義士宅跡-補足

2009年07月08日
赤穂四十七義士のうち、赤穂市内に屋敷があったと判明しているのは21名。
現在は民家や公園、空き地など様々な形に姿を変えていますが、それぞれの義士宅跡には義士を紹介する説明板と石標が立っています。
21ヵ所の義士宅跡を探して、当時の義士たちの生活を想像してみてはどうでしょうか?
赤穂市HPより


赤穂市 地図

なぜ福知山線脱線事故は起こったのかなぜ福知山線脱線事故は起こったのか
(2005/08)
川島 令三

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播磨赤穂城

2009年07月08日
赤穂浪士・忠臣蔵の故郷、播磨赤穂城(兵庫県赤穂市加里屋)です。
赤穂城全景  赤穂城見取図
国の史跡および名勝に指定されている、別名・加里屋城、大鷹城。

赤穂城は、慶長5年に関ヶ原の戦功により播磨姫路城主となった池田輝政の所領となり、重臣垂水勝重が現在の本丸・二の丸のところに陣屋造りの「掻き上げの城」を築きました。
池田輝政の五男池田政綱が35,000石を領して城主となりました。
寛永8年、政綱は嗣子が無く没し、政綱の弟輝興が佐用利神城から赤穂城主となりました。 
正保2年に池田輝興改易後、常陸笠間から浅野長直が入封し、慶安元年に幕命により、池田氏の陣屋を城に改築しました。

縄張りは変形輪郭式。
本丸と二の丸が輪郭式に配され、その北側に三の丸が梯郭式に置かれています。
銃砲撃戦を意識した設計となっており、十字砲火が可能なように稜堡に良く似た横矢掛かりが数多く用いられています。
縄張りは赤穂浅野氏初代長直の時代、浅野氏の軍師で甲州流兵学者の近藤三郎左衛門正純によってなされています。
長直は築城中、山鹿素行を招聘し、縄張りについて意見を聞き、これにより二の丸周辺の手直しがされました。
それまでは一重の堀に囲まれた掻上城という質素なものでした。

赤穂城は5万石の浅野氏には過度に広壮で、これがために財政難に陥っていました。
5層天守の造営も計画されていたが幕府への遠慮か財政難の為か造営されず、天守台のみが今日に残っている。

市内を流れる千種川より上水道を敷設し、城内のみならず城下各戸にも給水されていました。
日本三大上水道の一つに数えられています。

明治時代前期に城内の建物は破却され石垣と堀のみが残っていました。


幕末の赤穂藩は、財政難に悩んでいました。
文久2年、攘夷のための砲台建造を命ぜられ、そのやりくりに苦しみました。
藩内には保守派と改革派の激しい対立があり、先に、足軽から勘定奉行に抜擢されて藩政改革を進めようとした鞍懸寅次郎が保守派のために追放されています。
非常時に出くわした改革派は、保守派の執政森主税、参政村上真輔を暗殺しています。
土佐藩、長州藩へ走って、国事に奔走するものもありました。

鳥羽・伏見戦後、姫路城の警衛を務めています。
明治2年、版籍奉還があり、この年、改革派の6人が村上真輔一派に襲われて斬殺されるという内訌を繰り返しています。

江戸開城ののち下総市川から関東、会津、箱館へ抗戦をつづけた旧幕府歩兵奉行の
大鳥圭介は、領内赤穂郡の出身です。
Wikipedia&幕末維新史事典より


天守台より一望しました。
いろいろな建物が復元されているので、今はもっと建物があるのかもしれません。
何も残っていないというのも、忠臣蔵の物語とオーバーラップしていました。
歴史の悲しさを感じる風景でした。
しかしそれだけではなく、山と海に挟まれて、とても長閑な風景でした。
もし刃傷事件がなければ、とても平和でいい藩だったのではないかと思いました。
浅野内匠頭は、短気であったとも聞きましたが…。

私が赤穂浪士を知ったのは、NHK大河ドラマ「峠の群像」でした。
原作本も読んで、大河ドラマも見ていました。
浅野内匠頭が隆大介氏、大石内蔵助が緒方拳氏、吉良上野介を伊丹十三氏でした。
この浅野内匠頭がすごく良い人に描かれていました。
大石内蔵助や吉良上野介より、浅野内匠頭がすごく印象に残っています。

吉良上野介は本当に、意地悪な人だったのでしょうか?
人間同士ですから、合う合わない、好き嫌いはあって普通ですが、どれ程の確執があったのか、私は詳しくないのでわかりませんが、よほどの事なのでしょう。
でも、浅野内匠頭が短気な人というのが事実ならば、もしかしたら本当に些細な事が原因かもしれませんね。
それを考えるのが、歴史を楽しむ一つでしょうね。

吉良と大石の二人は、近衛家諸大夫進藤家と斎藤家を通じる形で遠縁があるそうです。
吉良から見れば、妻の母親の実家を継いだ者が大石家の血の流れる者だったということになる。
しかし、事件前から面識があったかどうかは不明。
という事です。
世間は広いようで狭いですよね。

箱館戦争で土方歳三と共に戦った大鳥圭介が赤穂出身というのも、実は初めて知りました。
赤穂浪士の精神、血を受け継いでいたのでしょうか。
最後まで戦い抜いた姿は、忠臣蔵そのものという感じもします。

