舟会所跡

2018年02月21日
七里の渡し跡に向かう途中に、舟会所跡(三重県桑名市川口)と書かれた碑を見つけました。

舟会所跡1  舟会所跡

渡船の手配をする所です。


まぁ~この写真は笑ってしまうほど×です。
説明が書かれた写真は、しっかりカメラが写りこんでいます。
日差しの関係もありますが、一緒に回っていた家族がドンドン歩いて行ってしまうので、急いでシャッターを切ったので出来栄えのチェックをしなかったのがダメでしたね。

京都と江戸を往復するには、揖斐川に木曽川を渡ります。
新選組の隊士たちも川は渡ったはずです。
この舟会所で船の調達をしたこともあるのでしょうか?
ありますよね。
近藤、土方や隊長たちなら自分で交渉することはなかったかもしれませんが、平隊士なら自分でここを訪れていたでしょうね。

いや、もしかしたら琵琶湖を通りもう少し上(今の東海道本線沿い)?
行先にもよりますね。
一度ぐらい来てないかな?
松平さんの桑名だし…。

きっと調べればわかるのでしょうが、今、なかなかそこまでの事ができません。
わかればまた報告するという事で。

船会所跡があるという事は、七里の渡しは目と鼻の先。
見えてます!












桑名城城壁

2018年02月20日
桑名城城壁(三重県桑名市三之丸)を見ることができました。

桑名城城壁5  桑名城城壁2

桑名城城壁4  桑名城城壁1
この石積みは、築城当時のものだそうです。

桑名市街の東端に位置し揖斐川に臨む水城です。
城の北辺には東海道桑名宿「七里の渡し」があり、交通の要衝となっていました。
城跡には現存建造物はなく、石垣、堀が残るのみで、現在は桑名城址九華公園として整備されています。
平成15年に国土交通省水門統合管理所を建造するにあたり、かつての蟠龍櫓跡に建てることとなり、蟠龍櫓を外観復元しました。
二重櫓であり、1階は水門管理所となっているが、2階は桑名市所管の展望台兼資料室となっています。

戦国時代の桑名の地には土豪が蟠踞し伊藤武左衛門の東城、樋口内蔵の西城、矢部右馬允の三崎城の桑名三城と呼ばれる城がありました。
現在の桑名城は東城があった辺りで、永正10年に伊藤武左衛門が城館を築いたのが桑名城の起源と考えられています。
天正2年、織田信長がこの地を征し、部将の滝川一益が三城を配下に置きました。
その後、豊臣秀吉の時代になると神戸信孝、天野景俊、服部一正、一柳直盛、氏家貞和、松平家乗と支配者が目まぐるしく入れ替わりました。

関ヶ原の戦い後、徳川家康は慶長6年徳川四天王の本多忠勝を桑名10万石に封じました。
忠勝は入封直後、揖斐川沿いに城郭の建造を開始。
城には船着場も整備し、4重6階の天守をはじめ51基の櫓、46基の多聞が立ち並びました。
また同時に城下町も整備されました。
築城開始当初には四天王の一人である井伊直政も家臣を動員して普請の応援を行ったという逸話がある。

元和3年2代忠政は播磨姫路藩に移封となり、代わって松平定勝が入城。
松平定重の時代、元禄14年には桑名市街地の過半を焼く大火に遭い、この際に天守も焼失し以後再建はされませんでした。

幕末には松平容保の実弟である松平定敬が藩主となり、京都所司代として兄と共に京都の治安を預かった。
大政奉還の後の慶応4年鳥羽・伏見の戦いに敗れた旧幕府軍と共に定敬も江戸に向かいました。
藩主不在の桑名城では抗戦か恭順か激論となり鎮国守国神社の神籤により上層部では抗戦と決定したが、下級藩士の猛反発にあい、結局は無血開城しました。
明治政府軍はこの際に辰巳櫓を焼き払い開城の証とした。

松平定信没後100年にあたる昭和3年に本丸・二之丸一帯を整備し九華公園としました。
Wikipediaより


七里の渡し跡に行ってみようという事になり、その道中にあったのが桑名城城壁跡とかかれた場所でした。
歴史を語る公園というのでしょうか。
東屋と小道がある感じの場所から向かいを見ると、写真のような石積が見られます。

城壁と書いてあるので天守閣の下の部分なのかと思ったのですが、堀の石垣ですよね?
それでも当時の石垣をみているのですから感慨深いです。
もしかしたら、京都時代からいる新選組隊士が目にしたかもしれません。

