谷昌武(近藤周平)終焉の地

2010年04月09日
元町商店街(兵庫県神戸市中央区元町通3丁目 旧:神戸市中央区元町通3丁目83番地)が、谷昌武(近藤周平)の終焉の地です。

谷昌武といえば、新選組局長近藤勇の養子になり近藤周平と名乗っていた人物です。

谷三兄弟の長兄、三十郎が傍若無人の振る舞いから恨む人が多かったといいます。
死因は謎ですが…。

三十郎の死により、弟2人の隊内での立場は急転、いたたまれなくなった次兄万太郎は隊を離れ、昌武も近藤勇との養子縁組を解消、戊辰戦争前に脱走したようです。

その後、昌武は神戸市の北長狭通4丁目にあった山陽鉄道神戸事務所に10年ほど勤めていたようです。
(JR山陽本線の前身)
明治34年12月2日午前10時、神戸の3丁目元町通83番地で病のため53歳で亡くなりました。
11歳年上の妻ツルは明治20年10月に離婚していたので、寂しい晩年だったようです。
ひょうご幕末維新列伝


JR神戸線(東海道本線)、阪神電鉄三宮駅から海側へ2筋。
神戸市営地下鉄海岸線みなと元町駅から山側へ1筋。阪急電鉄花隈駅から海側へ2筋が近いです。

さすがに神戸の繁華街ですので、昼日中に写真を撮る勇気が私でもありませんでした。
これから早朝など、人がいないときに訪れるチャンスがあれば、その時に写真を撮りたいと思います。

新選組ファンでも、近藤周平ファンは少ないのでは?
近藤周平ファンの方、ごめんなさい。
私の勝手な推測です。

近藤勇の養子になって、すべてを継ごう、継げると思っていたのではないでしょうか。
それに見合う、実力、品格、人望などがあれば、もちろんいいのですが…。

維新後は、どういう人物になっていたのでしょうか?
人間、成長しているはずなので、新選組時代のような嫌な人間では無くなっていたかもしれないですね。
近藤勇の養子になっていなければ、新選組隊士という波乱の人生であっても、全く違う人生を送っていたかもしれないです。



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昆陽宿跡-新選組が長州藩荷物を押収 三度目

2009年06月03日
3度目の昆陽宿跡(兵庫県伊丹市昆陽3~6丁目付近)です。
今回は西国街道を約800m自転車で走ってきました。

西国街道の出発点は、昆陽6丁目交差点から県道142号を、北へ200m北へ行った交差点(角に病院)にしました。
この交差点からまず西に曲がって、西国街道に入りました。
50mほどの所に、長勢児童遊園地(公園)があり、そこに西国街道と書かれた碑がありました。
西国街道長勢橋1
長勢児童遊園地前に建つ碑の側面と、現在の西国街道

西国街道長勢橋5  西国街道長勢橋3
正面からみた碑
この説明文には、
元治元年の蛤御門の変で敗走した長州勢が、ここで踏み止まって戦ったといわれています。長勢橋の碑』は南側の長勢児童遊園地内に立てられています。」
と書かれています。
ここがまさに、新選組が長州藩の荷物を押収した場所ではないでしょうか。

西国街道長勢橋4
公園内にある碑ですが、フェンスのギリギリに、フェンスの方に長勢橋とかかれた面があるので、実際は見難くて大変です。フェンスとの数㎝の間にカメラを入れて撮りました。

さらに300mほど西に進みます。
小さな公園内に、“昆陽・昆陽野”の説明を書いたものがありました。
昆陽・昆陽野1

昆陽・昆陽野4  昆陽・昆陽野3  昆陽・昆陽野2
もしかしたら読めるかもと、3分割して写真を撮りました。

西国街道昆陽・昆陽野4  西国街道昆陽・昆陽野5
公園の角にあった、“旧西国街道”の文字と、その碑の前付近の西国街道の様子です。

さらに60mほど西へ行くと、“西国街道・昆陽宿”と書かれた碑があります。
伊丹市昆陽8丁目になります。
西国街道昆陽宿2  西国街道昆陽宿1

P6030327.jpg
浅野内匠頭や伊能忠敬に幕末には奇兵隊も往来したそうです。

P6030328.jpg  P6030329.jpg

P6030330.jpg
こちらの説明も3分割して写真に撮りました。

西国街道昆陽宿3

90mほど西へ行くと、国道171号線にでます。
国道171号と交わる場所に、西天神社があります。
西国街道西天神社2  西国街道西天神社1

もちろん、ここからまだまだ西国街道は続きます。
この先に昆陽寺などがあるのですが、国道の高架や地下道など複雑になるので、今回の西端はここまでにしました。
県道142号の始めの場所まで戻りました。
そこから東へ少し行ってみました。

