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名古屋城-青松葉事件遺跡

2009年04月14日
名古屋城(愛知県名古屋市中区本丸1-1)の中にある、青松葉事件遺跡の碑です。
青松葉事件遺蹟1

青松葉事件遺蹟2  青松葉事件遺蹟3-1
慶応4年正月20日、二之丸御殿向屋敷の前庭で、尾張徳川家の三重臣が斬首され、いわゆる青松葉事件が始まりました。
昭和の初めに「青松葉事件之遺跡」碑が、ここから南へ約100mの処刑地跡に建立されましたが、その後所在不明となったので、ここに復元しました。

青松葉事件とは、、慶応4年1月20日から25日にかけて発生した尾張藩内での佐幕派弾圧事件です。
弾圧の対象者は重臣から一般藩士まで及び、斬首14名、処罰20名。
それまで京都で大政奉還後の政治的処理を行っていた14代藩主徳川慶勝が帰国し、その日のうちに弾圧の命令が出ていることから、何らかの密命を朝廷より下されたと思われますが、真相はいまだにはっきりしていません。

事件名は、処刑された重臣のうちの筆頭格である渡辺在綱の家が「青松葉」といわれていたことからです。
渡辺家はもともと徳川家康の家来で「槍の半蔵」の異名を取った渡辺半蔵守綱の末裔ですが、鉄砲にも興味を持ち、その鋳造に用いる火を起こすのに青松葉を使ったとか、知行地から年貢を受け取るとき、青松葉を俵に挿して数えた、などという逸話が多いことから「青松葉の渡辺」といわれていたようです。
Wikipediaより


慶応4年、まさに幕末維新時の事件です。
京都でも江戸でもなく、各藩でもこうして事件が起こっていたと、改めて思いました。
どうしても幕末の舞台は、“京都”や“江戸”を思い浮かべてしまいます。
それでも各々が、日本全国で佐幕、勤王、攘夷、開国が複雑に絡みあって、いろいろな意見がぶつかりあっていたのですね。

佐幕、勤王、攘夷、開国が本当に色々な組み合わせで、歴史を作ろうとするので、複雑すぎて実はちゃんと理解していないかもしれません。
個人、個人をきっちり見ると、対極にいるようでも重なる部分があったりしそうです。
それぐらい幕末の思想は複雑に入り組んでいると思います。

実際に事件に関係した処刑地は、ここから南へ100mほど行った場所のようですので、そちらも写真に撮った方がよかったのかもしれません。
せっかく復元されるのであれば、処刑地跡にもう一度復元してくれるとよかったのに。

この時ではないのですが、名古屋付近を通り抜けた時、高速道路の幅の広さにビックリしました。(高速道路ではなく、一般道の高架だったのかもしれません。)
太い支柱の幅の広い道路が、縦横無尽に走っている…、そんな感じでした。
愛知県の景気がいいと聞いていた頃だったので、愛知県の経済力に呆気に取られていました。


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名古屋城-藩訓秘伝の碑

2009年04月13日
名古屋城(愛知県名古屋市中区本丸1-1)内にある、藩訓秘伝の碑です。
藩訓秘伝の碑2  藩訓秘伝の碑1-1
初代藩主・徳川義直の直撰「軍書合鑑」の中にある一項の題目で、勤王の精神について述べています。
歴代の藩主はこれを藩訓として相伝し、明治維新にあたっては、親藩であったのに、勤王帰一を表明したといわれています。

尾張藩は三家。
尾張藩祖徳川義直の正統は9代宗睦で絶え、以後、将軍家から押しつけられた移入藩主が続きます。
藩校明倫堂の教授、学生、下級藩士を主体とする金鉄党はこれを嫌い、支藩高須藩主の次男義恕(慶勝)を盛り立てました。義恕が尾張藩14代藩主になるのは嘉永2年6月です。
これと対抗するのは、「ふいご党」で付家老の竹腰正と結びました。
藩主慶勝は条約勅許問題で井伊大老を責めたことで隠居、謹慎を命じられ、安政5年7月、江戸戸山の別邸に幽せられました。
そのあとを高須から入って実弟の茂徳が継ぎ、佐幕派の頭目である家老の竹腰を重用し、慶勝の腹心田宮如雲らを蟄居、減禄に処しました。

文久2年4月、慶勝は謹慎を解かれ、攘夷派の金鉄党が復活。藩主茂徳は翌年、引退しました。
このあと、慶勝の三男義宜が6歳で継ぎました。
同年、朝命によって将軍家家茂補佐に任ぜられた慶勝は、元治元年8月、第一次征長に征討軍総督を拝命、35藩に出兵を命じ、家老成瀬正肥、田宮如雲らの腹心を従えて広島へ赴任しました。
長州藩三家老を斬首することで事態を収拾しました。

