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蒸気機関車(SL)

2009年04月24日
博物館明治村(愛知県犬山市内山1番地)の明治村「名古屋駅」と「東京駅」の間、約800メートルを走っている蒸気機関車(SL)です。
SL304
写真は機関車が方向転換しているところです。
回転台(?)で止った機関車は、人力で回転させていました。

京都市電も走っています。
  日本で最初に開通した路面電車「京都市電」は「チンチン電車」という愛称で親しまれています。


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聖ヨハネ教会堂

2009年04月24日
京都にあった、聖ヨハネ教会堂も博物館明治村(愛知県犬山市内山1番地)に移築されています。
聖ヨハネ教会堂302
旧所在地 京都市下京区河原町通五條

明治6年、キリスト教の禁止令が解かれ、各地に教会堂が建てられるようになりました。

聖ヨハネ教会堂は、明治40年京都の河原町通りに建てられたプロテスタントの一派日本聖公会の京都五條教会で、2階が会堂に、1階は日曜学校や幼稚園に使われていました。
中世ヨーロッパのロマネスク様式を基調に、細部にゴシックのデザインを交えた外観で、正面左右に高い尖塔が建てられ、奥に十字形大屋根がかかる会堂が配された教会です。
正面の妻と交差廊の両妻には大きな尖塔アーチの窓が開けられ、室内が大変明くなっています。
構造は、1階がレンガ造、2階が木造で造られ、屋根には軽い金属板が葺かれています。
博物館明治村HPより


聖ザビエル天主堂と、違った雰囲気の教会です。
ヨーロッパの田舎の教会?のイメージでしょうか。

この教会は下京区河原町五条ですから、五条大橋の近くにあったはずです。
現在の三条と五条の町のイメージからすと、この教会は五条の方が似合いそうです。
聖ザビエル天主堂は三条の方が似合いそうです。
五条はどちらかといえば、落ち着いた雰囲気のイメージなので、聖ヨハネ教会堂の方がマッチしそうだと思いませんか?

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聖ザビエル天主堂

2009年04月22日
京都にあった聖ザビエル天主堂も、博物館明治村(愛知県犬山市内山1番地)に移築されています。
聖ザビエル天主堂303
旧所在地 京都市中京区河原町三條

白亜の教会堂は、聖フランシスコ・ザビエルを記念して、明治23年かつてザビエルがいたことのある京都の地に献堂されたカトリックの教会堂です。

基本構造はレンガ造と木造との併用で、外周の壁をレンガ造で築き、丸い高窓の並ぶクリアストーリーの壁を木骨竹小舞の大壁構造にし、内部の柱や小屋組等を木造で組み上げてあり、内外の壁は漆喰を塗って仕上げています。
正面入口の上には直径3.6mを超える大きな薔薇窓が付けられ、切妻の頂点には十字架が掲げられています。

当初は壁や窓のモールディング等はゴシック様式の異形レンガの積み込みにより作られていましたが、移築に際し、建物強化のために躯体を鉄筋コンクリートに変更するのに合わせて、モールディングの部分もプレキャストコンクリートに置き換えています。

外光を通して美しい陰影を見せるステンドグラスは、色ガラスに模様を描いたもので、外に透明ガラスを重ねて保護されている。
博物館明治村HPより


中に入ると、映像で見る外国の教会のようでした。
私は教会に入った事が数回しかないので、どのような様式が一般的なのか判らないのですが、イメージする教会でした。
結婚式場のチャペルとは違いますよね。
そこなら友人の結婚式で何度かみていますが…。

この教会が京都に建っていたところはなかなか想像し難いです。
京都といえば、お寺に神社と、日本古来の建物を思い浮かべます。
明治になっていたといっても、今でさえお寺に神社がメインですから教会というものが思い浮かびません。
建てられた時は、一際目を引いたのではないでしょうか。

京都では、中京区河原町三条に建てられていたそうです。
河原町三条といえば……

ピンポン!