東へ180m、西国街道を歩くと、稲野小学校の正門の前に“西国街道”の碑がありました。
西国街道稲野小学校前2  西国街道稲野小学校前1

西国街道稲野小学校前3  西国街道稲野小学校前4

西国街道稲野小学校前5  西国街道稲野小学校前6
小学校正門前には道標もありました。
「すぐ中山・すぐ小濱」「すぐ西宮」「すぐ大阪・○○(尼崎?)」「すぐ京都」と、四面に刻まれていましたが、すぐ京都?京都は遠いと思うのですが?
西国街道を遠くから歩いてきた人にとっては、“すぐ”という感覚なのでしょうか?
大阪まで行けば川を船で上っていったのでしょうか?
この碑も、小学校の塀とくっつくように建っていたので、裏面はどうしても写真が撮りにくくて大変でした。
変な人がいると通報されていなければいいのですが…。

西国街道稲野小学校前8
西国街道の碑と、道標の前の西国街道の風景です。

西国街道稲野小学校前7
「芦のやの こやのわたりに 日は暮れぬ
          いづち行くらむ 駒にまかせて
                       能因法師」


道標の横に能因法師の歌碑も建っていました。

今回はここで“西国街道を歩く”は終了しました。
新選組が長州藩の荷物を押収した昆陽宿の雰囲気を感じられればよかったので、西国街道を歩くのはまた次回という事ですね。

西国街道は今は家の間を通る生活道路で、北の国道171号線が賑やかになっています。
静かですが、街道といわれるとそんな気がするような、やはりどこか風情のある道でした。
宿場として栄えた雰囲気はさすがにわかりませんでした。
本陣でも残っていれば、また違ったのでしょう。

この街道を新選組が歩いたと思うと、こんな近く(自転車で走ってこられる範囲)に、新選組史跡があることが信じられないです。
そしてとても嬉しいです。

昆陽宿跡-新選組が長州藩荷物を押収 再び通りました

2009年06月01日
昆陽宿跡(兵庫県伊丹市昆陽3~6丁目付近)を再び、しかし偶然通る事が出来ました。
カメラを持っていなかったので、写真が写せなかったのが残念です。

昆陽宿は、西国街道(山崎道)の通る、摂津国川辺郡昆陽村が宿駅として発展したところで、現在では、伊丹市昆陽1丁目から8丁目のうち、中心地にあたる3丁目から6丁目あたりとなります。
※2009年5月13日の記事を参照してください。

南に県道334号が東西に、北側に国道171号が同じく東西に走り、南北に走る県道142号の両側が3丁目~6丁目になります。

今日はこの県道142号を、昆陽6丁目交差点から昆陽交差点まで自転車で走りました。
片側2車線、両方向で4車線もあるある広い道路ですが、相変わらず交通量は少なかったです。
この道路から路地に入ると、昔ながらの家がある、この辺りでは特に特徴のあるような風景ではありませんでした。
もっと奥まで入れば、違ったのかもしれません。

昆陽池の手前の国道で東に曲がりましたが、ここは国道沿線の風景そのものでした。
国道を走っていると、先ほどの県道142号が宿場町風景のようだったなと思ってしまいます。
交通量に似合わずに広い道路が、昔の繁栄の名残りのように思えてきました。

昆陽6丁目交差点より南の、県道142号は両方向で2車線の細い道路でした。
ここから急に広くなるので、この一画が昆陽宿の中心部で、栄えていたという名残りは本当なのかもしれないです。

今度は、ここから少し100mか200mか西にあるという、昆陽宿と書かれた最近立てられた碑を見に行きたいと思います。
その時はちゃんとカメラを持参します。

昆陽宿跡-新選組が長州藩荷物を押収

2009年05月13日
新選組が長州藩の荷物を押収した昆陽宿跡(兵庫県伊丹市昆陽3~6丁目付近)です。
昆陽は“こや”と読みます。
昆陽2  昆陽1
元治元年7月19日、禁門の変が勃発して、御所へ出動した新選組は21日になって山崎・天王山で真木和泉守らを追討し、その後、下坂して布陣、大坂市中に潜伏する長州兵らの探索を行いました。
7月23日、大坂・八軒家から三十石船に乗り、壬生村の屯所へ帰陣しました。

同日、新選組が探索中に得たと見られる押収品の記録が『官武通紀』にあります。
また、押収品の内容が少し異なりますが、同日の記録があり、同じくその場所を“昆陽宿”としています。

昆陽宿は、西国街道(山崎道)の通る、摂津国川辺郡昆陽村が宿駅として発展したところで、現在では、伊丹市昆陽1丁目から8丁目のうち、中心地にあたる3丁目から6丁目あたりとなります。

