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名月姫公園

2016年12月12日
尾浜八幡宮よこの公園が、名月姫公園(兵庫県尼崎市尾浜町1丁目4)です。

名月姫公園2  名月姫公園3

名月姫公園1

隣の名月姫の墓にちなんでつけたのでしょうが、名月公園ではなく、名月姫公園。
「今日、名月姫公園で待ち合わせな」とか、「名月姫公園に来いや」とかいうのかな?
いやいやご近所さんは、なにか公園にピッタリな呼び名があるのでしょうね。

きれいな公園です。
この写真を撮っている私の背には、川が流れています。

しかし、今は全国的に公園でのボール遊びは禁止なんでしょうね。
こんなに広いのに…。
午前中は幼稚園から上の子供はそれぞれに登園、登校していていないので小さい子が主に遊んでいると思うのです。
夕方は大きな子たちが遊ぶので、夕方は簡単なボール遊びはOKでもいいと思うのです。
もちろん小さな子供への配慮は必要ですが、〇か×かの二者択一でなくてもいいと思うのですが…。
白黒ハッキリつけるのが最近は好きですよね。
どうしてその混在を認めないのだろうと思います。






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尾浜八幡神社 伝名月姫の墓

2016年12月11日
尾浜八幡神社(兵庫県尼崎市尾浜町1丁目4-27)には、名月姫の墓といわれるものがあります。

尾浜八幡宮

名月姫1  名月姫3

名月姫2


創立沿革は明らかでないが、当地尾浜の歴史とともに古く、天正年間に荒木村重滅亡のときの戦火に罹ったのではないかといわれる。現在の社殿と社務所は昭和47年に新造されたものである。旧時(律令時代)は、神仏混淆で、境内に大日堂が建っていた。現在、名月姫の塔(宝筐印塔)が当地境内にあるのは、その名残である。

尾浜宝筐院塔(伝名月姫の墓)
石質は花崗岩であって、相輪がなくなっていますが、傘の部分の頂上までの高さは、1.1mあります。
基礎石には、伏蓮華をほどこしています。
塔身の凡事は摩滅していますが、四隅の突起は完存しており、総体には装飾的な彫刻はみられません。
創建の時期はつくり方からみて鎌倉末期t考えられています。
名月姫と塔との結びつきは「円福寺大日如来之由来」に、名月姫が久安2年(1146)の8月15日、満月の夜に誕生しましたので名付けられたと記されています。
姫が14歳の時、野勢の藤兵衛実包に奮取されたという物語があり、彼女は今中将姫の化身としています。
この話と塔との年代差はかなり開いてきます。
また「摂津名所図会」に「尾浜村大日堂あり、この寺は名月姫の菩提所なり。また七松に名月姫の父三松国春の古弟あり」とみえますが、詳しい結びつきは不明です。
現地説明板(尼崎市教育委員会)より

名月姫伝説
約856年前の平安末期、今の尾浜町に才知、徳行に秀でた豪族、三松刑部国春が住んでた。
40歳になっても子供に恵まれず、京都・鞍馬山にこもって祈り続けたところ、久安2年8月15日、玉のような女の子が生まれた。
旧暦のこの日は、ちょうど中秋の名月で、国春は名月姫と名付けた。
成長するにつれ、その美しさは光り輝き、14歳の春、大阪能勢の豪族、蔵人家包に略奪されてしまった。
悲嘆にくれた国春は出家、諸国行脚しているうち、平清盛の手の者につかまり、港を築くため人柱にささげられることになった。
ある夜、一人の翁が名月姫の夢まくらに立ち「われは大日如来なり。そなたの父の命が危ない」と告げた。
姫は現地に急ぎ、涙、涙で助命を嘆願すると、清盛の寵臣がそのけなげさにうたれて身代わりとなり、姫は父とともに帰郷、大日如来をまつる寺院を建て平和に暮らしたという。(『立花志稿』による)
現地説明板より


こんな所にあったのかぁ。
ここ数週間、この横の道を通る用事があり、何度か通っていました。
そんなある日、ふと横を見ると、名月姫公園と書かれていて、さらに名月姫伝説の説明がありました。
「えっ」っと思わず止まってしまいました。
その日はカメラを持っていなかったので、次の時にカメラを忘れずに持ってっこなければと思いました。

