新選組を中心に歴史の舞台を巡ります
城東練兵場跡
2008年12月20日 (土) | 編集 |
会津藩の調練場、城東練兵場跡(京都府京都市左京区川端通荒神口上ル)です。
城東練兵場1  城東練兵場2
荒神橋の東詰に立つ京都織物会社の建物は、昭和43年に閉鎖された会社の名残りで、今は京都大学の東南アジア研究センターです。
この辺りと、南の京都大学病院の一帯は、文久4年2月に会津藩の調練場なり、会津藩兵の洋式調練が行われました。

戊辰戦争後は軍務官の調練場となり、慶応4年4月以降、官軍の東征に従うため、洋式調練した在京の諸藩兵は40藩に及びました。

明治5年、牧畜場となり、同13年には民間に払い下げられました。
写真でみる維新の京都より


京阪電鉄神宮丸太町駅から1本北の橋が荒神橋です。
丸太町橋の北が、京都大学医学部附属病院です。
その北隣が、東南アジア研究センターで、前が荒神橋ですから、駅ひとつ分程が、城東練兵場跡となるのではないでしょうか?
大雑把に、この辺!って感じですか?!

確かに、病院や研究センターなどで、広大な土地です。
調練、それも洋式調練をしようとすると、これぐらいの土地はいるでしょうね。

ここで会津藩が洋式調練をしたそうですが、どれほど最新の武器を使っての調練だったのでしょうか?
新選組も参加するなり、見学するなりすればよかったのかも。
でも、新選組はやはり“刀”ですよね。
土方歳三や沖田総司が小銃を持っている姿は想像できません。
すらりと刀を閃かせ………。あぁ〜やっぱりかっこいい。

会津藩の練兵場跡から、方向違いな妄想をしてしまいました(笑)


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早乙女 貢

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京都守護職屋敷門
2008年12月14日 (日) | 編集 |
京都守護職屋敷門(京都府京都府左京区岡崎西天王町)が残っています。
守護職屋敷門2
明治32年正月に竣工した武徳殿は、現在武道センターの構内にありますが、終戦時までは、武道専門学校の道場でした。

この地域の南端、武徳殿の正面に当る位置に、平安神宮西側バス駐車場に面して、ひっそりと立つのが、京都守護職屋敷の正門でした。

傍らに立つ「左文右武」の石碑は武専時代の名残りです。
写真でみる維新の京都より


平安神宮の駐車場です。
京都市美術館別館や京都会館、京都国立近代美術館などがある場所です。
こまごまと書くより、上記の建物の標識に沿って来られたほうが間違いないでしょう。

駐車場に門。
凄く不思議な空間です。
観光バスの排気ガスをまともに喰らっていました。
バスが後部を門の方向に向けて停まっていたので、エンジンをかけるとまともです。

それを目にした時は、すごくショックでした。
半分忘れ去られたように建っていて、さらに排気ガスを浴びている…。
この門がどうなってもいいように思われているように感じました。

近藤勇や土方歳三や沖田総司や斉藤一や永倉新八や藤堂平助や新選組の面々が潜ったかもしれない門ですよ。
もしかしたら、裏門から出入りさせられていたかもしれませんが、目にしたことは間違いないでしょう。
もしかしたら、触れたかも知れません。
そんな貴重な史跡なのに!

雨にも負けず、風にも負けず、排気ガスにも負けず頑張って建っていて下さい。
京都守護職屋敷跡−京都府庁
2008年12月14日 (日) | 編集 |
京都府庁は京都守護職屋敷跡(京都府京都市上京区新町通下立売西入ル、藪之内町一)になります。
京都守護職屋敷跡1  京都守護職屋敷跡4
「京都守護職屋敷」の石碑は横を向いていました。

