雑司が谷霊園-補遺

2009年03月24日
雑司が谷霊園(東京都豊島区南池袋4丁目25)のその他の幕末関係のお墓です。

岩瀬忠震の墓(1種1号8側) 幕臣。日露和親条約に調印。日米修好通商条約調印。文久元年7月11日死去。享年44歳。

佐々木一の墓(1種5号27側38・39番) 新選組隊士。並河一。宇都宮市の次男宅で大正15年5月24日死去。享年76歳。

沢為量の墓(1種1号3側) 公家。七卿落ちの沢宜嘉は養子。明治22年8月9日死去。正二位。

中島錫胤の墓(1種4A号2側) 徳島藩士。京都足利三代木像の梟首に関与しました。明治38年10月4日死去。享年77歳。男爵。
幕末維新江戸東京史跡事典より



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新人物往来社

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雑司ヶ谷霊園

雑司が谷霊園-補遺

2009年03月10日
雑司が谷霊園(東京都豊島区南池袋4丁目25)のその他の幕末関係のお墓です。

岩瀬忠震(1種1号8側)
幕臣。肥後守。
文化15年生まれ。
嘉永2年、幕府に出仕。
開明的で外国事情に精通し、海防掛などを務めました。
講武所の設置、海軍伝習所の開設、品川台場建設、蕃書調所開校などにもかかわりました。
安政3年には外国貿易取調掛・

日露和親条約に調印。
また全権委員として日米修好通商条約の交渉に務め、幕府代表として安政5年に調印しました。
安政の大獄に連座して同6年に永蟄居。
文久元年7月11日死去。享年44歳。

佐々木一(1種5号27側38・39)
新選組隊士。
嘉永4年6月4日、江戸で彦根藩士の家に生まれました。
並河一。

慶応3年に新選組に入隊。
翌4年、鳥羽・伏見から甲州勝沼、会津と戊辰戦争を戦い、箱館に渡航しました。
箱館新選組では三分隊に属して戦闘に参加しました。
明治2年5月、箱館弁天台場で降伏しました。
弘前の薬王院に収容されました。
翌3年に放免。
大正15年5月24日、宇都宮市の次男宅で死去。享年76歳。

沢為量(1種1号3側)
公家。
文化9年生まれ。
安政5年3月、条約勅許反対の88卿参列に参加しました。

慶応4年、新政府軍の奥羽鎮撫副総督として、東北各地を転戦します。
七卿落ちの沢宣嘉は養子です。
明治22年8月9日死去。
正二位。

中島錫胤(1種4A号2側)
徳島藩士。
文政12年生まれ。
嘉永4年、京都の儒者中島棕隠の養子となりました。

文久3年2月23日、京都の等持院にある足利尊氏ら三大将軍の木像を三条大橋に梟首した事件に関与しました。
同志の小室信夫と郷里の阿波に逃れて潜伏しましたが、獄に投じられました。
慶応4年に許されて上京し官に仕えました。
桑名松平家再興について相談を受けたといいます。
明治38年10月4日死去。享年77歳。
男爵。
幕末維新江戸東京史跡事典より


佐々木一という新選組隊士のお墓もあったのは、当時知りませんでした。
また行かないと…。

多くの方のお墓があるので、ぜひ歴史を感じながらお参りしてみてはいかがでしょうか。
時々、「えっ」と思うような形のお墓に出合ったりします。
古くて、朽ちてしまいそうなお墓を目にすると、長い歴史をヒシヒシと感じたりします。

お墓にいると落ち着きませんか?
最近出来たような、綺麗に整列して墓石が建つ墓地公園ではなく、古いお墓が多くて雑然としているような墓地が好きです。
そしてそんな中から、会いたい人のお墓を見つけるのはもっと好きです。
やはりマニアかしら?


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雑司が谷霊園

中浜(ジョン)万次郎墓-雑司が谷霊園Ⅲ

2009年03月10日
雑司が谷霊園(東京都豊島区南池袋4丁目25)の中浜万次郎墓(1種15号19側1番)です。
中浜万次郎墓2  中浜万次郎墓1
中浜万次郎(ジョン万次郎)は、土佐国幡多郡中ノ浜村の出身の漁民。
土佐藩士。
幕臣。
天保12年に乗っていた漁船が遭難し、以後12年間、無人島やアメリカ本土での生活を余儀なくされました。
嘉永5年に土佐に帰国後は貴重な漂流体験を語り伝えました。
同年、藩士として取り立てられましたが、翌6年には幕府に招聘され、軍艦操練所教授などをつとめました。
また万延元年には、咸臨丸に通訳として乗り組み渡米しました。
その後は、元治元年に薩摩藩の開成所、慶応2年に土佐藩の開成館に招かれて教授をつとめました。