池田屋があった辺りです。
池田屋の変で、新選組が徳川幕府の為に戦った、およそ30年後にはキリスト教の教会が建っていたのです。
開国か攘夷かと戦ったほんの数十年後には、こんな教会が建つのですから、諸行無常…盛者必衰…を感じてしまいました。
幕末当時、京都などで戦った人たちは、佐幕・尊王・開国・攘夷関係なく近代化していく日本をどう思いながら過ごしたのでしょう。


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皇居正門石橋飾電燈

2009年04月21日
愛知県の博物館明治村(愛知県犬山市内山1番地)にある、皇居正門石橋飾電燈です。
皇居正門石橋飾電燈305
旧所在地 東京都千代田区千代田

皇居前広場から皇居に通じる橋です。
江戸時代からこの場所には“西の丸大手橋”と呼ばれる木橋が架けられていました。
明治宮殿造営に際して二重橋の鉄橋も木橋から架け替えられましたが、この“石橋”も木橋に替わり架けられました。

橋は、明治19年3月に起工され明治20年12月に竣工しました。
岡山産大島花崗岩造りで、橋の渡り35.3m、幅12.8mで、橋脚は円弧のアーチを二つ並べた眼鏡橋の形に設計されています。
この橋は、昭和23年から行われている一般参賀に開放されますが、それまでは、天皇、皇后、皇族、あるいは外国の貴賓と大公使に限って通行できました。

橋の両側に高さ114㎝の石の手すりがありその間に高さ174㎝の男柱が片側3本ずつ計6本あります。
それぞれの男柱石の上に青銅鋳造飾電燈計6基が設置されました。
皇居造営に伴い皇居内外に、この飾電燈を含めて900を超える電燈が設置されました。
電燈ははじめガス燈にする予定でしたが、電燈の照明度と安全性が上申され、電燈を採用することとなり東京電燈会社によって建設されました。

長年使われてきた6基の飾電燈は、昭和61年9月、鋳型を取って新しく鋳造されたものと交換され、取り外されたもののうち1基が明治村に払い下げられました。
明治村では男柱石を新材で製作し、これを台座としてその上に飾電燈を展示しています。
博物館明治村HPより


明治村では内閣文庫の隣にありますが、建物が建ち並ぶ中では、電燈は小さくて見落としてしまいそうです。
幕末とは直接関係ありませんが、幕末維新の戦いは徳川家vs.天皇家のようなものですから、皇居は少なからず関わりがあるといってもいいと思います。
江戸城だと大喜びだったのですが、もう皇居なんですよね。
その皇居の石橋の飾電燈です。

皇居を訪れた時、桜田門を見に行く途中に、二重橋はあの辺り?と見たのですが、その手前が石橋だったようです。
その時は、全然石橋なんて気にしていませんでした。
残念です。
こういう事はよくありますね。
幕末に直接関係ないのでよかったぁ~。でも残念。

この飾電燈は、確かに細かな細工があって手が込んでいる感じでした。
でも私がこれを見た時の第一印象は、「ん~、あまりピンッと来ないな。」に近かったです。
いまひとつ印象に残る物でありませんでした。
何だろう、“おまけ”って感じ?少し違うかな…。
おもちゃに見えたというのも、正直なところです。


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皇居

西郷從道邸

2009年04月20日
博物館明治村(愛知県犬山市内山1番地)に移築されている、西郷從道邸です。
西郷從道邸301
旧所在地 東京都目黒区上目黒

木造総二階建銅板葺の洋館は、明治10年代のはじめ西郷隆盛の弟西郷從道が東京上目黒の自邸内に建てたものです。

西郷從道は、明治初年から度々海外に視察に出掛け、国内では陸・海軍、農商務、内務等の大臣を歴任、維新政府の中枢に居た人物で、在日外交官との接触も多くありました。
そのため「西郷山」と呼ばれる程の広い敷地内に、和風の本館と本格的な洋館を接客の場として設けました。

