容保桜 京都府庁-新聞記事

2010年03月12日
京都府庁旧本館の中庭にある珍しいヤマザクラが、京都守護職だった幕末の会津藩主、松平容保にちなんで“容保桜”と命名されたそうです。

中庭にある桜のうちの1本が、ヤマザクラの亜種でオオシマザクラの特徴も併せ持つ珍しい品種でした。
通常のヤマザクラと比べて花びらが大きい特徴があります。

府庁旧本館は1904年に完成したレンガ造りの本格西洋建築で、国の重要文化財。
4月に見ごろを迎える予定。
2010年3月12日 日本経済新聞より


京都守護職屋敷跡3  京都守護職屋敷跡4
京都守護職屋敷跡(京都府京都市上京区新町通下立売西入ル、藪之内町一)

守護職屋敷門2
京都守護職屋敷門(京都府京都府左京区岡崎西天王町)
平安神宮西側バス駐車場に面して建っています。

新聞記事はシュキャナーが使えるようになりしだいアップしたいと思います。

京都府庁には行きましたが、いつも日曜日で閉まっていて中に入った事がありません。
旧本館中庭に桜があるのも知りませんでした。
ソメイヨシノではなく、ヤマザクラというのが昔からその木があるような気にさせます。

容保桜と名付けられたのは現在ですから、松平容保が活躍した時代とは関係がないといえばないのですが、それでもゆかりの地でその名前をつけられると、その桜がある限り“会津藩主 京都守護職 松平容保”が思い出される事になるのです。
4月に桜が咲いたら見に行ってみたいのですが、桜が咲いている期間は本の少しです。
うまく行くことができるでしょうか?



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松平容保の生涯 写真集
悲劇の会津藩主・松平容保の激動の生涯。
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東本願寺伏見別院

2009年03月04日
会津藩の宿所となった、東本願寺伏見別院(京都府京都市伏見区大阪町)です。
東伏見別院
慶応4年正月2日夜10時過ぎ、薩藩淵辺直右衛門ほか6名は、知らせにより伏見別院に来てみると、堂内は会津兵で一杯でした。
会津の重役林権助に問い質すと、上洛する慶喜公の先供であると答えました。
淵辺は林に暫く留まり、勅命を待つようにと伝えました。
翌3日も通す通さないのあげく、戦いの火蓋は切られました。

東本願寺伏見別院は慶長7年の創建で、蓮池御坊とも呼ばれます。
維新の時、会津藩の宿所となり、付近は戦場となりましたが、戦火は免れました。


林権助は、会津藩士。名は安定。
武勇で知られ、水野忠邦が老中を免職されたとき、水野邸に暴徒が押しかけたのを一人で鎮めて、江戸でも名をあげました。
会津藩の軍制改革は保守的思想に妨げられ遅れましたが、権助は率先して洋式兵法を学び改革を進めました。

京都守護職になった藩主松平容保に随行上京。
王政復古後、徳川慶喜が二条城から大坂城へ移るのを知ると、佐川官兵衛と2人で慶喜に大坂移動の反対を言上しました。
慶応4年鳥羽・伏見の戦いで会津藩砲兵隊長として陣頭に立ち、膝に敵の弾丸をうけ大坂から江戸に帰る船上で死にました。
写真でみる維新の京都より

京阪電鉄伏見桃山駅の北側、近畿日本鉄道桃山御陵前駅南側の大手筋を西へ200mほど歩きます。
スーパーのサティがあるので、その門で南に曲がります。
サティの前を通ることになりますね。
サティの斜め前、微妙に突き当たりになっている角が、東本願寺伏見別院です。

最初に訪れた時、門はありますが本堂はどれ?でした。
幼稚園があるのですが、本堂が見当たらない…。
でもお寺には間違いがない…。
本当にここで間違いがないのか不安でした。

暫くして再び訪れた時は、プレハブにご本尊が祀られていたような…。
本堂の改修工事をされていたのかな。
今はどうなっているでしょう。

会津藩の宿所となった場所といので、張り切っていきました。
会津藩と新選組は切っても切れない縁ですからね。
もしかしたら新選組の誰かは、伝令として走っているかもしれません。
土方歳三も来た可能性は…どうでしょうね。
それでも鳥羽伏見の舞台ですから、しっかりチェックはしておきました。


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城東練兵場跡

2008年12月20日
会津藩の調練場、城東練兵場跡(京都府京都市左京区川端通荒神口上ル)です。
城東練兵場1  城東練兵場2
荒神橋の東詰に立つ京都織物会社の建物は、昭和43年に閉鎖された会社の名残りで、今は京都大学の東南アジア研究センターです。
この辺りと、南の京都大学病院の一帯は、文久4年2月に会津藩の調練場なり、会津藩兵の洋式調練が行われました。