家に帰って調べてみると、横にある神社内に名月姫の墓があるとのこと、それがこの写真です。
尾浜八幡宮の北東隅にあります。

塔は鎌倉末期時代のものだそうですが、鎌倉末期を1300年代ごろとしても、700年前後はここに建っているという事なんですね。
鎌倉、室町、安土桃山、江戸と考えただけでも、長い年月この地にあった塔なのでしょう。
いったいどんな出来事を目撃してきたのでしょう。

この墓が名月姫の墓である確率はゼロに近そうですが、名月姫は本当に実在したお姫様なのでしょうかね。
名月姫が実在したとして、略奪されて結婚させられたり、人柱にされそうになったりと、波乱万丈な人生で大変そうです。
どんなに美しい姫だったのか…、写真でもあれば見てみたいです。もちろんないけれど(笑)

この神社の近くの和菓子屋には名月姫というお菓子があります。








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丹波竜化石工房「ちーたんの館」

2016年12月07日
日本で発掘された最大級の化石、丹波竜をみに行きました。
丹波竜化石工房ちーたんの館」(兵庫県丹波市山南町谷川1110番地)です。

丹波竜

原寸大の丹波竜の骨格図を壁面に掲げ、クリーニングの済んだ化石レプリカを骨格図に貼付けてあります。
丹波竜の化石がどこまで発掘されクリーニングできているかが一目で分かります。

またクリーニング作業をガラス越しに見ることもできます。

丹波竜
兵庫県丹波市山南町加古川水系篠山川河床の篠山層群において2006年8月7日に初めて発見された、ティタノサウルス形類と推測される恐竜またはその化石。
2014年8月12日、兵庫県立人と自然の博物館は、丹波竜が新属新種と認められたと発表、学名は「タンバティタニス・アミキティアエ」となりました。
発見地の丹波と、ギリシア神話の巨人ティタニス、発見者2人の「友情」を意味するラテン語のアミキティアエを組み合わせたものです。

丹波竜が発見された篠山層群は、中生代白亜紀前期、1億4,000万年前~1億2,000万年前頃に平野部に土砂が堆積することによってできた地層で、当時の日本は大陸の一部であったため恐竜が生息していたことは考えられていました。

第一次発掘調査の研究成果(2007年1月25日~3月末)
これまでに採種され、クリーニングを経て明らかになったもの。
肋骨:1点
尾椎:2点
血道弓:3点
椎骨:3点
(以上はティタノサウルス形類である可能性の高い竜脚類)
獣脚類の歯:3点(分類上の詳細不明)

第二次発掘調査(2008年1月11日~2月末)
獣脚類のカルノサウルス類とみられる歯の化石(長さ4.5cm、幅1.5cm)
肋骨などを大量に発見
環椎(首の骨)1個(高さ約8cm、幅約6cm)が発見されました。環椎は頸椎の最上部にあり、頭部を支える骨です。
Wikipediaより



今回の史跡巡り(?)は、何万年前の史跡かしら?
丹波竜です。
化石の発掘現場はここから、7.7㎞ほど離れた川沿いになります。

ちーたんの館についてビックリ\(◎o◎)/!
壁から恐竜が覗いているではないですか!
写真の側面にあたる入り口上には、しっぽが出ていました。
市が管理する建物とは思えないほどの斬新さでした。

休日でしたが空いていました。
福井の恐竜博物館は超が付くほどの満員でしたが、こちらはゆっくりと見ることができます。
といっても、規模が全然違います。
こちらは丹波竜に特化したような展示なので、仕方がないかもしれませんね。
ただし、日本で発掘された、新種の恐竜化石が見られるという特典があります。

小さな子供連れで、ちょっと恐竜が見られたらOKならこちらの方がゆっくりと見ることができます。

化石に触れることができたり、クリーニングをしているところもみられました。
発掘現場の再現などもあって、実際に私も発掘してみたくなりましたよ。
1億年以上前のものが目の前にあるってすごいですよね。
恐竜っていったいどうやって生活していたのか…。
何か意思疎通の手段があったのかな?とか、肌の色は?とか、いろいろ想像できますね。
私は恐竜に詳しくないので、とんでもないことを書いているのかもしれません。