しかし周りの風景と城壁が…何か哀愁を感じました。
歴史を感じる石垣とその上に建つ工場…。
歴史って…。
いったいどれだけの時間がたったのでしょう。
時の流れた長さをつくづく感じました。

でもね、石垣が邪魔だと取り壊さずに保存され、それを大事に残しながら今を生活している方々には感謝です。
そうでないと、私が今、目にすることはなかったのですものね。










日本テレビ 平昌オリンピックテーマ曲が入ってます

光徳寺 - 新選組謹慎の寺

2018年02月16日
光徳寺(三重県桑名市新町54)も新選組隊士が謹慎していたお寺です。
謹慎していたのは、竹内徳雄です。

光徳寺3  光徳寺2

光徳寺1  光徳寺4

 
竹内徳雄

竹内篤平と同一人物ですか?
私が調べきれなかっただけです。

竹内篤平
箱館編成新選組、第一分隊所属隊士。
武内とも。
越後長岡の出身で、長岡城下表町生まれ。

新選組入隊の経緯は不明ですが、弁天台場で降伏しました。
最期の新選組隊長相馬主殿の家来だったといいます。

津軽藩お預かりとなり、東京送りとなり、旧藩に引き渡されました。
その後自由の身になりました。
新選組大人名辞典より


意外と善西寺まで行くのに時間がかかりませんでした。
そうなると気になるのが、光徳寺です。
十念寺の隣にあり、新選組隊士の謹慎のお寺です。
ここで行かなければ、ずっと気になって後悔するのでしょう。と、いう事で十念寺まで戻ることにしました。
戻るといっても650mほどで10分程度です。
十念寺の隣ですぐに見つかるか?だけの話です。

そしてやはりそこで時間を食いました。
十念寺を大きく一周してしまいました。
本当にお隣でした。

十念寺と似た感じのお寺です。
特に境内が広大というのではありませんが、緑に覆われていました。
ここは、新選組謹慎の地ではなく、沼波弄山の墓があることで有名だそうです。


沼波 弄山(ぬなみ ろうざん)
享保3年 - 安永6年は、萬古焼の始祖として知られる陶芸家。
本名は、五左衛門重長。
桑名・船馬町の商家に生まれました。
幼いころより茶道に親しみました。
20歳のころ、現在の三重郡朝日町に釜を開き、陶芸を始め、彼の作品は次第に有名となり、宝暦年間(1751年 - 1764年)に江戸に窯を開きました。
安永6年、60歳で死去。
Wikipediaより


桑名市での新選組関係で今回私が調べたのはこのお寺で終わりです。
近い範囲で謹慎していたのがよくわかりました。
謹慎といっても自由に行き来ができるようになったならば、気軽に行ける距離だったのですね。
故郷にいるというは心強かったでしょうし、同じ境遇の者が近くにいてるというはさらに心強かったかもしれません。

そしてこの史跡巡り中、同じように史跡巡りしている人には会う事はありませんでした。
やはり新選組は多摩地方や京都、会津、箱館がメインなのでしょう。

少し時間に余裕があったので、少し桑名を歩きました。
それは次回にUPします。













善西寺 - 関川代次郎の墓

2018年02月13日
善西寺(三重県桑名市西矢田町27-21)に関川代次郎の墓があるというので向かいました。

善西寺1  関川代次郎墓

本名は関川代次郎克海。
他に代治郎、代二郎。
伊勢桑名藩士(御下横目・八石二人扶持)
箱館新選組第四分隊隊士。
京都所司代時代には池田屋事件、禁門の変にも出動。
戊辰戦争時は藩主松平定敬の御供方の一員として各地に随行。
明治元年9月、仙台で新選組に入隊。
翌年5月、弁天台場で降伏。
同10年、西南戦争には桑名士族約300名が応募したが、代次郎もこれに参加。
その後は三重県尾鷲警察署巡査として永年勤務しました。
同42年夏、桑名で永眠。
享年72歳。



顕本寺から県道401号を真っ直ぐに西に約700m歩きます。
浅川交差点を左折、国道1号に入り一つ目の角に善西寺があります。

歴史を感じる墓石がありました。
この方、京都所司代時代があるのですね。
ということは、新選組を外から見ていた人です。
京都所司代ですからもちろん味方ですが、当時新選組を見てどう思っていたのでしょうか。
“強い”“できれば新選組に入りたい”とか思っていたのでしょうかね。

