坂出ゆかりの6人

2014年09月20日
坂出駅をでると、垂れ幕?(垂れ幕ではないですね。何ていうのかな)が目に入りました。
坂出にゆかりのある6人が描かれています。

坂出6人

「古のロマンの町」を展開しているそうです。
今回は瀬戸大橋を渡るというのが目的だったので、史跡を廻る時間はゼロだったのですが、今度は史跡巡りも楽しそう。

強引に意味づけするならば、西行法師は幕末の高杉晋作が自身に「東行」と付けるほど、尊敬する人物。
高杉晋作に影響を与えた人として、幕末史跡巡りもできますね。

柿本人麻呂は何となく謎めいた人で興味があります。
崇徳上皇や菅原道真は“怨霊”というキーワードでドキドキします。
やっぱり歴史はワクワクしますね。


柿本人麻呂
柿本人麻呂(斉明天皇6年(660年)頃 - 養老4年(720年)頃)
飛鳥時代の歌人
後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。
また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。

柿本氏は、孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たります。
人麻呂の出自については、父を柿本大庭、兄を柿本猨(佐留)とする後世の文献があります。
また、同文献では人麻呂の子に柿本蓑麿(母は依羅衣屋娘子)を挙げており、人麻呂以降子孫は石見国美乃郡司として土着、鎌倉時代以降益田氏を称して石見国人となったされる。
いずれにしても、同時代史料には拠るべきものがなく、確実なことは不明とみるほかない。

彼の経歴は『続日本紀』等の史書にも書かれていないことから定かではなく、『万葉集』の詠歌とそれに附随する題詞・左注などが唯一の資料であす。
一般には天武天皇9年(680年)には出仕していたとみられ、天武朝から歌人としての活動をはじめ、持統朝に花開いたとみられることが多い。

賀茂真淵によって草壁皇子に舎人として仕えたとされ、この見解は支持されることも多いが、決定的な根拠があるわけではありません。
複数の皇子・皇女(弓削皇子・舎人親王・新田部親王など)に歌を奉っているので、特定の皇子に仕えていたのではないとも思われます。
確実に年代の判明している人麻呂の歌は持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっており、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われます。


『万葉集』巻2に讃岐で死人を嘆く歌が残り、また石見国は鴨山での辞世歌と、彼の死を哀悼する挽歌が残されているため、官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとみられることも多いが、この辞世歌については、人麻呂が自身の死を演じた歌謡劇であるや、後人の仮託であるとの見解も有力です。
また、文武天皇4年(700年)に薨去した明日香皇女への挽歌が残されていることからみて、草壁皇子の薨去後も都にとどまっていたことは間違いありません。
藤原京時代の後半や、平城京遷都後の確実な作品が残らないことから、平城京遷都前には死去したものと思われます。

その終焉の地も定かではない。有力な説とされているのが、現在の島根県益田市(石見国)であす。
地元では人麻呂の終焉の地としては既成事実としてとらえ、高津柿本神社としてその偉業を称えています。
しかし人麻呂が没したとされる場所は、益田市沖合にあったとされる鴨島です。
「あった」とされるのは、現代にはその鴨島が存在していないからです。
鴨島があったとされる場所は、中世に地震(万寿地震)と津波があり水没したといわれます。
いわゆる伝説の域を出るものではありません。
その他にも、石見に帰る際、島根県安来市の港より船を出したが、近くの仏島で座礁し亡くなったという伝承があります。
この島は現在の亀島と言われる小島であるという説や、河砂の堆積により消滅し日立金属安来工場の敷地内にあるとされ、正確な位置は不明になっています。

また他にも同県邑智郡美郷町にある湯抱鴨山の地という斎藤茂吉の説があり、益田説を支持した梅原猛の著作の中で反論の的になっています。


理源法師
聖宝(しょうぼう、天長9年(832年) - 延喜9年7月6日(909年8月29日))は、平安時代前期の真言宗の僧。
醍醐寺の開祖で、真言宗小野流の祖。
また、後に当山派修験道の祖とされます。
俗名は恒蔭王。
天智天皇の6世孫にあたり、父は葛声王(かどなおう)。
諡号は理源大師。
『古今和歌集』に歌がりあます。