戊辰戦争後は軍務官の調練場となり、慶応4年4月以降、官軍の東征に従うため、洋式調練した在京の諸藩兵は40藩に及びました。

明治5年、牧畜場となり、同13年には民間に払い下げられました。
写真でみる維新の京都より


京阪電鉄神宮丸太町駅から1本北の橋が荒神橋です。
丸太町橋の北が、京都大学医学部附属病院です。
その北隣が、東南アジア研究センターで、前が荒神橋ですから、駅ひとつ分程が、城東練兵場跡となるのではないでしょうか?
大雑把に、この辺!って感じですか?!

確かに、病院や研究センターなどで、広大な土地です。
調練、それも洋式調練をしようとすると、これぐらいの土地はいるでしょうね。

ここで会津藩が洋式調練をしたそうですが、どれほど最新の武器を使っての調練だったのでしょうか?
新選組も参加するなり、見学するなりすればよかったのかも。
でも、新選組はやはり“刀”ですよね。
土方歳三や沖田総司が小銃を持っている姿は想像できません。
すらりと刀を閃かせ………。あぁ~やっぱりかっこいい。

会津藩の練兵場跡から、方向違いな妄想をしてしまいました(笑)


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京都守護職屋敷門

2008年12月14日
京都守護職屋敷門(京都府京都府左京区岡崎西天王町)が残っています。
守護職屋敷門2
明治32年正月に竣工した武徳殿は、現在武道センターの構内にありますが、終戦時までは、武道専門学校の道場でした。

この地域の南端、武徳殿の正面に当る位置に、平安神宮西側バス駐車場に面して、ひっそりと立つのが、京都守護職屋敷の正門でした。

傍らに立つ「左文右武」の石碑は武専時代の名残りです。
写真でみる維新の京都より


平安神宮の駐車場です。
京都市美術館別館や京都会館、京都国立近代美術館などがある場所です。
こまごまと書くより、上記の建物の標識に沿って来られたほうが間違いないでしょう。

駐車場に門。
凄く不思議な空間です。
観光バスの排気ガスをまともに喰らっていました。
バスが後部を門の方向に向けて停まっていたので、エンジンをかけるとまともです。

それを目にした時は、すごくショックでした。
半分忘れ去られたように建っていて、さらに排気ガスを浴びている…。
この門がどうなってもいいように思われているように感じました。

近藤勇や土方歳三や沖田総司や斉藤一や永倉新八や藤堂平助や新選組の面々が潜ったかもしれない門ですよ。
もしかしたら、裏門から出入りさせられていたかもしれませんが、目にしたことは間違いないでしょう。
もしかしたら、触れたかも知れません。
そんな貴重な史跡なのに!

雨にも負けず、風にも負けず、排気ガスにも負けず頑張って建っていて下さい。

京都守護職屋敷跡-京都府庁

2008年12月14日
京都府庁は京都守護職屋敷跡(京都府京都市上京区新町通下立売西入ル、藪之内町一)になります。
京都守護職屋敷跡1  京都守護職屋敷跡4
「京都守護職屋敷」の石碑は横を向いていました。

京都の治安悪化に伴い、京都所司代や町奉行所だけでは不足であるため、御所の警護や治安維持のために設けたのが、京都守護職でした。

文久2年12月24日、会津藩主松平容保が、京都守護職として入京しました。
黒谷の金戒光明寺を本陣としましたが、翌3年、千本通下立売角の所司代下屋敷北側に、会津藩御用屋敷を設けました。
そして、北は下長者町通、南は下立売通、東は新町通、西は西洞院通の、南北二町・東西一町におよぶ広大な敷地を買収して、京都守護職御用屋敷の建設が始まりました。
完成は慶応元年になります。
その間、元治元年には、この守護職御用屋敷の南に同じ広さの御用御添屋敷(現:第二赤十字病院付近)がつくられ、以前の千本通の御用屋敷は引き払われました。また、鴨川の東岸、東聖護院村の37,000坪の土地を副邸地として、ここを練兵場
(後日記載予定)としました。

守護職屋敷は、会津藩御預かりである新選組にもかかわり深く、局長・副長など上級幹部は、公用方に面会することもあったと思われます。

池田屋事件の後、永倉新八、斉藤一、原田左之助、調役の尾関政一郎、島田魁、葛山武八郎の6名が、会津藩主松平容保に近藤勇の増長の建白書を提出するために、公用方の小林久太郎に面会した話があります。
小林が驚いて松平容保に取次ぎ、容保の執り成しで近藤勇と和解させたといいます。
そして彼らは「藩邸」を辞したとあります。
ここでいう藩邸は、守護職邸ではないかと思われます。
「二条にさしかかると…」という記述が、永倉新八の「新撰組顛末記」にあります。