龍馬との接触は史料では確認できていません。
また龍馬の思想に与えた影響もはっきりしていません。

維新後の明治2年、新政府に出仕して開成学校の教授となりましたが、晩年は官を辞して不遇の生活を送りました。
享年72歳。
坂本龍馬大事典より


営団地下鉄有楽町線東池袋駅から南へ。
都電荒川線雑司が谷駅なら、東側一帯が雑司が谷霊園のようです。

雑司が谷霊園の最後は中浜万次郎のお墓です。
ジョン万次郎の方が名前が通っているのかもしれません。
江戸時代という時に、漂流してアメリカで生活するというのは、並大抵な精神力では生きていけないのではないでしょうか?
ひとりっきりでしょ?

古代といわれるような時代、遣隋使や遣唐使として中国方面に行った人も凄いと思いますが、アメリカは距離も違いますからね。
言葉も通じない。
国の使節団ではないので、帰れる保障も無し。
心細いという言葉では、足りないでしょうね。

そんな人のお墓が目の前にあります。
日本に帰れたんだ~。よかった、本当によかったです。
晩年は不遇の時を送ったそうですが、フランスへ視察に行っていて、病気になり帰国し亡くなったようです。
最後も日本に帰れてよかったです。

激動の人生で、心休まることはなかったような人生にも思いますが、日本の地で眠りにつけたことが一番の幸せと思っている…かもしれませんよね。


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中浜 博

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ジョン万次郎

小栗上野介墓-雑司が谷霊園Ⅱ

2009年03月09日

小栗上野介墓(1種4号B5側)も雑司が谷霊園(東京都豊島区南池袋4丁目25)にあります。
小栗上野介墓
小栗上野介(忠順)は、幕府の開明派幹部。
主として財政・軍事部門を担当しました。
王政復古に際して主戦を唱えましたが、容れられず領知に帰り、官軍に逮捕され斬首されました。
豊後守。代々又一と称し、2,500石。

安政2年父の死により家を継ぎ、同4年御使番となって以来、生涯に70数度の職を転じた有能の幕士です。
同6年、目付となり、万延元年正月、日米条約批准交換使節一行の監察として渡米しました。
帰国後外国奉行となり、ロシア軍艦ポサドニック号の対馬占領事件を解決指導するため対馬に出張し、ロシア人の退去を要求しましたが成功せず、外国奉行を免職になりました。
その後、町奉行、勘定奉行、陸軍奉行、勘定奉行(再)、軍艦奉行と転任しましたが、彼は幕府財政の根本的改革に精力を最も傾けました。
内外の金銀相場の差に注目し、日本貨の品位を3倍にして国外流出を防ぎました。
外国為替法を研究しました。
勘定奉行として従来の特権であった諸大名からの贈賄を拒否しました。
伝統的儀式の簡略をはかり冗費を節約しました。
外国人との取引を平等にするために、商社を設立して資本力を高めることを幕府に建議しました。
信用経済の近代的運用、公債発行と債却方法の検討、幕臣の給与表を作成し予算原則を導入するなど、幕府財政の近代的改革に努力しました。

また徳川家による絶対主義政権構想を最も早く唱えた人物であり、その実現のためにまず軍備の充実をはかりました。
フランス人技師ウェルニーと契約、相模の横須賀に製鉄所、ドック、造船所、武器庫を備えた一大軍需施設の建設にとりかかりました。
フランスのツーロン軍港をモデルとするこの計画は完成には至りませんでしたが、明治政府に接収され日清戦争で強大な海軍力を用意する事ができました。
小栗はこれが、他の面における経費節約を強制するための口実になるという波及効果も考えていました。
また陸軍の兵制をフランス式に切り替え、フランスから軍事教官を招いて歩兵を編成しました。
この関係で、フランスと幕府の接近が深いものになりました。

絶対主義政権樹立による郡県制移行の為に小栗がとった第2の策は、反幕勢力を徹底的に叩くことでした。
元治元年幕府は長州に対する第2回目の征討軍を発することになりますが、これを最も強く主張したのが小栗でした。
第1回の征長で幕府は名目を保ったのですが、小栗の構想では、長州は実質的に敗北させられねばならなかったのです。
彼の構想が全面的に幕府に採用されることに至らず、また軍事力に乏しいことがわかっていたので、フランスの軍事協力を求めることさえ唱えましたが、これは勝海舟の反対もあって中止となり、幕府は惨敗を喫しました。