空海の実弟真雅の入室弟子で、源仁(真雅の弟子)の付法弟子。
貴顕社会との交流を重視した師真雅に対して、華美や権勢と一定の距離を置き、清廉潔白・豪胆な人柄として知られました。
真雅在世中に真言宗の傍流的位置にとどまっていた背景には、真雅との確執があったとも言われます。
出家から長い間三論宗を中心に南都諸宗を学んでいましたが、壮年期以降、本格的に受法して真言密教正嫡となり、宇多天皇の厚い帰依を受けて東寺長者、僧正などの重職に昇りました。
また、役小角に私淑して吉野の金峰山で山岳修行を行うとともに、参詣道の整備や仏像造立などで金峰山の発展に尽力しました。
このため、聖宝を、役小角以降途絶えていた修験道の再興の祖とする伝承が生まれました。
聖宝の著作と伝えられる修験道関係の書は、今日では、すべて聖宝に仮託して後世に書かれたものとみられています。

伝説
東大寺の僧房から鬼神を追いやる
聖宝は東大寺での修学中、ほかに居住の房がなかったため、建立当初から鬼神の棲家となっており、人が住めなかった東僧房の南第二室に住んだ。
鬼神はさまざまな姿形で現れたが、結局、聖宝に勝てず、他所に去っていった。

東大寺の上座僧と賭けをする
東大寺の上座僧に極めてけちで貪欲な男がいた。その上座僧に聖宝は賭けごとを持ちかけ「あなたは私がどんなことをしたら、多くの僧たちに供養しますか」というと、上座僧は実行不可能なことを言おうと考え「賀茂祭の日に褌だけの裸になり、干鮭を太刀として差し、やせた牝牛にまたがって、一条大路を大宮(皇居)から賀茂川の河原まで、大声で名乗りを上げながら通ってみよ。そうすれば東大寺のすべての僧たちに大いに供養を施すことにする」と約束しました。
すると聖宝はその通り行動し、上座僧は東大寺の大衆に大いに供養を施すことになった。
これを聞いた天皇は、「聖宝は身を捨てて他の人を導く立派な人物である」と、聖宝を僧正にとりたてた。

犬嫌いの聖宝と愛犬家の師真雅
聖宝は犬を嫌っていたが、その師真雅は愛犬家でした。
ある日、聖宝は師の留守中、愛犬をとある猟師に譲ってしまう。
帰ってきた真雅は、犬がいなくなったのは聖宝のしわざと気づき激怒。聖宝を追放する。


四国で一番弟子観賢を見出す
追放された聖宝は、諸国流浪の乞食坊主となり、讃岐国ですばらしい法器をそなえた子供に出会います。
聖宝は、「いっしょに京に行かないか」との誘いを承知したその子を背負って京に戻り、般若寺に寄宿し、乞食により自らと子供を養っていました。
ある日、太政大臣藤原良房が聖宝の養う子供の非凡の相を見て、息子の遊び相手として邸に住ませようとしたが、聖宝は学問が疎かになるといって断りました。
その後、良房は聖宝を伴って貞観寺の真雅を訪れ、和解させました。
聖宝が養っていた子供は読書から深く学んで、後に般若寺の僧正観賢となりました。

金峯山の大蛇を退治し修験再興の祖となる
役行者が修行したという吉野の金峯山は、大蛇が棲んで修行者が入れなくなっていました。
聖宝がこの大蛇を退治したため、金峯山は修行の場として復興し今日に至るといいます。
大蛇退治の伝承は百貝岳の名の由来となった。

金峯山から巨石を持ち帰る
東大寺三面僧房のくぬぎの下にある巨石は、聖宝が金峯山から持ち帰ったものといわれます。

醍醐寺の開創
精舎建立の志をもって仏法相応の地を求めていた聖宝は、普明寺で祈念のおり、五色の雲がたなびくのを見て、近くの笠取山に登った。
故郷に帰ったかのような喜びを覚えた聖宝の前に一人の老翁が現れ、泉の水を嘗めて「醍醐味だ」とほめた。
聖宝は老翁に「ここに精舎を建立し仏法を広めたいのだが、仏法久住の地となるだろうか」と尋ねました。
すると老翁は「この山は昔、仏が修行したところである。私はこの山の地主神だ。和尚にこの山を献じ、仏法を広め衆生を救うため、この地を護ろう」と答え姿を消しました。
聖宝は感涙を流しました。
貞観16年6月1日、聖宝は山頂に庵を結び、准胝観音像と如意輪観音像の彫像、堂舎建立に着手。
2年後の貞観18年6月18日、両観音像とそれを安置する堂(准胝堂)が完成した。
このとき天台宗の遍照が落成供養の導師を務めたともいわれます。

