の内助の功もあって、土佐の国主となっています。

壬申の乱の舞台でもあった関ヶ原です。
関ヶ原の戦いだけでなく、壬申の乱の舞台めぐりもできます。
関ヶ原町HPより


笹尾山周辺から離れ、名古屋方面へ向かう途中に、東海道本線と東海道新幹線に挟まれた国道21号線から、“徳川家康最初陣跡”という看板を目にしました。
家康はここに陣取り、関ヶ原を戦ったのか…と、車中より思い後にしました。
国道と新幹線に挟まれて、狭い場所でした。
やはり関ヶ原といえば、“原”でないと実感が湧きませんね。

戦国&壬申の乱を巡って歩くのも楽しそう。
でも、たっぷり時間を取っておかないと回りきれないと思います。



直江兼続と関ケ原の戦いの謎


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関ヶ原 決戦地

2009年07月14日

関ヶ原にある、決戦地跡(岐阜県不破郡関ケ原町)です。
決戦地1293  決戦地2294
関ケ原合戦の午前中の戦況は、西軍75,000余の内、参戦していたのは、石田、小西、宇喜多、大谷隊の35,000余の軍勢のみでした。
しかし、西軍は東軍を圧迫し、優勢でした。
東軍は南宮山の毛利隊に備えていた有馬・山内隊も前線に投入し、家康本体も戦況打開の為、今の陣場野まで進出しました。
戦況不利とみた家康は、かねてから内応を約束していた小早川隊に催促の一斉射撃を命じました。
この威嚇により、小早川秀秋は決意し、西軍、大谷隊の背後から攻撃を始めました。
西軍絶対有利の陣形で望んだ合戦でしたが、小早川の裏切りにより、大谷、平塚隊の奮闘もむなしく敗れたのです。

この敗退を機に小西隊が敗走を始め、宇喜多隊も正面から福島隊、側面から小早川隊の攻撃をうけて敗走しました。
残った石田、島津隊は新手の東軍とも奮戦しましたが、石田隊が江州方面へ敗走。
最後まで戦場に残った島津隊も、兵を集め一丸となり家康本陣前を敵中突破して、伊勢街道方面へと脱出しました。
関ヶ原町HPなどより


石田三成陣跡から、町立関ヶ原北小学校・関ヶ原北附属幼稚園の前を通り、約200m南(駅方向)へ歩くと、決戦地の碑があります。
田圃の中にあります。
周りに高い建物も木もないので、遠くからでも確認できるので、迷う事は絶対にないと思います。

決戦地といっても、この場所(碑のある場所)だけが決戦地ではなく、笹尾山からこの辺り一帯が決戦地といわれる場所です。
何万という兵が戦ったのですから、そんな狭い場所ではないのは判ります。

それにしても戦国時代の戦いというのは、映画・テレビで観るようなあんな感じだったのでしょうか?
この頃も名乗りを挙げてから1対1で戦ったのでしょうか?
しかし鉄砲があるので、名乗りを挙げての1対1は無理だったのかな?
偶然、名乗りを挙げることになったとかはありそうですが…。

いったいどんな戦いだったのか、史実に忠実に再現されているような映像を見てみたいです。
この場所に立ってみると、何となくここが決戦の地になった事にうなずけます。
見晴らし、立地、広さ、等々どれも当時の戦いにピッタリの場所のようでした。
幕末ファンの戦国時代無知な私でも、ここにもう少し居たい気もしました。

血が流れた戦場跡でも、清々しい空気だったような気がします。


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石田三成旗印

2009年07月13日
石田三成旗印
大一大万大吉283   石田三成陣跡6290

“だいいち だいまん だいきち”と読みます。

「大とは天下を意味するものなり。
  天下のもと一人が万民のために(大一)
    万民が一人のために命を注げば(大万)
 すべての人間の人生は吉となり(大吉)
  太平の世が訪れる。
    故に人間が変われば世もまた変わる」

という意味だと考えられています。

また大一大万大吉の六字紋は、一を「かつ(勝)」と読み、万「よろず」を万年の繁栄、吉を縁起のよい文字として、さらにこれに「大」を冠して幸運を願う紋であり、古くは鎌倉時代の武将の石田為久(木曾義仲を射落とした人物として知られる)が用いていました。