慶応3年12月、越前の松平慶永とともに将軍慶喜の辞官納地問題に尽力、鳥羽・伏見戦後、大坂城を託された慶勝は帰藩して、佐幕派の一掃に務めました。
新政府から議定職に補されていた慶勝は、尾張近隣諸藩への勤王勧誘役をまかされました。

4月、甲斐・信濃の賊徒討伐を命じられた慶勝は自ら出陣して2州を鎮定しました。
さらに奥羽・北越へ派兵しました。
東征大総督有栖川宮熾仁親王の身辺警護を許されたのは尾張藩で編成された草莽磅礴隊です。
他に集義隊、正気隊、東正気隊、精鋭隊などの草莽隊が結成されました。
幕末維新史事典より


初代藩主から、勤王派だったのですね。
徳川御三家という肩書きがあるだけに不思議な感じです。
初代藩主・徳川義直は今と同じような“象徴天皇”と同じような感覚だったのでしょうか?
実際の政治は“徳川将軍”が行うことには異議はなかったと。
徳川の江戸幕府が始まった頃の事は詳しくないので、あくまでも私の勝手な想像です。

脈々と勤王の精神が受け継がれてきたのであれば、幕末に勤王派となったのも頷けます。
表面的には“徳川家一番”としていても、心の奥底、根底にはしっかりと勤王という思想が根を張っていますね。
御三家だから佐幕派と思う人の方が多いのではないでしょうか?
単純すぎたのは私だけ?

庭は綺麗に手入れされていて、のんびりと歩くにはいい場所でした。
本当に人がいない…。
桜の季節には多くの人が訪れたのでしょうね。
島田魁たちも名古屋城の桜を見たかもしれません。
桜を見ながら、自分達に訪れる春を願うことがあったかもしれません。


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名古屋城-新選組隊士謹慎の地

2009年04月12日
名古屋城(愛知県名古屋市中区本丸1-1)に、新選組隊士謹慎の地があります。
名古屋城1
明治2年5月の箱館五稜郭の降伏後、謹慎・収容となった新選組は青森、弘前の諸寺院を転々としましたが、再度、箱館の弁天台場に送られて謹慎生活を送りました。
11月に入って海路、東京に移送され、芝増上寺に収容されると、降伏人に対して改めて処置の決定があり、諸藩へ預け替えとなりました。
島田魁、田村義利、田村義忠、大橋山三郎、山崎義範、中山国久、江川助之、上田安達之助、本多岩吉の9名の隊士は、同月20日、名古屋藩預けと決められ、名古屋城内に禁錮、謹慎となりました。
翌3年1月には禁錮は解かれましたが、お預けの身分に変わりなく、兵部省通達の「以後その藩において使役さすべき事」により、5年6月まで不自由な生活は続きました。

禁錮が解かれた翌4年秋、島田魁と妻さとの間に次男柳太郎が生まれていて、謹慎生活も緩められていったことがうかがわれます。

謹慎した9名が名古屋城内のどこに収容され、起居していたかは不明です。
新選組史跡事典より


JR名古屋駅、名古屋鉄道名鉄名古屋駅から、桜通をテレビ塔まで歩き、交差点を曲がって名古屋城に歩いたので、名古屋城周辺の地下鉄の状況がわかりません。
いくつか駅があるので、来られる方向によって変わってくるのでしょう。
JR・名鉄の名古屋駅からは少し歩きましたが、テレビ塔はテレビで見ていたので興味深く目指しました。

「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」
名古屋城はさすがに大きなお城でした。
しかしこの天守閣も昭和になって復元されています。
大坂城と同じですね。
名古屋城に行ってみて、人が少なくて驚きました。
平日だったかな?
でも愛・地球博が開催されていたので、愛知県は注目を浴びていたのですが…。
感覚的には大阪と神戸ほど離れているようなので、名古屋市に人は流れてこなかったのでしょうか?
でも名古屋駅は入口だと思うのですが…。

ゆっくりと散策して、見学できるという点では、人が少ないほうが嬉しいです。
金の鯱のレプリカがありました。
大きいけれど、こんな小さいもの?と思ったような記憶があります。
天守閣の上にあって、下からも見えるので、もっともっと大きなものだと思っていました。

このどこかに新選組隊士が謹慎していのです。
当時はまだ、再建前の天守閣だったので、彼らが見たのはこのお城ではないのです。
それでも確かに、ここで暮らしていたのです。
お城を見ながら何を思っていたのでしょう。

徳川御三家でありながら、勤王に汲みした尾張の象徴・名古屋城を見上げながらの生活は精神的に辛かったのではないでしょうか?
新選組からすれば、尾張は裏切ったのですからね。
ただ、時とともに謹慎生活は緩くなったようなので、気持ちの整理がついてくると精神的に安定してきたかもしれませんね。
藩主に恨みがあっても、その家臣達とは日常接していると、心を許せる事もあったかもしれません。