清滝権現の降臨
延喜2年2月7日、醍醐寺の聖宝のもとに准胝・如意輪観音の化身、清滝権現を名乗る神女が降臨。
もとの名は青龍で、唐の青龍寺に住んでいたが、ここで密教を学んだ弘法大師に乞うて三昧耶戒を受け、津妃命の名をもらって、帰国する大師を護りつつ渡日し、笠取山の東方の高嶺を居所と定め、水にちなんで名を清滝と改めたという。

聖徳太子の生まれ変わり
聖徳太子は「私は日本国に三度生まれる。その名にはともに聖の字がある」と予言した。
すなわち、聖徳太子、聖武天皇、聖宝の3人である。



菅原道真
菅原 道眞(承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。
官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。

忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇りました。
しかし、左大臣藤原時平に讒訴され、大宰府へ権帥として左遷され現地で没しました。
死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となり、現在は学問の神として親しまれます。

喜光寺(奈良市)の寺伝によれば、道真は現在の奈良市菅原町周辺で生まれたとされます。
ほかにも菅大臣神社(京都市下京区)説、菅原院天満宮神社(京都市上京区)説、吉祥院天満宮(京都市南区)説、菅生寺(奈良県吉野郡吉野町)、菅原天満宮(島根県松江市)説もあるため、本当のところは定かではないとされています。
また、余呉湖(滋賀県長浜市)の羽衣伝説では「天女と地元の桐畑太夫の間に生まれた子が菅原道真であり、近くの菅山寺で勉学に励んだ」と伝わります。

道真は幼少より詩歌に才を見せ、貞観4年(862年)、18歳で文章生となりました。
貞観12年(870年)、方略試に中の上で合格し、規定によれば3階位を進めるべきところ、それでは五位に達してしまうというので1階のみ増して正六位上に叙せられます。
翌年には玄蕃助、さらに少内記に遷任。
貞観16年(874年)には従五位下となり兵部少輔、ついで民部少輔に任ぜられます。
元慶元年(877年)、式部少輔に任ぜられました。
同年に家の職である文章博士を兼任します。
元慶3年(879年)、従五位上に叙せられ、仁和2年(886年)、讃岐守を拝任、式部少輔兼文章博士を辞し、任国へ下向。
仁和4年(888年)、阿衡事件に際して、藤原基経に意見書を寄せて諌めたことにより、事件を収めます。
寛平2年(890年)、任地讃岐国より帰京した。

これまでは家格に応じた職についていた道真は、宇多天皇の信任を受け、以後要職を歴任することとなります。
皇室の外戚として権勢を振るいつつあった藤原氏に当時有力者がいないこともあり、宇多天皇は道真を用いて藤原氏を牽制した。
寛平3年(891年)、蔵人頭に補任。
ついで式部少輔と左中弁を兼務。
翌年、従四位下に叙せられ、左京大夫を兼任。
さらに翌年には参議式部大輔に補任。左大弁・勘解由長官・春宮亮を兼任。
寛平6年(894年)、遣唐大使に任ぜられるが、道真の建議により遣唐使は停止された(延喜7年(907年)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史にここで幕を下ろすこととなった)。
寛平7年(895年)には近江守を兼任し、従三位権中納言に叙任。春宮権大夫を兼任。長女衍子を宇多天皇の女御としました。
翌年、民部卿を兼任。
寛平9年(897年)には三女寧子を宇多天皇の皇子・斉世親王の妃としました。
同年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許しました。
正三位権大納言に叙任し、右近衛大将・中宮大夫を兼任する。