屋根に重い瓦を使わず、軽い銅板を葺いたり、壁の下の方にレンガをおもり代わりに埋め込み、建物の浮き上がりを防いでいること等に、耐震性を高めるための工夫がみられます。

西郷從道は、薩摩藩士。海軍大将、海軍大臣。侯爵。隆盛の弟
隆盛は4人兄弟(妹は3人)でしたが、次弟吉次郎は戊辰戦争、隆盛と末弟小兵衛は西南戦争で戦死しました。この從道だけが生き残りました。
幼名は信吾。
尊攘派として精忠組に参加。
文久2年の京都義挙に加わり寺田屋に集合していましたが、島津久光が鎮撫の上意を発したのを聞くと刀を捨てて降伏しました。

元治元年2月、流罪を解かれた兄隆盛を迎えに沖永良部島に行きました。
鳥羽・伏見の戦いで耳から首にかけて弾を受けましたが、軽傷で済みました。
戊辰戦争には、越後口に出陣しました。

明治2年3月、長州の山県有朋とヨーロッパの軍制を調査のため渡欧、アメリカ経由で帰国、兵部権大丞になりました。
明治4年7月、隆盛、大山巌との3人で薩摩を代表、長州側と廃藩置県の密約に参加し、決定しました。
明治7年陸軍中将となって陸軍薩摩閥を代表する位置に立ち、前年参議を辞して鹿児島に帰った隆盛と反対の立場に立ちました。
台湾征討では台湾蛮地事務都督として最高指揮者となりました。
事前に鹿児島に赴き、征韓に替えて台湾を討つ事を理由に隆盛の政府復帰を誘いましたが、拒否されたといいます。
しかし隆盛は300の兵を出してやりました。
明治10年の西南戦争にさいしては動きませんでした。

その後、文部卿、陸軍卿、農商務卿を歴任、第一次伊藤内閣の海軍大臣となって以降、歴代内閣の海軍大臣や内務大臣をつとめました。
明治25年6月創立の国民協会の会長となりましたが(副会長品川弥二郎)、翌年春に退会しました。
明治31年。元帥府に列しました。
博物館明治村&幕末維新人名事典より


北口から入ったため、西郷從道邸は一番遠い場所にありました。
雨は降ってくるし、閉館時間は迫るは…で、ちょと焦りました。
しかしそのお陰で、最終ガイドツアーに参加する事ができました。
自由見学できる1階だけでなく、2階にも上って見学しました。

明治村に建っているからか、こじんまりとした建物に見えました。
きっと町の住宅街にあると、広大なお屋敷なのでしょうね。
2階のベランダでは、大理石かと思っていたら、鉄板を白く塗ったものだったりと驚きました。
軽くする工夫だったりするようですが、その加工・装飾は全部手作り(機械での技術はまだなかった)だそうです。
職人さんも仕事とはいえ、嫌になってくる数だったでしょうね。

この建物内にある椅子にも座れます。
ソファーにも座りました。
2階にはピアノもあります。
鍵盤には象牙が貼ってありましたが、そのピアノも触ってOKでした。
弾いてもOKです。
日本楽器製造株式会社製だそうです。現:ヤマハ株式会社製ということです。
実際に触れられるというのは、とっても嬉しいですね。
何もかもが“歴史的遺産”という事で、ガラス張りのケースの中だと、ただ単に見るだけの事ですから。
ガラスケースに入れて保存する物、実際に触れて伝える物をちゃんと選別して、後世に残して行くというのが一番いいのではないでしょうか?

西郷隆盛は西南戦争で亡くなっているので、明治10年代に建てられたこの建物は目にする事はありませんね。
隆盛と從道は兄弟でも、後半生は全く違う生き方をしています。
性格も正反対だったのかな?
しかし、政治の中心で国を動かそうとした事に関しては同じだったようです。
求める結果が違ったので、道が分かれ、生き方が変わってしまったのですね。


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