昆陽村は幕府領で、東西に10町48間、その道幅1~2間。
昆陽宿の町並みは7町余りで、ここより一つ東、京寄りになる瀬川宿へは二里、また、西宮宿へも二里ありました。
天保年間には、宿内の家数は約180軒。
本陣1軒で脇本陣はなく、旅籠屋は7軒のみでした。

新選組は、大坂に在隊しながら、この昆陽宿まで隊士を出張させて、禁門の変での残兵掃討を行ったものとみられます。
御所やその周辺、伏見・山崎で破れた長州兵は、京より陸路は山崎を通る西国街道を西へと撤退して行きました。
瀬川宿の記録では、具足を着用した約3,000人が、抜身のまま敗走し、西下していったといいます。

長州人らは、各宿駅で荷物を継ぎ立て、ここでも武器や荷物の移送を行おうとしていました。
長州への荷物に対して、監視命令が出ていたようです。
長州も瀬川宿からは、間道を使ってこの昆陽宿へ荷物を届けましたが、昆陽宿側では尼崎藩からの命令で、21日に届いた長州荷物を留め置きました。
この荷物は、また間道を通って運ぶように、長州側から指示されていたもので、昆陽宿役人は、これを24日になって奉行所へ届けました。

この訴えによって翌25日、昆陽宿にやって来たのが、新選組の河合耆三郎、山崎大三郎の二人でした。
彼らは、翌日この押収品を、大坂へ運ぶための人足の手配を指示しました。
しかし、この件はすんなりとはいかなかったようで、昆陽宿の役人は、これら押収品は大坂町奉行所の管轄であると主張しました。
役人が届け出た先も、奉行所でした。
それを河合耆三郎が26日の夜に、役所に出向いて引渡しを求め、なお山崎大三郎が27日にも交渉して、ようやく受領の文書を取り交わすことで合意し、新選組へ荷物を引き渡しました。
荷物の輸送には、100人ほどの人足が動因されたといいます。
昆陽宿の役人らは、翌8月6日付で、新選組に対して後難を避けるべく、この間の経緯を説明した丁重な一書を送っています。

先の分捕り品の届け書では、「高槻於昆陽宿」と記されています。
これは誤りのようです。
高槻は同じ摂津国であり、高槻城に近い宿駅に芥川宿がり、西国街道の宿場の一つです。
現在の高槻市中央を流れる芥川の左岸で、当時の高槻城周辺に、奈良から平安期に児屋郷(こやのごう)があったとされます。詳細は不明。
その時代の郷名が混同されるのは考えにくく、昆陽宿の場所を誤ることも考え難い。
西国街道の宿駅改めを行ったとすれば、山崎から芥川でもなされた可能性もありますが、一覧の内容については、昆陽宿での押収品で、地名の誤記であったと考えます。


河合耆三郎は、かわい“ぎさぶろう”と読むべきか。儀三郎とも。
播磨高砂出身。
河合儀平の長男。新選組隊士。勘定方。

文久3年6月ごろ入隊。
池田屋事変では土方歳三隊に属して屋外の守備につき、報奨金15両を受けました。
翌7月の禁門の変後、松本喜二郎とともに長州藩と摂津高濱村とのかかわりを調査し、無縁であるとの誓約書を提出させています。

12月の編成では原田左之助の小荷駄雑具方に属しました。
勘定方として、隊費の不算の責めを負って切腹しました。斬首ともいわれています。
不算の50両が郷里から届くことを最後まで待っていたといいますが、真偽は不明です。

享年29歳。
墓は京都府京都市中京区梛ノ宮町の壬生寺と、同賀陽御所町の光縁寺。
光縁寺の墓碑は新選組が建立したものですが、同寺の過去帳『往詣記』には埋葬の記録はありません。
遺体は新選組によって壬生村墓地に埋葬され、その後、姉弟によって「河合耆三郎源義輝之墓」という墓碑が建てられました。
現在墓碑は、壬生寺境内にあり、東京都北区滝野川7丁目の寿徳寺境外墓地にある、新選組慰霊碑にも名前が刻まれています。
戒名は国元で授与され、“遊林軒千空吉一良義居士”といいます。
新選組史跡事典&新選組大事典&新選組大人名事典より


JR福知山線伊丹駅か阪急電鉄伊丹線伊丹駅から歩いた場合。
JR伊丹駅を出て、西側に向かいます。(イオンと反対方向)
まっすぐ、まっすぐ歩くと阪急伊丹駅に着きます。
阪急伊丹駅から北に向かうと、SAKE市場グランマルシェ伊丹店の角に出ます。
その道路を西に、一ツ橋交差点、千僧6交差点と通り過ぎると、次の大きな交差点が昆陽6交差点(写真)になります。約1.2㎞です。
交差点から北側に、昆陽3丁目、4丁目、5丁目があります。