醍醐天皇の治世でも道真は昇進を続けるが、道真の主張する中央集権的な財政に、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族の反撥が表面化するようになります。
また、現在の家格に応じたそれなりの生活の維持を望む中下級貴族の中にも道真の進める政治改革に不安を感じて、この動きに同調するものがいました。
昌泰2年(899年)、右大臣に昇進し右大将を兼任。
翌年、三善清行は道真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭すが、道真はこれを容れなせんでした。
昌泰4年(901年)、従二位に叙せられたが、斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀ったと誣告され、罪を得て大宰権帥に左遷されます。
宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。
長男高視を初め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。
この事件の背景については、時平による全くの讒言とする説から宇多上皇と醍醐天皇の対立が実際に存在していて道真がそれに巻き込まれたとする説まで諸説ある。

道真は延喜3年(903年)、大宰府で薨去し同地に葬られた(現在の太宰府天満宮)。
道真が京の都を去る時に詠んだ「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。
その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」も有名である。


久米通賢
※前回のブログを参照してください。


崇徳上皇
崇徳天皇(元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日))は日本の第75代天皇(在位保安4年2月19日(1123年3月18日) - 永治元年12月7日(1142年1月5日))。
退位後は新院、
讃岐院とも呼ばれた。
諱は顕仁(あきひと)。

鳥羽天皇と中宮・藤原璋子(待賢門院)の第一皇子として生まれるが、父には疎んぜられた。
『古事談』には、崇徳天皇は白河法皇と璋子が密通して生まれた子であり、鳥羽は崇徳を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたという逸話が記されています。
ただしこれは『古事談』のみの記述であり、真偽は不明である。

元永2年(1119年)5月28日に生まれ、6月19日に親王宣下を受ける。
保安4年(1123年)正月28日に皇太子となり、同日、鳥羽天皇の譲位により践祚、2月19日に即位した。
大治4年(1129年)、関白・藤原忠通の長女である藤原聖子(皇嘉門院)が入内。
同年7月7日、白河法皇が亡くなり鳥羽上皇が院政を開始。
翌大治5年(1130年)、聖子は中宮に冊立さました。
崇徳帝と聖子との夫婦仲は良好だったが子供は生まれず、保延6年(1140年)9月2日女房・兵衛佐局が崇徳帝の第一皇子・重仁親王を産むと、聖子と忠通は不快感を抱いたという。
保元の乱で忠通が崇徳上皇と重仁親王を敵視したのもこれが原因と推察されます。

院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛して、永治元年(1141年)12月7日、崇徳帝に譲位を迫り、得子所生の体仁親王を即位させた(近衛天皇)。
体仁親王は崇徳院の中宮・藤原聖子の養子となっており「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』)。
天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳院にとってこの譲位は大きな遺恨となった。
崇徳院は鳥羽田中殿に移り、新院と呼ばれるようになった。

崇徳院は在位中から頻繁に歌会を催していたが、上皇になってからは和歌の世界に没頭し、『久安百首』を作成し『詞花和歌集』を撰集した。
法皇も表向きは崇徳院に対して鷹揚な態度で接し、崇徳院の第一皇子である重仁親王を美福門院の養子に迎えた。
これにより近衛天皇が継嗣のないまま崩御した場合には、重仁親王への皇位継承も可能となった。
また、近衛天皇の朝覲行幸に際して、法皇は美福門院とともに上皇を臨席させる(『本朝世紀』)など崇徳院を依然として天皇の父母もしくはそれに準じる存在と位置づけており、近衛天皇が健在だったこの時期においては、崇徳院は鳥羽院政を支える存在とみなされ、両者の対立はまだ深刻な状況にはなかったとする説もあります。

久寿2年(1155年)7月23日、病弱だった近衛天皇が17歳で崩御し、後継天皇を決める王者議定が開かれた。候補としては重仁親王が最有力だったが、美福門院のもう一人の養子である守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。
鳥羽法皇や美福門院は、崇徳院に近い藤原頼長の呪詛により近衛天皇が死んだと信じていたといい(『台記』)、背景には崇徳院政によって自身が掣肘されることを危惧する美福門院、父・藤原忠実と弟・頼長との対立で苦境に陥り、崇徳院の寵愛が聖子から兵衛佐局に移ったことを恨む藤原忠通、雅仁親王の乳母の夫で権力の掌握を目指す信西らの策謀があったと推測されます。
これにより崇徳院政の望みは粉々に打ち砕かれた。