田村義利(一郎)は、陸奥国磐城平の出身。
父は田村半右衛門。
録四郎、銀之助の長兄。
清水家家臣・板橋徳蔵のもとに身を置いていましたが、慶応元年4月の土方歳三による江戸での隊士募集に応じ、七番隊に属して上洛し、同3年6月の幕臣取立てでは平士として、見廻組並御雇の格を受けました。

翌年1月の鳥羽・伏見の戦いでは、6日に永倉新八・斉藤一らと八幡山中腹に戦ううち、味方に取り残され、田村は土方のもとに走り、全軍の退去を知って、永倉らと橋本の陣屋に引き揚げています。
大坂敗走後は江戸に帰還、3月1日には甲陽鎮撫隊として出陣、6日の勝沼の戦いで負傷し、江戸に敗走しました。
その後、久米部正親を隊長格とした20数名の負傷者と、五兵衛新田に集結する新選組本隊と別れて会津に向かっています。

会津戦争では什長となり、5月に作成された「会津三代在陣者名簿」では歩兵差図役をつとめています。
8月21日の母成峠の戦いに敗れて仙台へ赴きますが、榎本武揚の旧幕海軍に合流して蝦夷地へ渡航する事をためらい、弟の録四郎とともに一度は新選組を離脱しました。

新選組復帰後は、第三分隊に所属していましたが、明治2年5月15日に籠城していた弁天台場で降伏、台場で謹慎しました。
五稜郭降伏後、5月22日から青森の明誓寺、弘前の薬王院、青森の蓮華寺と謹慎し、再び弁天台場に収容され、11月4日に東京に送られ、名古屋藩に身柄を移されました。
明治3年1月に兵部省の命により禁錮が解かれました。

5年6月には愛知県より、録四郎、島田魁らの新選組隊士とともに赦免状が下されましたが、その後の消息は不明です。

田村義忠は(録四郎)は、陸奥磐城平の出身で、田村半右衛門の子として江戸に生まれました。
田村一郎(義利)の弟で、銀之助の兄。

清水家家臣・板橋徳蔵のもとに身を置いていましたが、慶応3年6月以降、10月ごろに入隊し、「京都ヨリ会津迄人数」で局長附人数の一員とされています。

翌年1月の鳥羽・伏見の戦いを経て江戸に帰還し、五兵衛新田集結時には、金子家の文書に同家在宿隊士として記録されています。
流山転陣後の4月3日、近藤勇が新政府軍に投降すると、武装解除後に会津へ向かい、「会津三代在陣者名簿」では隊長附をつとめています。
8月21日の母成峠の戦いに敗走し、、榎本武揚の旧幕海軍に合流して蝦夷地へ渡航する事をためらいました。

新選組復帰後は、第三分隊に所属していましたが、明治2年5月15日に籠城していた弁天台場で降伏、台場で謹慎しました。
青森の明誓寺、弘前の薬王院、青森の蓮華寺と謹慎し、再び弁天台場に収容され、11月4日に東京に送られ、名古屋藩に身柄を移されました。

明治5年6月には愛知県より、録四郎、島田魁らの新選組隊士とともに赦免状が下されましたが、その後の消息は不明です。

大橋山三郎は、箱館編成新選組、第一分隊所属隊士です。
元徳川家陸軍兵士で、御目見以下の身分。
浪人中に新遊撃隊に召し出されました。
徳川家家臣松平民部家来の用役・中山幸右衛門惣領で、江戸の生まれです。
中島登は常陸の生まれとしています。
宿所は本郷菊坂台町。

戊辰戦争にさいして新選組に入隊しましたが、その間の経緯は不明です。
弟あるいは息子といわれる上田安達之助も入隊しているので、同時に加入したと思われます。
隊士となって箱館市中の取締りや、数度の戦闘に従軍しました。

明治2年5月15日、弁天台場で降伏して、津軽藩御預けとなり謹慎しました。
のちに東京に送られ、名古屋藩に御預け替えとなりました。
翌3年1月に兵部省より禁錮を解かれ、その後同藩で使役のうえ、明治5年6月に自由の身となりました。


山崎義範(林五郎)は、箱館編成新選組、第四分隊所属隊士です。
元山城国葛野郡壬生村に住む浪人。
父は、元摂津国大坂に住み、のち壬生に転居した林五郎左衛門。
数代前までは安房館山藩に仕えたといいます。
横倉甚五郎は「永井玄蕃臣」としています。
おそらくは山崎烝の推挙によって、永井に京都で召し抱えられたものでしょう。