慶喜の大政奉還に対しては真っ向から反対を唱え、江戸の薩摩屋敷攻撃を主張してこれを実現、鳥羽・伏見の開戦の諸をつくりました。
のちに大村益次郎をして驚嘆させるほどの徳川必勝戦略を作成していましたが、慶喜が謝罪恭順と決したため、慶応4年2月末、領地の上州群馬郡権田村に帰農しました。
ここで農兵編制を行いましたが、4月、東山道鎮撫軍に無抵抗降伏し、養子又一および6人の臣とともに烏川の河原で斬首となりました。

権田村東禅寺にも墓があります。
横須賀公園に碑があります。
幕末維新人名事典より


営団地下鉄有楽町線東池袋駅から南へ。
都電荒川線雑司が谷駅なら、東側一帯が雑司が谷霊園のようです。

雑司が谷霊園の次の目的のお墓は、小栗上野介でした。
小栗上野介のイメージは、頭の切れる人です。
それよりも、当時、一大ブームを巻き起こしていた“徳川埋蔵金”の重要人物としてのイメージでした。
この人が埋蔵金を、赤城山周辺に埋めたとされています。
小栗上野介の埋めたという埋蔵金は、赤城山だけではなく、あと数箇所あるようです。

埋蔵金伝説は各地にあるようですね。
私の家の近くにも、豊臣秀吉の4億5,000万両の埋蔵金伝説があります。
長年探している人もおられるようです。
4億5,000万両って、現在の貨幣価値ではいくらぐらいなのでしょう?

埋蔵金が本当にあるかといことは別にしても、埋蔵金ってロマンですよね。
私が探し当てることは、ゼロですから、せめて誰かが探し当てたというニュースを聞いてみたいです。
ぜひお願いします。

小栗上野介の墓は、故郷にもあるようです。
きっと故郷の方が、ゆっくりと休めているでしょう。
もしかしたら、埋蔵金が掘り当てられないように、監視しているのかもしれませんね。

斬首されたのが、養子又一と6人の臣も一緒というのが、悲しみを倍増させます。
養子に迎えなければ、又一は死なずにすんだかもしれません。
6人の臣というのも、斬首に値するような事をおこしたのでしょうか。
それより以前に、小栗上野介自身も斬首されないといけなかったのか?

慶応4年にもなって、斬首された人っていないのでは?
戦闘で亡くなった人は、数えられない程いますが…。
と思ったら、そうだ!近藤勇がいました。
幕府の中心にいた人はほとんど、維新後に赦されているようなので、小栗上野介だけ何故?と思ったのです。
近藤勇は幕臣に取り立てられたといっても、純粋な幕臣とは少し違いますからね。

小栗さん、埋蔵金は本当にあるのですか?
(あったとしたら)どこに埋めたのですか?
私にこっそり教えて下さい。


謎解き紀行 徳川埋蔵金 「かごめの歌」に隠された秘密 上謎解き紀行 徳川埋蔵金 「かごめの歌」に隠された秘密 上
(2007/10/25)
山中廣稔

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日本の埋蔵金

千葉定吉墓&千葉重太郎墓-谷中霊園Ⅰ

2009年03月09日
雑司が谷霊園(東京都豊島区南池袋4丁目25)にある、千葉定吉と千葉重太郎墓(1種西6号5側)です。
千葉重太郎墓
千葉定吉は、政道。
陸奥国栗原郡荒谷村の出身の剣士。
千葉周作の弟。
文武両道に通じ、北辰一刀流剣術を創始した兄周作を補佐して、神田お玉ヶ池の道場玄武館の隆盛に貢献しました。
みずからも京橋桶町付近に道場を構える一方、嘉永6年4月21日に鳥取藩の江戸屋敷に仕え、剣術師範をつとめました。

土佐から剣術修行のために江戸に出た龍馬が入門したのは、この定吉道場だと伝わっています。
しかし、龍馬の入門とほぼ同時に定吉は、鳥取藩に仕官したため、実際に龍馬に剣を教えたのは息子の重太郎であったと思われます。

維新後の明治4年1月に家督を重太郎に譲って隠居となり、同12年に没しました。
享年未詳。

千葉重太郎は、一胤。
武蔵国江戸杉之森の出身。剣士。
千葉定吉の長男。
父定吉の開いた京橋の道場で剣術を教授し、安政5年1月に定吉が龍馬に授けた「北辰一刀流長刀兵法目録」にも連署しています。
万延元年ごろになると、定吉同様に鳥取藩に仕えるようになり、文久2年12月3日に藩の周旋方に就任しました。
同月9日には大坂への出張が命じられ、29日、当時神戸に滞在していた勝海舟の宿所を坂本龍馬とともに訪れています。