京都の治安悪化に伴い、京都所司代や町奉行所だけでは不足であるため、御所の警護や治安維持のために設けたのが、京都守護職でした。

文久2年12月24日、会津藩主松平容保が、京都守護職として入京しました。
黒谷の金戒光明寺を本陣としましたが、翌3年、千本通下立売角の所司代下屋敷北側に、会津藩御用屋敷を設けました。
そして、北は下長者町通、南は下立売通、東は新町通、西は西洞院通の、南北二町・東西一町におよぶ広大な敷地を買収して、京都守護職御用屋敷の建設が始まりました。
完成は慶応元年になります。
その間、元治元年には、この守護職御用屋敷の南に同じ広さの御用御添屋敷(現:第二赤十字病院付近)がつくられ、以前の千本通の御用屋敷は引き払われました。また、鴨川の東岸、東聖護院村の37,000坪の土地を副邸地として、ここを練兵場
(後日記載予定)としました。

守護職屋敷は、会津藩御預かりである新選組にもかかわり深く、局長・副長など上級幹部は、公用方に面会することもあったと思われます。

池田屋事件の後、永倉新八、斉藤一、原田左之助、調役の尾関政一郎、島田魁、葛山武八郎の6名が、会津藩主松平容保に近藤勇の増長の建白書を提出するために、公用方の小林久太郎に面会した話があります。
小林が驚いて松平容保に取次ぎ、容保の執り成しで近藤勇と和解させたといいます。
そして彼らは「藩邸」を辞したとあります。
ここでいう藩邸は、守護職邸ではないかと思われます。
「二条にさしかかると…」という記述が、永倉新八の「新撰組顛末記」にあります。

佐野七五三之助、茨木司、冨川十郎、中村五郎、岡田克見、中井(中村)三弥、木幡勝之進、松本俊蔵、高野良右衛門、松本主税は新選組の幕臣取り立てに反対し、伊東甲子太郎の高台寺党に走ろうとしましたが、拒否されました。

10名は守護職屋敷に出向き、新選組脱隊の嘆願書を提出しました。
会津藩は、守護職邸に近藤勇や土方歳三ら5名を呼び説得させました。
しかし、話し合いは決着がつかなかったため、翌日に再び守護職屋敷に出向きました。
佐野らの提示していた妥協案により、6名は脱退が認められました。
しかし、佐野ら4名の脱退許可は得られませんでした。
佐野、茨木、冨川、中村の4名は中座し、守護職屋敷内で自刃しました。

守護職屋敷は、慶応4年閏4月に新政府により陸軍局となり、軍務官も併設されました。
明治2年10月11日、軍務官屋敷であった旧守護職邸に、京都府庁が移転してきました。
これは軍務官の拠点がすでに東京に移り、出張所同様であったためです。
京都府庁は、はじめ旧東町奉行所に市中取締所として設置され、のち京都裁判所と名称変更し、慶応4年閏4月25日より京都府庁となったものが、旧守護職邸に移ったものです。

その後明治4年6月、京都府庁は二条城へ移り、守護職屋敷跡には中学校が建設されました。
この中学校もまた移転し、明治18年6月5日、京都府庁がまたこの地に再移転してきています。
新選組史跡事典より


京都御苑、下立売御門を出て、下立売通を西に歩くと300mで京都府庁に着きます。

私が訪れた時は、日曜日でしたので、人通りはほとんどありませんでした。
御用御添屋敷跡の第二赤十字病院辺りから、釜座通突き当りの京都府庁まで、ゆったりと時間が流れているようでした。
京都府庁の建物全体を写真に撮ろうと、信号が青になると、横断歩道のど真ん中で立ち止まって写真を撮る…、不審者になった私でした。
平日だと流石に勇気はなかったかも…。

もちろん京都府庁はお休みです。正門は固く閉ざされていました。
建物自体は大きいので、門の外からでも十分に堪能できます。
もちろん当時の建物ではないのですが、明治三十七年に完成した、府指定文化財第一号という、シックな建物なので、歴史的建造物として見ても価値はあると思います。

が、私の目的は、「京都守護職屋敷」と刻まれた碑です。
門は閉まっているので、柵の隙間から「守護職屋敷跡」の碑を必死に覗きましたよ。
写真の通り、通りからみると横向きなんです。
柵からみえて、手も届きそうなのに、横向きなんです。残念。

会津といえば“黒谷の金戒光明寺”というイメージを持っていました。
歴史の舞台としてはこちらが中心だったのでしょうか?
どうしても最初に読んだ小説や漫画、映画などの影響で、そのイメージが固定されてしまいます。

ここには近藤勇や土方歳三が頻繁にやって来たのですね。
ちょっといい格好をして来たのでしょうね。
まさか、「ちょっとそこまで」のどうでもいいような格好をして来たら、門前払いになりそうです。
幹部はみんな“おしゃれ”だったのかな?
そんなイメージがあります。
無精ひげに擦り切れた袴、という印象はないです。
女性にもてたようですから、きっとおしゃれだったのだろうな〜。
見てみたい!!