保元元年(1156年)5月、鳥羽法皇が病に倒れ、7月2日申の刻(午後4時頃)に崩御。
崇徳院は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできなかった。
『古事談』によれば、法皇は側近の葉室惟方に自身の遺体を崇徳院に見せないよう言い残したという。
崇徳院は憤慨して鳥羽田中殿に引き返した。
7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流され、法皇の初七日の7月8日には、藤原忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が摂関家の正邸・東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。
これらの措置は、法皇の権威を盾に崇徳院・藤原頼長を抑圧していた美福門院・藤原忠通・院近臣らによる先制攻撃と考えられます。

79月日の夜中、崇徳院は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある統子内親王の御所に押し入った。
『兵範記』同日条には「上下奇と成す、親疎知らず」とあり、子の重仁親王も同行しないなど、その行動は突発的で予想外のものでした。
崇徳院に対する直接的な攻撃はなかったが、すでに世間には「上皇左府同心」の噂が流れており、鳥羽にそのまま留まっていれば拘束される危険もあったため脱出を決行したと思われます。

翌10日には、藤原頼長が宇治から上洛して白河北殿に入り、崇徳院の側近である藤原教長や平家弘・源為義・平忠正などの武士が集結します。
崇徳上皇方に参じた兵力は甚だ弱小であり、崇徳院は今は亡き平忠盛が重仁親王の後見だったことから、忠盛の子・清盛が味方になることに一縷の望みをかけた。
重仁親王の乳母・池禅尼は上皇方の敗北を予測して、子の平頼盛に清盛と協力することを命じた(『愚管抄』)。
後白河天皇方は、崇徳院の動きを「これ日来の風聞、すでに露顕する所なり」(『兵範記』7月10日条)として武士を動員し、11日未明、白河北殿へ夜襲をかけます。
白河北殿は炎上し、崇徳院は御所を脱出して行方をくらました。

13日、逃亡していた崇徳院は仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼する。
しかし覚性が申し出を断ったため、崇徳院は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれました。
23日、崇徳院は武士数十人が囲んだ網代車に乗せられ、鳥羽から船で讃岐国へ下った。
天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路国配流以来、およそ400年ぶりの出来事でした。
同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけ。
その後、二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164年)8月26日、46歳で崩御。
一説には、京からの刺客である三木近安によって暗殺されたともされる。

『保元物語』によると、崇徳院は讃岐国での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念して(血で書いたか墨で書いたかは諸本で違いがある)、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返してきた。
これに激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされている。

一方『今鏡』「すべらぎの中第二 八重の潮路」では、「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で悲しさの余り、病気も年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はない。
また配流先で崇徳院が実際に詠んだ「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(『風雅和歌集』)という歌を見ても、悲嘆の感情はうかがえても怨念を抱いていた様子はない。
承久の乱で隠岐国に配流された後鳥羽上皇が、「われこそは にゐじま守よ 隠岐の海の あらきなみかぜ 心してふけ」(『遠島百首』)と怒りに満ちた歌を残しているのとは対照的です。

崇徳院は、配流先の讃岐鼓岡木ノ丸御所で国府役人の綾高遠の娘との間に1男1女をもうけている。

保元の乱が終結してしばらくの間は、崇徳院は罪人として扱われた。
それは後白河天皇方の勝利を高らかに宣言した宣命(『平安遺文』2848)にも表れている。
崇徳院が讃岐国で崩御した際も、「太上皇無服仮乃儀(太上皇(崇徳上皇)、服仮(服喪)の儀なし)」(『百錬抄』)と後白河院はその死を無視し、「付国司行彼葬礼、自公家無其沙汰(国司を付けてかの(崇徳上皇)の葬礼を行い、公家よりその沙汰なし)」(『皇代記』)とあるように国司によって葬礼が行われただけで、朝廷による措置はなかった。
崇徳院を罪人とする朝廷の認識は、配流された藤原教長らが帰京を許され、藤原頼長の子の師長が後白河院の側近になっても変わることはなかった 。
当然、崇徳院の怨霊についても意識されることはなかった。