以後、鳥取藩士としての行動が目立ちます。
長州征伐や戊辰戦争にも従軍しました。
明治4年1月、定吉の隠居により家督を相続しました。
その後は鳥取県、開拓史、京都府などに出仕しました。
享年62歳。

【余談】
千葉佐那は、千葉定吉の長女です。
文久3年8月に龍馬が姉乙女に宛てた手紙でに、
“馬に乗り、剣も強く、長刀もできる。さらに力は並みの男よりも強く、十三弦の琴を弾き、絵も描く。
気立てもよく、口数は少なく静かな女性。
そして顔形は平尾加尾よりも少しいい”としています。
この時、佐那は26歳でした。

佐那が龍馬と婚約したということは知られています。
彼女が『女学雑誌』で、
“千葉家より結納として短刀一振を贈り、龍馬からは以前に松平春嶽より拝領して着古びた紋付が贈られた。”
安政5、6年、佐那が21、22歳の時だったといいます。
このころ龍馬は江戸に出ていたので、出会った可能性はありますが、婚約までした佐那を乙女に紹介したのが文久3年であることから、婚約の年次は記憶違いの可能性があります。

翌年5月に、楢崎龍とであった龍馬は、8月に祝言を挙げていることから、佐那との“婚約”がどれほど現実性のあるものだったかは疑問視れさます。
お龍が後年になって、『千里駒後日譚』で“龍馬は「お佐野(ママ)はおれのためには随分骨を折ってくれたが、おれは何だか好かぬから取り合わなかった」”といっていたといいます。

維新後も独身を貫きました。
明治15年9月に学習院女子部の舎監となり、18年9月から東京千住に「千葉灸治院」を開き、家伝の灸治療で生計を立てていましたが病死しました。
享年59歳。
東京都台東区の谷中霊園に埋葬されましたが、小田切謙明の妻豊次によって、
山梨県甲府市朝日5丁目の清運寺に分骨されました。
谷中の墓は無縁仏として八柱霊園に移されたため、現存しません。
坂本龍馬大事典より

営団地下鉄有楽町線東池袋駅から南へ。
都電荒川線雑司が谷駅なら、東側一帯が雑司が谷霊園のようです。
護国寺の隣なので、護国寺から歩いてくるのもいいかもしれないです。

雑司が谷霊園を訪れたのは、まずは千葉父子のお墓にお参りすることでした。
いうまでもなく、例の“竜馬におまかせ”関係で興味をそそられました。
龍馬が千葉門下であるのは、耳にしていました。
玄武館の周作ではなく、桶町の定吉だったのはこのドラマでバッチリ記憶に入りました。
司馬遼太郎氏の“竜馬がゆく”でも佐那が出ていたので、桶町定吉は出て来ているはずですが、すっかり忘れていました。

あのドラマは、コメディータッチで描かれていたので、定吉も伊東四郎氏がやられていて、すっごく変なおじさんでしたし、重太郎も別所哲也氏が天然ボケという設定で演じられていました。
そのイメージの親子ですが、実際は鳥取藩に出仕するほどの人だったようですね。

お墓の位置がどこだったのかはっきりと覚えていないのですが、すぐに見つける事ができました。
周りのお墓と、形が違うのが判っていただけるのではないでしょうか。
上から下まで真っ直ぐな墓石が建っているのが、いかにも剣客らしいです。
本当の定吉と重太郎はどんな容姿で、どんな人間性の、どんな性格の人だったのでしょう。

余談で書いた佐那ですが、婚約というのはどうだったのでしょう。
“婚約”という事が本当にあったのなら、龍馬が悪い!
きちんと婚約解消をするべきです。
佐那の独り相撲だったのなら………女性としてはなんとも言い難いですね。
山梨県甲府市の佐那の墓には、「坂本龍馬室」と刻まれているそうです。

雑司が谷の定吉の横にでも葬られたならば、谷中霊園で無縁仏になる事もなかったのでは?
千葉家の墓には長男しか入れない?
でも、佐那は一度も千葉姓から変わっていないのに…。
今でも、○○家の墓には長男しか入れない!という人がいますが、(それが常識だったとしても)現在の墓地事情を考えたらどうかと思います。
家の血筋とか、本家・分家ってそんなに大事なのかな?
仏様はそんなに御心が狭いのでしょうか?


お~い!竜馬 (第20巻) (ヤングサンデーコミックス)お~い!竜馬 (第20巻) (ヤングサンデーコミックス)
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