林五郎左衛門といえば、子母沢寛の「八木為三郎老人壬生ばなし」に出てくる、副長助勤・山崎烝の父と同名です。
兄弟の可能性もありえます。

新選組への加入時期は不明ですが、仙台あたりではないかと思われます。
明治2年1月に作成されたと推定できる、新政府軍側の「蝦夷箱館探索日誌」によれば、箱館市中取締の任務に就いていたとあります。
同年5月15日、弁天台場で降伏しました。
津軽藩御預けとなって謹慎、東京送りとなり名古屋藩へ御預け替えとなりました。
翌3年1月に禁錮を解かれて使役を命じられ、5年6月になって赦免されています。

中山国久(重蔵)は、京都の出身で、有栖川宮に仕える中村喜二郎衛門の次男として生まれました。

慶応元年4月の土方歳三による江戸での隊士募集に応じ、五番組に属して上洛し、同3年6月の幕臣取立てでは平士として、見廻組並御雇の格を受けました。

翌年1月の鳥羽・伏見の戦いを経て江戸に帰還し、会津戦争では従軍の記録が見当たりませんが、蝦夷に渡航しています。
明治元年11月ごろの「箱館編成表」では、新選組第四分隊に所属し、それ以前には東組二番の一員として市中警備の任についていた記録があります。
5月15日に籠城中の弁天台場で降伏し、「弁天台場降伏人名簿」には名前がありますが、青森から弘前に送られた降伏人の収容者名簿には名前がありません。
が、単なるミスだと思われます。

その後は東京に送られ、明治2年の「降伏人名」に「名古屋藩御預」のひとりとして「重郎」の名で記されています。
同3年1月に兵部省より禁錮が免じられました。
また、5年6月に島田魁らが愛知県より赦免状が下された際に、同時に「山中国久」の名で許されています。

江川助之(七郎)は、箱館編成新選組、第二分隊所属隊士です。
元徳川家家臣・本堂内膳の家臣で、江戸の生まれです。
本堂家は、芝愛宕下の神保小路にあって8,000石の家格。

戊辰戦争にさいして、旧幕脱走軍に加わり江戸を出奔し、いずれかで新選組に入隊しました。
以後箱館市中の取締り、数度の戦闘に従軍しました。
明治2年5月11日の新政府軍による箱館総攻撃にさいして、弁天台場を受け持ち防戦しますが、15日になって降伏しました。
津軽藩御預けとなって謹慎、10月24日夕刻に青森港から大坂艦に乗り込み、途中、弁天台場送りとなる新選組同志が下船するのを見送り、東京送りとなりました。
名古屋藩に御預け替えとなり、翌3年1月兵部省より禁錮を解かれ、その後同藩で使役のうえ、明治5年6月許され、自由の身となりました。

上田安達之助は、箱館編成新選組、第一分隊所属隊士です。
元徳川家陸軍兵士、あるいは上総飯野藩とも。
新選組の大橋山三郎の弟、もしくは息子ともいわれています。
江戸の生まれ。
本郷菊坂台町の大橋の宿所に同居。
新選組に入隊するまでの経緯は不明です。

加入後は箱館市中の取締り、数度の戦闘に従軍しました。
明治2年5月15日、守備を受け持つ弁天台場で降伏して、津軽藩御預けとなって謹慎しました。
のちに東京送りとなり、名古屋藩に御預け替えとなりました。
翌3年1月に兵部省より禁錮を解かれ、その後同藩で使役のうえ、明治5年6月許されて自由の身となりました。

本多岩吉は、京都の出身で、姓は本田、名は若吉ともされます。
元御所大工頭・本多庄蔵の二男。

慶応3年6月以降、10月ごろに入隊し、「京都ヨリ会津迄人数」で局長附人数と記録されています。
翌年1月の鳥羽・伏見の戦いを経て江戸へ帰還し、会津を転戦しますが、8月21日の母成峠の戦いに敗走し、仙台で榎本武揚の旧幕海軍に合流して蝦夷に渡航しました。

箱館では新選組第二分隊に所属し、それ以前には西組二番の一員として市中警備の任にあったことが記録されています。
5月15日に弁天台場で降伏しました。
「弁天台場降伏人名簿」に「元嶋田魁家来」と記されていて、入隊には島田の口添えがあったのかもしれません。

弁天台場での謹慎後、青森の明誓寺、弘前の薬王院、青森の蓮華寺、ふたたび弁天台場に収容されたのち、東京へ送られて名古屋藩お預けとなりました。
明治3年1月に禁錮が解かれ、兵部省より名古屋藩に通達されました。
その後、謹慎を続け、同5年6月に元隊士たちとともに放免されています。
新選組大人名事典(上・下)より


金の鯱2 名古屋城1階に展示されていた金の鯱

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