久々知須佐男神社 - 矢文石

2016年07月13日
久々知須佐男神社(兵庫県尼崎市久々知2丁目3-28)には多田満仲に由来する矢文石があります。

久々知須佐男神社1

久々知須佐男神社4  久々知須佐男神社3

拝殿前の大石は、「矢文石」と呼ばれます。
『小田村勢』では多田(源)満仲がふんばって多田城へ矢文を射たあとを残した石とされます。
しかし、神社に伝わる伝承では、満仲が矢を射て、九頭の大蛇を退治したあとだと伝わります。

社伝によると、満仲が摂津の国守として赴任したとき、住吉神の神託によりこの石の上から矢を放ちました。
矢ははるかに飛びあがり、池田の方角へ光を放ちながら落ちていきました。
満仲が矢の行方をたずね歩いたところ、頭が九つもある大蛇に突き刺さっていました。
大蛇から流れた血水のあとが多くの田のようにみえたことから、そこを「多田」と名付け、移住しました。
また、矢を問いながら来たところから「矢頭(やとう)」という地名をつけました。
尼崎百物語より


多田(源)満仲
平安時代中期の武将。
清和源氏、六孫王経基の嫡男。
多田源氏の祖で、多田満仲とも呼ばれる。
諱は満中とも記される。
神号は多田大権現。

当初は都で活動する武官貴族であった。
天徳4年(960年)平将門の子が入京したとの噂があり、検非違使や大蔵春実らと共にこの捜索を命じられた武士の一人として現れたのが史料上の初見。
武蔵権守の任期を終えていた応和元年(961年)に満仲の邸宅が強盗に襲撃される事件が起こり、自ら強盗の一味であった倉橋弘重を捕らえました。
弘重の供述によれば醍醐天皇の皇孫親繁王と清和天皇の皇孫源蕃基がそれぞれ主犯と共犯であったという。

左馬助在任時の康保2年(965年)に、多公高・播磨貞理らと共に村上天皇の鷹飼に任ぜられる。
同4年(967年)に村上天皇が崩御すると、藤原千晴と共に伊勢に派遣される固関使に命ぜられるが、離京することを嫌った双方が辞退を申し出たが、満仲のみ病による辞退を許されました。

安和2年(969年)の安和の変では、源連らによる皇太子・守平親王(のち円融天皇)廃太子の謀反があると密告して事件の端緒をつくった。
この事件で左大臣・源高明が失脚したが、満仲は高明の一派であり、これを裏切り密告したとの噂があります。
また、この事件で満仲の三弟・満季が対立する有力武士・藤原千晴の一族を追捕しています。
満仲は密告の恩賞により正五位下に昇進しまた。

藤原摂関家に仕えて、武蔵国・摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍に至る。
こうした官職に就くことによって莫大な富を得た満仲は他の武士からの嫉妬を受けたらしく、天延元年(973年)には武装した集団に左京一条にあった自邸を襲撃、放火されるという事件が起きています。
この事件による火災は周辺の建物300軒から500軒にまで延焼したという。
また、この事件でも同日中に三弟満季が嫌疑人を捕らえているが、実行犯については明らかでありません。

二度国司を務めた摂津国に土着。
摂津国住吉郡(現在の大阪市住吉区)の住吉大社に参籠した時の神託により、多田盆地(後の多田荘。現在の兵庫県川西市多田)に入部、所領として開拓するとともに、多くの郎党を養い武士団を形成しました。

また寛和元年(986年)に起きた花山天皇退位事件に際し、花山天皇を宮中から連れ出した藤原道兼を警護した「なにがしといふいみじき源氏の武者たち」とは、満仲の一族であったと考えられています。
この政変後、満仲と主従関係にあったとみられる藤原兼家は一条天皇の摂政に就任した。