ところが安元3年(1177年)になると状況は一変。
この年は延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ長く続く動乱の始まりとなった。
『愚昧記』安元3年5月9日条には「讃岐院ならびに宇治左府の事、沙汰あるべしと云々。これ近日天下の悪事彼の人等所為の由疑いあり」とあり、以降、崇徳院の怨霊に関する記事が貴族の日記に頻出するようになります。
『愚昧記』5・高松院・六条院・九条院が相次いで死去している。後白河や忠通に近い人々が相次いで死去したことで、崇徳や頼長の怨霊が意識され始め、翌年の大事件続発がそれに拍車をかけたと思われる。
崇徳の怨霊については、『吉記』寿永3年(1184年)4月15日条に藤原教長が崇徳院と頼長の悪霊を神霊として祀るべきと主張していたことが記されており、かつての側近である教長がその形成に深く関わっていたと見られます。
精神的に追い詰められた後白河院は怨霊鎮魂のため保元の宣命を破却し、8月3日には「讃岐院」の院号が「崇徳院」に改められ、頼長には正一位太政大臣が追贈された(『百錬抄』)。

寿永3年(1184年)4月15日には保元の乱の古戦場である春日河原に「崇徳院廟」(のちの粟田宮)が設置された。
この廟は応仁の乱後に衰微して天文年間に平野社に統合された。
また崩御の直後に地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺(現在の白峯寺)に対しても官の保護が与えられたとされている。

怨霊としての崇徳院のイメージは定着し、近世の文学作品である『雨月物語』(「白峯」)、『椿説弓張月』などにおいても怨霊として描かれ、現代においても様々な作品において怨霊のモチーフとして使われることも多い。

その一方で後世には、四国全体の守り神であるという伝説も現われるようになる。
承久の乱で土佐国に流された土御門上皇(後白河院の曾孫)が途中で崇徳天皇の御陵の近くを通った際にその霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて上皇と都に残してきた家族の守護を約束した。
その後、上皇の遺児であった後嵯峨天皇が鎌倉幕府の推挙により皇位に就いたとされている。
また、室町幕府の管領であった細川頼之が四国の守護となった際に崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われている(ともに『金毘羅参詣名所図会』・『白峰寺縁起)。

明治天皇は慶応4年(1868年)8月18日に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建した。

昭和天皇は崇徳天皇八百年祭に当たる昭和39年(1964年)に、香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を執り行わせている。

陵は、香川県坂出市青海町にある白峯陵に治定されている。
公式形式は方丘。

また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

京都市東山区祇園町南側に崇徳天皇御廟があり、毎月白峯神宮の神官による月次祭が執り行われています。



西行法師
西行(元永元年(1118年) - 文治6年2月16日(1190年3月31日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。
父は左衛門尉・佐藤康清、母は監物・源清経女。
同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子(単に西行の娘と呼ばれる)がある。
俗名は佐藤 義清(のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。
出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。

勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。
家集に『山家集』(六家集の一)『山家心中集』(自撰)『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目されます。

秀郷流武家藤原氏の出自で、藤原秀郷の9世孫。
佐藤氏は義清の曽祖父・公清の代より称し、家系は代々衛府に仕え、また紀伊国田仲荘の預所に補任されて裕福でした。
16歳ごろから徳大寺家に仕え、この縁で徳大寺実能や公能と親交を結ぶこととなる。
保延元年(1135年)18歳で左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、同3年(1137年)に鳥羽院の北面武士としても奉仕していたことが記録に残ります。
和歌と故実に通じた人物として知られていたが、保延6年(1140年)23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。

出家後は心のおもむくまま諸所に草庵をいとなみ、しばしば諸国を巡る漂泊の旅に出て、多くの和歌を残しました。

出家直後は鞍馬山などの京都北麓に隠棲し、天養元年(1144年)ごろ奥羽地方へ旅行し、久安4年(1149年)前後に高野山(和歌山県高野町)に入る。


仁安3年(1168年)に中四国への旅を行った。
このとき讃岐国の善通寺(香川県善通寺市)でしばらく庵を結んだらしい。
讃岐国では旧主・崇徳院の白峰陵を訪ねてその霊を慰めたと伝えられ、これは後代に上田秋成によって『雨月物語』中の一篇「白峰」に仕立てられているます。
なお、この旅では弘法大師の遺跡巡礼も兼ねていたようです。