ここに来て初めて知りました。
この旗印、いったいどう読めばいいのか判りませんでした。
一瞬この6文字で一つの漢字なのかと思ってしまいました。
違ったのですね。

変わってていいかも知れない…。
もっと変わっている旗印とかあるのでしょうね。
幕末を休憩するときがあれば、戦国時代をもう少し勉強するのもいいかも。

青空に白い幟が映えていました。
清々しく感じました。


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石田三成

石田三成陣・笹尾山遠景

2009年07月12日
石田三成の陣があった、笹尾山を関ヶ原(決戦地碑の辺り)から眺ました。
笹尾山遠景1295
    標準で撮った写真
笹尾山の中腹に「大一台万大吉」の旗印が書かれた幟が見えます。
麓に見えるのは、蒲生郷舎陣の幟と島左近の幟です。

笹尾山遠景2296
   少しアップで撮りました。
たくさん幟が立っています。

笹尾山に登って、関ヶ原を一望するのも良かったですが、こうして笹尾山を遠くからみうるのもいいものです。
敵方からの目線になるのでしょう。
もしくは離れた場所にいる見方の目線。

こうしてみると、笹尾山から関ヶ原はよく見えますが、他の場所からも笹尾山はよく見えてしまいます。
この場所を陣とするのは、良いのか悪いのか…。
戦国ファンの方、どうなのでしょうか?

笹尾山では1組、決戦地で1組ほどしか、訪れている人に会いませんでした。
今はドラマの関係でどうかは判りませんが、ゆっくりと歴史に耽ることが出来ました。

全国的に有名になった、“ひこにゃん”をさらに引き立てるために、島左近由来のキャラクターとして、“しまさこにゃん”。
後に島左近の主君である石田三成をモデルにした“いしだみつにゃん”も作られているそうです。
「敵役ではない」そうです。






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石田三成陣跡-笹尾山

2009年07月11日
石田三成陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原)になります。
石田三成陣跡1285

石田三成陣跡5289  石田三成陣跡4288

石田三成陣跡3287

三成は、北国街道を守備するため、兵6,000と豊臣の兵2,000を笹尾山の正面に配しました。
竹矢来を二重に田の中に囲い、竹矢来の前面に島左近を、中間に蒲生郷舎を置き、三成自身はこの山頂で指揮しました。
この山の前面が最大の激戦地でした。

石田三成陣跡7291
     二重の竹矢来

石田三成陣跡蒲生8292
   蒲生郷舎陣

石田三成陣跡2286
  笹尾山より関ヶ原を望む

関ヶ原町HPなどより

国道365号の小池北交差点から東へ入り、100mちょっと行った交差点を北へ曲がると笹尾山下の駐車場につきます。
私も来るまで連れて行ってもらったので、電車からの徒歩の情報は地図上だけになってしまいます。
今回は記述しないでおきます。

石田三成陣跡が一番簡単にわかるのかもしれません。

関ケ原といえば、冬、雪で新幹線がよく徐行する場所です。
冬の関ヶ原も訪れてみたいです。

まず私の関ケ原のイメージは、
何も無い草の原っぱが永遠と続いていて、見渡す限り家も何もありません。
その原っぱの真ん中に、石碑がひとつ建っている。
そんなイメージでした。
いろいろな関ケ原関係(?)の写真はそんな風景ではなかったですか?

確かに現地は、広く平らな土地でした。
しかし広いですが、私が想像していたより狭かったです。
小高い丘などもあり、イメージが間違っていたことに愕然としました。

ここは石田三成の陣跡です。
石田三成といえば、今NHKの大河ドラマにも登場していますから、今はあのイメージですね。
そして実物との違いでガッカリするものなのですよね。
といっても、石田三成の実物は写真がないので、わかる事がありません。
肖像画はどこまで信用していいのやら。

本当に低い丘ですが、関ケ原を一望する事ができました。
確かにいい場所ですね。
石田三成は直江兼続と策を練ったとか…。
“天地人”のあの二人が話している口径が目の前に出てきます。

この土地で大決戦があったのです。
特にこの山の前面は激戦地です。
多くの血が流れて、血生臭いく、腐臭がして、見ていられない光景があったのでしょう。
天下分け目の戦いといわれる、歴史に残る戦いがあったのです。
今は本当に何もない、所々に碑がある程度です。
逆にいえば、何もないまま残しているので、当時を偲ぶ事ができるのですよね。
ここに新興住宅地やビルが建っていたら、正直幻滅ですもの。
敵味方入り乱れての戦いが想像できます。

幕末の戦いとはまた違ったものだったのでしょう。
戦国時代ファンも多いそうですので、きっとこれからも残していってもらえると思っています。


関ケ原の戦い







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