日柳燕石旧邸跡

2008年11月27日
日柳燕石旧邸・呑象楼(香川県仲多度郡琴平町榎井)です。
日柳燕石旧宅跡1  日柳燕石旧宅跡2
       呑象楼

日柳燕石旧宅跡4
   日柳燕石像

日柳燕石は、讃岐(香川県)琴平の勤王博徒です。
仲多度郡榎井村で質屋を兼ねる富豪の地主加島屋惣兵衛の一人息子として生まれました。
通称加島屋長次郎といいました。

天保元年の14歳の時から琴平の医者三井雪航について学びました。
4年間にわたって漢詩・漢文を修めました。
その他にも書や絵画などにも手を染めました。

しだいに博奕に親しむようになり、仁侠の世界における有力者にのしあがり、榎井の大親分といわれました。
しかし、頼山陽の「日本外史」などを読んで、尊皇の志を抱き、勤王博徒加島屋の異名は地元の四国だけではなく、京坂から中国、九州へも知れ渡りました。

嘉永元年、阿波より大坂、京都、大和方面へ遊歴し、大和五条の儒者森田節斎をはじめ、各地の士を訪ねました。
嘉永6年、ペリーが浦賀に来航し、尊皇攘夷運動が盛んになると、吉田松陰、久坂玄瑞、桂小五郎、中岡慎太郎らが立ち寄るようになりました。
また本間精一郎、椋木八太郎、木曽源太郎、松本奎堂ら尊攘派の浪士が援助を求めて訪れました。

慶応元年、高杉晋作は下関開港、欧州遊学などの開明策を抱いていたため、頑固な攘夷派からつけ狙われ、四国琴平へ逃れてきました。
燕石は高杉を別荘呑象楼に一月ほど潜伏させて助けました。
これが高松藩に知られ、同年5月より明治元年1月まで、3年に渡って投獄されました。

釈放後は京都から長州、長崎へと旅をし、6月から北越征討軍総督仁和寺宮の日誌方として従軍しましたが、8月、越後柏崎の陣中で病死しました。

爪髪は香川県仲多度郡琴平町榎井の先祖の墓所に日柳燕石士煥の墓として立てられています。

燕石の別宅は、その二階で酒を呑むと、盃に金毘羅宮がある象頭山がポッカリと浮かぶところから、“象頭山を呑む”意気を示す「呑象楼(どんぞうろう)」と名づけられました。呑象楼は興泉寺の前にありましたが、現在は榎井小学校北西に移築されています。
幕末維新人名事典より


日柳燕石(くさなぎえんせき)旧邸・呑象楼は、香川県にあります。
JR四国土讃線琴平駅か高松琴平電鉄琴平線琴電琴平駅が近いのではないでしょうか?
駅から1㎞ほどの場所、榎井小学校の横にあります。
国道32号との交差点のほぼ横です。

別の用事で、琴平の方に行きました。
レンタルサイクルを借りていたので、帰りの高速バスの時間までその自転車でウロウロとしていました。
そこで偶然、この前を通りかかったのです。

看板や碑があると、どうしても止まってみてみたくなりませんか?
私は、ど~しても見たくなるのです(笑)
「ちょっと待って。」と、自転車を止めてみてみました。
日柳燕石?誰?聞いた事ないな~。
と、建てられた説明を読むと「高杉晋作」の文字が…。

これは幕末関係か?!
と、写真を撮っておきました。
前回の「霊山墓地の高杉晋作墓」で、讃岐の日柳燕石が登場して、やっとわかりました。
遅すぎですね。

榎井小学校の敷地が一部、凹んでいます。
そこにこの旧宅が移築されていました。
交通量の多い道路に面していましたが、あまり目立っていませんでした。
やはり立ち止まる人も居ませんでした。

地元では有名な人だと思うのですが…。
そうでもないのかな?
桂小五郎は、兵庫県豊岡市出石へ潜伏し、高杉晋作は香川県仲多度郡琴平に潜伏。
長州の人は、潜伏先を見つけるのが巧いですね。
それにこだわり-変に意固地でない&融通が利く-ようですね。
潜伏先も長州や土佐など、一定の場所にこだわっていません。
だからこそ、時代の流れに適応して行けたのかもしれませんね。

ここに高杉晋作が隠れていたのは、本当に本当、初耳ですっごい驚きでした。

もとは興泉寺の前にあったそうですが、興泉寺はJR琴平駅から100mほどの所にあります。
移築された場所から500mほど離れています。
今だとさほど風景も、雰囲気も変わらない場所なのですが、当時はどのくらい違っていたのでしょう。


詩人 日柳燕石詩人 日柳燕石
(2006/02)
大波 一郎

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香川県 琴平 讃岐うどん
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