後に高野山に戻るが、治承元年(1177年)に伊勢国二見浦に移った。
文治2年(1186年)に東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため2度目の奥州下りを行い、この途次に鎌倉で源頼朝に面会したことが『吾妻鏡』に記されています。

伊勢国に数年住まったあと、河内国の弘川寺(大阪府南河内郡河南町)に庵居し、建久元年(1190年)にこの地で入寂ました。
享年73。
かつて「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが藤原定家や慈円の感動と共感を呼び、当時名声を博した。

西行庵
西行が結んだとされる庵は複数あるが、京都の皆如庵は明治26年(1893年)に、当時の庵主・宮田小文と富岡鉄斎によって、再建されて現在も観光名所として利用されています。
その他にも、吉野山にある西行庵跡が有名です。
高杉晋作
「西へ行く人を慕うて東行く 我が心をば神や知るらむ」と歌い、東行と号した。こ
こでいう西へ行く人とは、他ならぬ西行を表している。
一方、西行に敬意を払う高杉自身は東にある、将軍のお膝元の江戸幕府討伐を目指した。
Wikipediaより








久米通賢翁顕彰碑

2014年09月09日
久米通賢翁顕彰碑(香川県坂出市元町一丁目1-1)が坂出駅北口を出た所にありました。

久米通賢翁2

すみません。
久米通賢…初めて聞きました。
いつの時代に活躍されたのかもわかりません。

が、碑があるという事は、有名な人なんだろう。
帰ったら調べなくっちゃ、という事で写真をパチリ。

調べてみると、香川県ですごい業績を残していますね。
伊能忠敬より先に地図を作っているのもビックリ!
出来る男だったのですね。

もし高松藩から出て仕事をすれば、幕府の頭脳になったかもしれないなような人に思いました。

それぞれの地元には凄い人がいるものです。
そしてもしかしたら、地方に埋もれたまま終わってしまい、実はとても惜しい人がたくさんいるのかもしれません。
が、いまの政治の世界ではそんな人がいるのでしょうか?


久米通賢
くめみちかた。つうけん[。
1780年(安永9年) - 1841年6月25日(天保12年5月7日)は、江戸時代の日本の発明家、暦学者、測量士、洋学者などです。
通称は栄左衛門。

伊能忠敬よりも早く、日本初の実測地図を作った人物です。
地元香川県では偉人として顕彰されており、「讃岐のエジソン」「塩田の父」などと称されます。

安永9年、讃岐国大内郡馬宿(現在の香川県東かがわ市)の農家に生まれました。
幼少のころから利発で学問好きな子だったため、引田港から大坂に向かう船の舵取りも務めていた父の嘉兵衛は、大坂に行くたび通賢のために書物を買ってきていました。
また、手先が器用で熊や獅子を粘土で作るのが得意だったため「獅子熊」と呼ばれていました。
7歳の頃、通賢は父に連れられ大坂の町の時計店に行く機会があり、当時最先端の機器であった時計の修繕を熱心に眺めていた。
そこへ別の客がやってきて店の者に時計の修繕を依頼したが、店の者は誰も手がすいていない。
そこで通賢が店の道具を借りて見よう見まねで修繕をしてみたところ、時計は元の通り動くようになったため、皆大いに驚き喜んだといいます。

寛政10年、大坂へ出て暦学者の間重富の門下となり、暦学・数学等を学びました。
享和2年、父・嘉兵衛が逝去したため帰郷。
その後も郷里で勉学に励みます。
江戸時代も末期になると、外国船が日本近海を訪れるようになっていたため、通賢も兵法、オランダ流砲術等を学んでいます。

文化3年、高松藩の測量方に採用され、領内の引田から西へと実地測量地図の作成に従事しました。
この地図は伊能図より早い讃岐国最古の実測地図です。
また翌年には軍艦の設計も行っています。