翌永延元年(987年)多田の邸宅において郎党16人及び女房30余人と共に出家して満慶と称し、多田新発意(しんぼち)とよばれた。
この出家について、藤原実資は日記『小右記』に「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と記しています。
また『今昔物語集』には満仲の末子で延暦寺の僧となっていた源賢が父の殺生を悲しみ、天台座主院源と仏法を満仲に説き出家させたという説話があります。
なお同書ではこのときの年齢を六十余歳と伝えており、これによれば生年は延喜19年(919年)から延長6年(928年)の間になります。

長徳3年(997年)8月27日に卒去。
遺骸は多田院(現在の多田神社)に葬られた。
Wikipediaより


近松門左衛門の墓のある広済寺の横にある神社です。
近松公園からも行くことができます。

大きな石がありますが、ここから矢を放っても川西市までは…。
多田神社まで15kmも矢は飛ばないですよね。
と、言ってしまったら歴史の面白味は台無しになります。
1,000年以上前の歴史なのですから、一般人はそういう伝承を楽しむのもありですよね。
研究されている先生方はそれだけではいてけないでしょうが。

1,000年以上前って考えると、すっご~い前ですよね。
それを考えると、幕末なんてほんの少し前?
最近少し読んでいる戦国時代でも500年経つか経たないか。
近くに感じてしまいます。

1,000年前のこの辺りはいったいどういう風景だったのか、想像もつきません。
みんな一生懸命生きていたことはわかるのですが…。










伊佐具神社

2016年06月18日
伊佐具神社(兵庫県尼崎市上坂部3丁目25-18)に、有名な武将のものといわれるお墓があるなんて知りませんでした。

伊佐具神社5  伊佐具神社4

伊佐具神社1
    伝赤松円心墓

伊佐具神社2  伊佐具神社3
     船形の大石

『摂津名所図会』には「上坂部村にあり。『延喜式』に出づ。今、稲荷明神と称す。森村とともに産土神とす」とあります。

川辺郡式内社7社の中で唯一、皇室から鍬や靫が奉献されていた由緒ある神社。
さらに「延喜式玄蕃寮 巻21」に新羅かの客に賜う神酒を造るための稲を、大和・摂津・河内・和泉より選ばれた12社中の1社として、住吉社に送るとあります。
元弘3年6月、当社の近くに赤松円心が陣地を設けた際に、戦勝祈願をしたと伝えられる
Wikipediaより

元弘3年の元弘の乱では、播磨国の赤松円心が六波羅探題の軍勢と合戦を繰り広げました。
「播磨国太山寺衆徒等注進状」には、赤松方の播磨国太山寺(現 神戸市西区)の僧兵は、
2月21日 護良親王の命令を受ける
閏2月15日 兵庫島で合戦
閏2月23日 尼崎で合戦
閏2月24日 坂部村で合戦
3月1日 摩耶山で合戦
3月12日 京都で合戦
とあり、この地(現 上坂部)が戦場になったことがわかります。
『太平記』には、、六波羅探題に加勢する阿波国小笠原氏の軍勢が尼崎に上陸し、「久々智・酒部(坂部)」の赤松勢を攻めた事も記されています。

この坂部合戦の時、赤松円心がこの神社で戦勝祈願をしたと伝えられています。
その際、甲冑・太刀を奉納したが、掘り出されることを恐れて船形の大石で覆ったといいます。
この石は社殿の右側にあります。

また、赤松円心の墓といわれる石造五輪塔があります。
尼崎百物語より


赤松円心
鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将、守護大名。
本姓は源氏。家系は村上源氏の流れを汲む赤松氏第4代当主。
播磨国守護。
法名の円心でも知られています。

若い頃の動向については不明です。
京都に向かう途中に禅僧の雪村友梅と出会ったという話が伝わり、長男の範資と次男の貞範が摂津長洲荘(現在の兵庫県尼崎市)の悪党の取り締まりに派遣されたことと、赤松氏の本拠地である播磨佐用庄(現在の兵庫県佐用町)の一部の領主が六波羅探題の家臣であったことから六波羅に勤務していたと推定されています。

後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵した元弘の乱において、元弘3年1月21日、後醍醐天皇の皇子護良親王の令旨を受けて反幕府勢力として挙兵します。
初め一族の高田氏が内通しようとしたため、兵を動かし西条山城にて交戦。
その菩提寺である了宅庵にて自害に追い込みます。
続いて六波羅探題の命を受けた備前の守護加持氏が兵を出してきたが、先発隊である伊東氏と備前三石城で戦って盟主である伊東惟群を服従させ、これを西国幕府軍の備えとして三石城に残して東上を開始しました。