佐野七五三之助、茨木司、冨川十郎、中村五郎、岡田克見、中井(中村)三弥、木幡勝之進、松本俊蔵、高野良右衛門、松本主税は新選組の幕臣取り立てに反対し、伊東甲子太郎の高台寺党に走ろうとしましたが、拒否されました。

10名は守護職屋敷に出向き、新選組脱隊の嘆願書を提出しました。
会津藩は、守護職邸に近藤勇や土方歳三ら5名を呼び説得させました。
しかし、話し合いは決着がつかなかったため、翌日に再び守護職屋敷に出向きました。
佐野らの提示していた妥協案により、6名は脱退が認められました。
しかし、佐野ら4名の脱退許可は得られませんでした。
佐野、茨木、冨川、中村の4名は中座し、守護職屋敷内で自刃しました。

守護職屋敷は、慶応4年閏4月に新政府により陸軍局となり、軍務官も併設されました。
明治2年10月11日、軍務官屋敷であった旧守護職邸に、京都府庁が移転してきました。
これは軍務官の拠点がすでに東京に移り、出張所同様であったためです。
京都府庁は、はじめ旧東町奉行所に市中取締所として設置され、のち京都裁判所と名称変更し、慶応4年閏4月25日より京都府庁となったものが、旧守護職邸に移ったものです。

その後明治4年6月、京都府庁は二条城へ移り、守護職屋敷跡には中学校が建設されました。
この中学校もまた移転し、明治18年6月5日、京都府庁がまたこの地に再移転してきています。
新選組史跡事典より


京都御苑、下立売御門を出て、下立売通を西に歩くと300mで京都府庁に着きます。

私が訪れた時は、日曜日でしたので、人通りはほとんどありませんでした。
御用御添屋敷跡の第二赤十字病院辺りから、釜座通突き当りの京都府庁まで、ゆったりと時間が流れているようでした。
京都府庁の建物全体を写真に撮ろうと、信号が青になると、横断歩道のど真ん中で立ち止まって写真を撮る…、不審者になった私でした。
平日だと流石に勇気はなかったかも…。

もちろん京都府庁はお休みです。正門は固く閉ざされていました。
建物自体は大きいので、門の外からでも十分に堪能できます。
もちろん当時の建物ではないのですが、明治三十七年に完成した、府指定文化財第一号という、シックな建物なので、歴史的建造物として見ても価値はあると思います。

が、私の目的は、「京都守護職屋敷」と刻まれた碑です。
門は閉まっているので、柵の隙間から「守護職屋敷跡」の碑を必死に覗きましたよ。
写真の通り、通りからみると横向きなんです。
柵からみえて、手も届きそうなのに、横向きなんです。残念。

会津といえば“黒谷の金戒光明寺”というイメージを持っていました。
歴史の舞台としてはこちらが中心だったのでしょうか?
どうしても最初に読んだ小説や漫画、映画などの影響で、そのイメージが固定されてしまいます。

ここには近藤勇や土方歳三が頻繁にやって来たのですね。
ちょっといい格好をして来たのでしょうね。
まさか、「ちょっとそこまで」のどうでもいいような格好をして来たら、門前払いになりそうです。
幹部はみんな“おしゃれ”だったのかな?
そんなイメージがあります。
無精ひげに擦り切れた袴、という印象はないです。
女性にもてたようですから、きっとおしゃれだったのだろうな~。
見てみたい!!

近藤勇や土方歳三だけでなく、多くの新選組隊士がこの守護職屋敷に来た可能性があると思うと、同じ場所を訪れているのだと、ジワジワと嬉しくなってきます。
何か一つでも当時を想像させてくれる物があると一層嬉しいのですが、私には何も見つける事は出来ませんでした。
それでも近代ビルになっていない為、少しホッとしたりします。

後日、地図をみて思ったのですが、
丸太町通(御用御添屋敷南端)からの距離を考えると、下立売通(御用御添屋敷北端および守護職御用屋敷南側)まででも結構な距離があります。
さらに下長者通(守護職御用屋敷北側)までといえば、南北の距離だけは二条城より大きい事になります。

この敷地の規模から考えても、京都守護職という職務の重要性が感じられました。


京都守護職日誌〈第2巻〉文久四年一月~元治元年十二月京都守護職日誌〈第2巻〉文久四年一月~元治元年十二月
(2008/07)
菊地 明

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