新選組が衰退していった箱館で、新選組に入隊していることから考えると今でいう、「憧れ」はあったのかもしれませんね。
西南戦争にも参加するほどですから、当時の考えのど真ん中にいた人なのでしょう。

その後、三重県で巡査として勤務というのは、斎藤一とダブってくるところありがありますね。
何だか容姿まで斉藤一とダブらせてしまうのは、少し行き過ぎですね。








顕本寺 - 新選組謹慎の寺

2018年02月12日
顕本寺(三重県桑名市萱町74)です。

顕本寺1  顕本寺2

顕本寺3


内山栄八、前田岩太郎が謹慎していました。

法盛寺を出て、左方向(南?)に真っ直ぐ約350m(5分)です。
萱町交差点の角にあります。


内山栄八
箱館編成新選組、第二隊所属隊士。
元伊勢桑名藩徒士。
生国は越後
戊辰北越戦争にさいして、御勘定方下役を務め六石二人扶持。

北越より転戦し会津へ。
さらに松平定敬の供をして会津を逃れ仙台に赴く。
明治元年9月に仙台で新選組に入隊しました。
10月蝦夷地えと渡航しました。
鷲ノ木に上陸して箱館へ向けて進撃し、10月24日の七重村戦闘では本道口を担当して、奮戦中に軽傷を負いました。

5月11日の新政府軍の箱館総攻撃では奮戦しましたが、15日に弁天台場で降伏しました。
津軽藩お預かりとなり、21日にイギリス商船・アルビオンに乗船させられ、22日に青森上陸のうえ油川明誓寺に護送されました。
6月9日には弘前城下の薬王院に移され謹慎生活を送りました。
10月24日に大坂艦に乗船、弁天台場送りの同志と別れ、東京送りとなりました。
11月9日夜に芝・増上寺境内の最勝院に入って、11日に旧藩に引き渡されました。
13日に東京を発ち23日に桑名へ到着。
国元で謹慎生活を続け、翌3年1月に許され自由になりました。



前田岩太郎
箱館編成新選組、第四分隊所属隊士。
元伊勢桑名藩徒士格。
越前鯖江藩・坂井宇右衛門の息子。
京都地組として桑名公に召し抱えられました。

江戸で立見鑑三郎らと行動を共にし、慶応4年3月15日に藩邸を抜けだし、旧幕府軍第七聯隊に属しました。
後に土方歳三らの旧幕脱走軍付属部隊となり、宇都宮攻城戦に参戦しました。
のち藩領越後柏崎で、桑名軍の神風隊に編入されています。
越後より転戦を重ね、会津から仙台に至りました。

同年9月、仙台で新選組に入隊しました。
松島から里浜へ、10月1日ごろから石巻に移動し、フランス式の調練を行いました。
7日ごろ渡波村へ向かい、10日に小舟で折浜沖の大江丸に乗船して蝦夷地へ行きました。

10月24日の七重村の戦闘では本道口を守りました。
明治2年5月15日に弁天台場で降伏しました。
津軽藩お預かりとなり、21日にイギリス商船・アルビオンに乗船させられ、22日に青森上陸のうえ油川明誓寺に護送されました。
6月9日には弘前城下の薬王院に移され謹慎生活を送りました。
10月24日に大坂艦に乗船、弁天台場送りの同志と別れ、東京送りとなりました。
11月9日夜に芝・増上寺境内の最勝院に入って、11日に旧藩に引き渡されました。
13日に東京を発ち23日に桑名へ到着。
国元で謹慎生活を続け、翌3年1月に許され自由になりました。
新選組大人名辞典より


旧桑名藩士で、箱館新選組と呼ばれる人々が謹慎生活を送ったお寺であり、特にお墓があるとかではありません。
なので正直、「そうか~」「広いな~」と思う程度でした。
確かに、十念寺、法盛寺と目と鼻の先ですから、自由に行き来できるようになってからは何度でも行き来できたと思います。

このお寺は、新選組謹慎の地というよりは、戦国時代 徳川家康の家臣であった水谷九左衛門の墓があるとして有名なようですね。
今回はそのお墓はお参りせずに次のお寺に向かうことにしました。
戦国時代でも徳川家康関係ですから、お墓に参るのもよかったのですが、時間的に余裕があまりなかったので門前で失礼してきました。












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