この後、室山に陣を築いて諸豪族の参集を待った。
しばらくの後、白川郷・山田村小部郷・石南花山を経て、布引谷沿いに南に向かい、あらかじめ範資に築かせておいた摂津摩耶山城へ入った。
2月11日には早くも六波羅軍2万が攻め寄せてくるが、赤松軍得意の野伏り戦を展開し、これを撃退しました。

勢いを駆った円心は尼崎の久々知に陣取り、24日には酒部に進出。
3月10日に六波羅軍1万が瀬川(現在の大阪府箕面市)に布陣。
その日の夜、尼崎から上陸した四国の小笠原勢が奇襲をかけてきたが、円心は僅か50騎で敵を突破し、久々知に帰陣しました。

そこで三男則祐の進言を聞き入れ、集合した兵3,000騎を率いて敵陣に夜襲をかけ、敵を敗走させた(瀬川合戦)。
ここでまた則祐の追撃案に基づいて、12日には摂津と山城の国境山崎に侵攻。京都淀・赤井・西岡付近に放火を敢行しました。

これに対して六波羅軍は、高橋・隅田両検断に2万を預けて出陣させた。円心は、軍を二つに分けて一方を久我縄手へ差し向け、自らは桂へ進軍して桂川を挟んで六波羅軍と対峙しました。
桂川は増水してとても渡れそうになかったが、則祐が先陣を切って押し渡り、敵を蹴散らした。そのまま大宮・猪熊・堀川・油小路に放火しつつ六波羅を目指し東山に攻め込んだ。

六波羅側は危機感を覚えたのか、時の天皇光厳天皇を六波羅に迎えて六波羅を仮御所とします。
また、新手の河野・陶山をはじめ、兵を大量に投入したため、これまで破竹の進撃をしていた円心軍は総崩れとなった。
円心と則祐は急ぎ男山まで逃れ、ここで円心は自刃すると従者に告げたと言われています。
しかし思い直した円心は自分の旗印である左三つ巴の旗の上に大龍を描き、八幡菩薩のお告げとして再度京都へ攻め込むと告げます。

再起した円心は山崎と八幡に陣取り淀川と西国街道を押さえ兵糧攻めに切り替え、3月28日と4月3日に京都を攻めたが、六波羅を落とせず八幡で待機、27日に鎌倉から派遣された追討軍の大将軍名越高家・足利高氏(尊氏)の出陣を知ると迎撃に出陣、久我畷の合戦において一族で家臣の佐用城主の佐用範家が名越高家を討ち取って戦は終わりました。
この戦の後、高氏は畿内の領地である丹波篠村へ向かい、兵を集めて2万3,000騎で反幕府として挙兵した。円心も5月8日に千種忠顕や結城親光、高氏らに合流して京都を包囲、六波羅を陥落させました。
六波羅探題北条仲時・北条時益は落ち延びる途中で捕捉され自殺、関東では新田義貞・足利義詮が鎌倉を落とし、元弘の乱は終結しました。
円心は六波羅陥落後、帰洛の途についた後醍醐天皇に30日に兵庫で拝謁しています。

鎌倉幕府滅亡後の建武の新政では、恩賞に播磨守護職を与えられながら、政争に巻き込まれ没収されるなど不遇であった事が知られています。
これは朝廷内の権力争いの結果、護良親王派が三位局(阿野廉子)派に敗れた結果といわれます。
同じく護良派といわれる楠木正成も戦功に比べ不遇であり、逆に三位局派の名和長年、千種忠顕等は新政の恩賞で厚遇されたといいます。
また、共に倒幕戦争を戦った護良親王が建武元年に失脚すると円心の新政における立場は失われました。
怒った円心は佐用庄へ帰っている。