近藤勇や土方歳三だけでなく、多くの新選組隊士がこの守護職屋敷に来た可能性があると思うと、同じ場所を訪れているのだと、ジワジワと嬉しくなってきます。
何か一つでも当時を想像させてくれる物があると一層嬉しいのですが、私には何も見つける事は出来ませんでした。
それでも近代ビルになっていない為、少しホッとしたりします。

後日、地図をみて思ったのですが、
丸太町通(御用御添屋敷南端)からの距離を考えると、下立売通(御用御添屋敷北端および守護職御用屋敷南側)まででも結構な距離があります。
さらに下長者通(守護職御用屋敷北側)までといえば、南北の距離だけは二条城より大きい事になります。

この敷地の規模から考えても、京都守護職という職務の重要性が感じられました。


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本禅寺
2008年11月07日 (金) | 編集 |
本禅寺(京都府京都市上京区寺町通広小路上ル)は、清浄華院の北隣にあります。
本傳寺1  本傳寺2
文久2年暮れ、京都守護職に任命された会津藩主松平容保は、江戸を出て15日目の12月24日朝に京に着きました。
三条大橋で町奉行永井尚志らの出迎えを受け、寺町通を北上し、本禅寺で休息しました。
この寺で容保は麻裃の礼装に改めて、御所に参殿で、関白近衛忠熙に会い、挨拶をしました。

天正19年に現在の地に移り、宝永・天明の大火に焼け、現在の建物は幕末以降のものです。

鐘楼の鐘は、家康が大坂城攻撃の陣鐘に用いたものといい、大久保彦左衛門が拝領し、当寺に納めたと伝えられています。
境内南部の墓地に大久保彦左衛門忠教の墓があります。
写真でみる維新の京都より

清浄華院の北隣にあります。
山門から覗いてみると、境内は「月極駐車場」に使われていました。(“当時は”です。)
正直、ショックでした。
もちろんお寺も色々と大変でしょうから仕方ないと思います。
でも、新選組ファンとしては、会津のお殿様の使ったお寺が…。

もちろん幕末期は駐車場なんてないので、松平容保が最初に見た、京都の風景は全然違ったものでいした。
松平容保の苦難の道の出発点は、ここだったのかもしれません。

きっとこの時はまだ、希望・期待・やる気半分、不安半分だったのでしょうね。


幕末会津藩主・松平容保幕末会津藩主・松平容保
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会津藩本陣・金戒光明寺 清和殿
2008年04月17日 (木) | 編集 |
黒谷浄土宗の本山、金戒光明寺(京都市左京区黒谷町)は会津藩本陣になった場所です。
kurodani3161.jpg
文久2年12月24日、会津藩主松平容保は、入洛し金戒光明寺の庫裡を宿陣にしました。
以後5年間、京都守護職として務めましたが、終始ここが会津藩の本陣でした。

kurodani4268.jpg
庫裡は昭和4年に内部が改造され、清和殿として、信徒の集会や宿泊に利用されています。
写真でみる維新の京都より


金戒光明寺の山内は広いです。
JR京都駅や私鉄の駅から少し離れた場所で、いわゆるメインの観光スポットでもないので、人で溢れかえる光景は見られません。
その分、ゆっくりとした時間を過ごせる場所です。

幕末期はきっと、こんなに静かではなかったのでしょうね。
近藤勇や土方歳三、沖田総司や新選組隊士が何度となく訪れたであろう場所です。
これだけのお寺ですから、当時のままの物も多く残っていると思います。
松平容保はもちろん、近藤、土方、沖田が触れた物もあるのかも知れません…。
マニア的にいえば、
同じ土を踏みしめているかも…。
この木は当時を知っているのかも…。
なんて想像(妄想?)して、ニンマリかもしれません。