藩内では、保守派と改革派が血を流しあっています。
血気盛んなのも、赤穂藩気質なのかもしれません。


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大石神社

2009年07月07日
大石神社(兵庫県赤穂市上仮屋129・旧城内)は、浅野家江戸詰の家老、藤井又左衛門と大石内蔵助の屋敷跡に大正元年に四十七義士を祀る神社として鎮座しました。
大石神社
祭神は、大石内蔵助以下四十七義士、中折の烈士萱野三平を主神とし、浅野家三代、本能寺の変に散った森蘭丸ら森家の武将を合祀しています。
四十七義士が苦労を重ね、長い時間をかけて大きな望みを達成したことにより、願望成就、大願成就の神として知られ、全国から多くの参拝客が訪れる神社でもあります。
赤穂市HPより


大石内蔵助屋敷から、屋敷の裏側という感じで大石神社があります。
大石内蔵助の屋敷があった場所ですから、それはもっともな事ですね。

大石神社は大正に祀られるようになったので、新しいといえる建物です。
参道には石像がずらりと並び、最初に目にした時は、ちょっと異様な風景でした。
さすがに私も、1体1体写真は撮りませんでした。
新選組や幕末関係だったら、撮っていたはずです(笑)

大石神社の横辺りに駐車場があったからか、ここが一番人が多かったです。


忠臣蔵 史跡


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大石邸長屋門

2009年07月06日
大石邸長屋門(兵庫県赤穂市上仮屋旧城内) 。
大石内蔵助屋敷1  大石内蔵助屋敷2


屋敷?
この建物の写真をどこで撮ったか判らなくなりました。
大石邸長屋門を裏からみてる?

浅野赤穂藩の家老、大石家二代の屋敷の長屋門で、屋敷は畳数にして308畳ありました。

浅野内匠頭の刃傷事件の際、その知らせを持って早駕籠で駆けつけた早水藤左衛門、萱野三平が実際にたたいたのもこの門です。

享保14年、建物の大半が火災に遭いましたが、長屋門だけが焼失をまぬがれました。
赤穂市HPより


JR赤穂線播州赤穂駅から南へまっすぐに進むこと1㎞で、赤穂城に着きます。
お城通り交差点からだと、半分の500mほどです。
その城内入口付近に大石内蔵助屋舗があります。

江戸で刃傷事件が起き、それで終わることなく、忠臣蔵となる始まりがこの大石邸長屋門だといえます。
早水藤左衛門、萱野三平がこの門を叩かなければ、忠臣蔵という話は無かったかもしれません。
赤穂浪士・忠臣蔵ファンにとっては、大切な場所なのでしょう。

このあたりは城内になるので、観光客も多くいてました。
たぶん電車で来る人は少ないと思います。
観光バスや車の人が多そうです。

さすがにご家老様のお屋敷です。
門構えだけでも、普通に住めそうでした。
お城の建築物が残っていないので、この門がさらに大きく感じました。

赤穂といえば“塩”です。
海まで行くと、赤穂海浜公園があります。
塩田が復元され、塩作り体験も出来るので体験してみてはどうでしょう?
赤穂に住む藩士に近づいた気分になれるかもしれません。
藩士が塩作りをしたとは思えませんが、その風景は見ていたでしょう。


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花岳寺-義士墓所

2009年07月05日
花岳寺にある義士の墓所(兵庫県赤穂市加里屋1992) です。
義士墓所1  義士墓所2
初代藩主・浅野長直が浅野家の菩提寺として建てた寺で、長直の両親の法名をとって名づけられました。浅野家、永井家、浅野家断絶後の藩主森家の菩提寺としても知られています。
大石家先祖の墓もあります。

入り口の門は旧赤穂城の西惣門で、明治6年に花岳寺に移されました。
境内には、大石内蔵助が母の冥福を祈って植えた美しい松もあります。

本堂横には浅野内匠頭を中心に義士たちの墓が並ぶ墓所があり、ここには遺髪が納められていると伝えられています。
墓所の入り口には大石内蔵助の屋敷から移し植えた“忠義桜”が、毎年花を咲かせています。
また境内には、赤穂を去る内蔵助がその樹の下で「名残りの松」(二代目)も残っています

赤穂藩と義士ゆかりの品々が保存されている『宝物館』や『義士木像堂』など見所も数多くあります。
赤穂市HPより


お城通り交差点を西へ曲がり100m行き、ジュエリー店角を南へ進むと花岳寺です。

赤穂浪士の墓として有名なのは、東京の泉岳寺です。

また京都市山科の瑞光院にも、浅野内匠頭の墓と四十六士の遺髪塔、大石内蔵助の墓碑、それを囲むように四十五士(討ち入り後に姿を消し余命を全うした、寺坂吉右衛門が含まれていません。)の墓碑があります。
瑞光院の内匠頭の墓は内蔵助が短刀と衣冠を埋めて建立し、墓参のたびに同志との密談の場となったといいます。

日本人の心を掴んだ赤穂浪士・忠臣蔵の義士のお墓は、少なくとも3箇所あるのです。
泉岳寺に葬られたのでしょうかね。
山科の瑞光院、赤穂の花岳寺は遺髪が納められているようなので、彼らが埋葬されたのはやはり泉岳寺?
故郷が一番落ち着いているかな?

江戸・元禄時代の武士の考え方は想像も出来ないのですが、主君の為にここまで出来るものなのでしょうか?
新選組なども、自分とは遠い人の為に戦ったのですが、お目通りさえできないような人の為に命を掛けられるものなのか…。
過去の歴史、物語としてではなく、実際にそんなことが起こったら、私はきっと逃げ出すでしょう。
今でも世界のあちらこちらで戦争が起こっていますが、一度世界中から戦争がなくなる、本当に平和な世界を体験してみたいです。


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