これらの不満から建武政権と決別、建武2年、足利尊氏が中先代の乱を平定する軍に範資と貞範を従軍させました。
平定後、尊氏が鎌倉で建武政権から離反して京都に進攻、翌建武3年に北畠顕家、新田義貞、楠木正成らの宮方に敗れて九州へ逃れた時も足利方に留まり、尊氏から改めて播磨守護職を授けられました。

以後は足利方として戦い、京都方面から進撃してきた義貞を総大将とする尊氏討伐軍6万騎を、播磨赤松の白旗城で迎え撃った。
円心は、則祐を配した城山城などの城郭を播磨各地に築き、市川沿いに書写山を中心とする第一防衛線、揖保川沿いにを城山城を中心とする第二防衛線、そして千種川沿いに白旗城を中心とする第三防衛線をもうけて徹底抗戦を行いました。
さらに白旗城は、地理的に北方の美作、但馬方面、西方の備前からいくらでも支援が可能という強みを持ち合わせていました。
そのため義貞率いる討伐軍は、円心以下2,000の兵が立て籠る白旗城を圧倒的な兵力を持ちながら攻めあぐね、3月から5月まで50日以上釘付けにされました。

その間、尊氏は多々良浜の戦いで菊池武敏を破り、九州を制圧。西国の武士を軒並み味方に加えながら、軍勢を海と陸の二手に分けて東上を開始した。
足利軍東上の知らせに新田軍は撤退を開始するが、士気は極端に低下し、寝返りや足利軍への投降者が続出しました。
さらに、白旗城を出てきた赤松軍の追撃も受け、総崩れとなって兵庫まで逃げ延びた。
尊氏は白旗城から撤退した新田軍に5月25日の湊川の戦いで勝利、翌年に範資が摂津守護に任命され、赤松氏は2ヶ国の守護となりました。
但し、播磨には義貞の同族に当たる金谷経氏が残って播磨丹生山で挙兵したため、円心は延元3年/暦応元年から興国3年/康永元年まで範資・則祐と共に反乱鎮圧に費やすことになりました。

尊氏及び執事の高師直と弟の足利直義が対立した観応の擾乱においては尊氏に従い、尊氏の庶子で直義の養子である、直義方の直冬を追討するために軍を編成している最中、正平5年/観応元年1月11日、京都七条にある邸宅で急死しました。
享年74。
家督と播磨守護は範資が相続したが、翌正平6年/観応2年に範資も急死したため、摂津守護は孫の光範に、家督と播磨守護は則祐に受け継がれました。

法名は法雲寺月潭円心。
墓所は京都市東区の東山建仁寺の塔頭寺院久昌院。
供養塔が兵庫県赤穂郡上郡町の金華山法雲寺(法雲昌国禅寺)にあります。
また、木像が兵庫県赤穂郡上郡町の宝林寺にあります。
Wikipediaより


赤松円心ってどなた?
どうやら鎌倉時代の人のようです。
赤松円心以外の人物名って、聞いたことのある人がたくさん出てきます。
という事は、政治の中心にいた人達と近い場所にいた人なんですね。

伝赤松円心の墓があるというので、見に行くことにしました。
鳥居をくぐって見渡しても、どこにあるのかわかりませんでした。
決して広い境内ではないのですが…。
鳥居をくぐって右を見ると、手水鉢の向うに何かある?
近寄ってみると五輪塔でした。
これですね。
写真で見てわかるように、狭い場所に忘れれられてように建っています。

これはお墓と伝わりつつも、供養碑的な意味合いが強いのかな…。

そして本殿の横に、柵があったので覗いてみると、船形の大石といわれるものでした。
ここに甲冑や太刀を埋めたんですね。
埋まっているのかな?
赤松円心の気持ちを尊重して、掘り返すなどの調査はされていないそうです。

鎌倉時代から700年以上経っているので、調査してほしいという興味もありますが、はっきりとわからないという歴史のロマンでもいいかもしれませんね。
本当に思わぬ場所にいろいろな歴史がありますね。

しかし鎌倉時代は本当にわからないわ~。
幕末は好きで話もよく聞くし、世間的には戦国が人気№1で見聞きするのである程度はわかっても、鎌倉時代はあまり聞かないです。
南北朝時代は歴史の教科書で見たぐらいしかわかりません。
でも、この歴史があってこその今の日本なんですよね。












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