文化5年、幕府命令で日本地図を作成していた伊能忠敬一行が讃岐国を訪れ、通賢もこれに協力しました。

文化12年には従来の火縄式銃を火打ち石式に改良することに成功しています。

文政7年、このころ、財政難に陥っていた高松藩の第9代藩主松平頼恕は、通賢の多才な才能を見込んで財政再建策を頼った。
通賢はこれに応えて阿野郡坂出の浜に新たな塩田を開発することを進言。

文政9年、高松藩はこの案を採用し、通賢は普請奉行に任じられました。
通賢は塩田開発の陣頭指揮を執るだけでなく、自ら率先して作業に参加したため工夫達の士気も上がり、工事ははかどった。
ところが高松藩の財政難は深刻で、途中から塩田開発工事資金がとどこおるようになりました。
通賢は工事を完成させるため、私財を投入して工事を継続させます。
この献身的な働きのおかげで文政12年に坂出の東大浜、西大浜に入り浜式塩田がついに完成しました。
藩主頼恕は大いに喜び、通賢の功績を称えるため、現在も残る「阪出墾田之碑」(坂出市指定有形文化財)を建立しました。
この塩田完成で坂出の塩生産量は日本全体の約半分を占めるまでにいたり、高松藩の財政をうるおし、戦後に工業地域に転換されるまで塩業は讃岐国・香川県の代表的産業となりました。

天保7年、通賢は藩の職を辞し帰郷。
その後も日本初の国産マッチ(雷汞マッチ)等様々なものを発明しています。
1841年(天保12年)死去。

高松市にある久米通賢の旧宅は有形文化財に指定されています。
Wikipediaより











坂出駅

2014年09月07日
マリンライナーで坂出駅(香川県坂出市元町一丁目1-1)に到着です!

坂出駅

四国に上陸です。
四国に上陸する予定はなかったのですが、海もいま一つですし、お天気も危ういので瀬戸大橋を渡って四国に行きました。

坂出では、有名製麺所に行ってきました。
でも、朝11時ごろから長蛇の列だったので、お持ち帰り(待ち時間なし)を買ってきました。

お店で食べたらすごくおいしいんでしょうね。
出来たてで、専門職の方が茹であげますから。
しかし、家で茹でて食べましたが美味しかったです。
もしまた行くチャンスがあれば並んでみようかな。
その頃には、子供も大きくなっているでしょう。







与島の夕景

2009年10月07日
与島PA(香川県坂出市与島町)で夕日を見ました。
与島夕陽

与島夕陽2  与島夕陽3
坂出北ICから瀬戸大橋を通って8.2㎞の海上に位置します。

「与」は「くみする」の意で、多くの島が組になっているので与島になったという説もあります。

【面積】1.10平方㎞
【周囲】4.3㎞
【標高】74m
【世帯数】73世帯(2005.10.1)
【人口】142人(2005.10.1)

与島PAは上下線集約エリアであるため、Uターンが可能である。そのため与島PA利用者は同PA退出時に進行方向に関わらず与島料金所にて必ず検札を受けなければいけません(ここで料金を支払うことは無い)。
ちなみに制度としてUターンは認められており、Uターンした場合の料金も正式な利用料金として定められています。
坂出市HP&Wikipediaより


鳴門から室戸岬を回り、瀬戸大橋に向かいました。
瀬戸大橋で夕方になり、与島PAで一息しました。

夕日が沈む少し前の風景をみました。
綺麗でした。
与島PAにはほとんど人がいなくて、ゆっくりと夕日を眺めました。

山の端に日が沈むのも綺麗ですが、やはりこう水平線(あるいは海に浮かぶ島の向こう)に、日が沈むのが一番見ごたえがあるように思います。
私はどちらかというと、夕日派ですね。
“これから頑張るぞ!”という朝日派よりも、“今日もいい1日だった”という夕日派ですね。

土方歳三や近藤勇、沖田総司など新選組の面々はどちらが好きだったのでしょう。
朝日や夕日をみて、何かを思うこともあったのでしょうか?
土方歳三と一緒なら、一句詠んでもらうのに。
どんな句を読むのでしょう。



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