この写真は、撮れたてです。
今日の午前中に撮ってきました。

私は、新幹線の高架したを自転車で走り、美鈴町交差点から北に上がりました。
暑かったです。
もう少し北へ行けば国道171号との交差点が“昆陽”です。
今国道となっている場所の方が、街道筋だったのかもしれませんが、国道171号で写真を撮るのは今般なかなか難しいので、昆陽6丁目にしました。

こんな身近な場所まで新選組が出張していたとは…。
でも近藤勇、土方歳三、沖田総司ではないのですよね。
残念ですが、河合耆三郎はそれなりに(失礼)有名な方ですからね。

昆陽6丁目交差点付近は、東西には交通量が多かったのですが、南北は以外と少ない感じでした。
今の南北の道路(写真左)をみると、交通量のわりに道幅が広いです。
昆陽宿があったのもこんな感じの場所だったのかもしれません。
新選組隊士がこの辺りを歩いて、仕事をしたのです。

大刀を差して、河合耆三郎が歩いたのですね。
河合耆三郎の肖像画でもあれば見てみたいですね。
どんな容姿の人が歩いていたのでしょう。
でも切腹(斬首か?)させられた所をみると、あまり要領のよい人ではなかったのかな?
お坊ちゃまタイプかも…。
小説では大体このエピソードは出て来るので、多くの人は名前は知っているのではないでしょうか?

余談ですが、
北にある昆陽池は奈良時代の僧、行基が造りました。
(伊丹市には行基町という町名があります。)
その昆陽池に日本列島があるのはご存知でしょうか?
伊丹空港から飛行機に乗り離陸直後、下をみると昆陽池の上を飛んでいます。
着陸は逆方向から進入するので見られないはずです。
池の真ん中にある島が日本列島の形をしています。
伊丹空港から飛行機に乗る方はぜひご覧下さい。
私も見ました。


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昆陽池 写真

亀山御坊本徳寺

2008年11月17日
亀山御坊本徳寺(兵庫県姫路市亀山324)には、新選組屯所の遺構があります。
本徳寺2  本徳寺1

本徳寺3260  本徳寺4261
                 廊下と刀傷

本徳寺には新選組屯所の遺構が2軒あるとされていました。

≪本徳寺の大広間≫
平成7年の「兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)」で、倒壊した建物はありませんでしたが、48ヶ所の被害があり、調査・修復されました。

その時に、明治前後の移築された痕跡はない事がわかりました。
ご門主も「この大広間が、京都新選組不動堂村屯所である話は、誤り伝えられたものである。元来これは本徳寺の建物であり、西本願寺にも、この大広間と同じ用途を持つ、香部屋といわれる建物がある。」と話されているそうです。

≪本徳寺最大の建物 本堂≫
西本願寺の資料によると、文久3年、西本願寺に対して、会津藩は洛西壬生の屯所を境内に設けることを強要しました。
慶応元年、やむを得ず北集会所を提供、慶応元年3月頃~慶応3年春頃まで屯所として使用されました。
その間、広如上人や寺方は大変な思いをし、不動堂村に屯所を新築して移ってもらいました。
新選組に使われたことを嫌い、建物を解体し、元治元年、禁門の変時に焼失した学林の講堂用資材として保管されました。

この西本願寺北集会所の建物は安政年間といわれ、瓦紋、小屋裏、床下等に墨書きがあり、これが本徳寺での調査でも確認され、西本願寺移築の証となりました。

本徳寺本堂は、慶応4年火災焼失し、明治4年、西本願寺北集会所の構造材、床材、屋根瓦にいたるまで、西本願寺より伏見、淀川を下り、海路大阪湾、播磨灘、飾磨津で陸揚げし、飾磨街道を播州一円の門信徒により手運搬し、2年の歳月をかけて本堂を再建しました。
建物は当時の西本願寺北集会所の形態をそのまま保っています。

正面右側広縁の柱の刀傷は新選組がつけたといわれ、正面から4、6本目の柱面にあります。
新選組史跡事典より

山陽電鉄本線亀山駅の東側、ほぼ真ん前にあります。
広い境内のお寺です。

京都の西本願寺北集会所がはるばる、兵庫県まで運ばれたのも凄いですね。
兵庫県といっても、大阪府より岡山県に近いですから…。
兵庫県姫路市まで運ぼうと思い立った人にも拍手です。
そのお陰で、今、こうやって新選組が過ごした建物を見ることができるのですから。

本堂の廊下はピカピカでした。
1番目の写真でも廊下に柱や障子が鏡のように映っているのが、わかると思います。

柱の刀傷も見ることが出来ました。
いったい誰がつけた傷なのでしょう。
京都の八木家の鴨居や、大坂適塾の柱にも傷がありました。
八木家の傷は芹沢鴨粛清の痕ですが、適塾やここの柱はふざけて付けた傷ではないのでしょうか?
鬱憤晴らしに刀を振り回したのかな。

この柱の傷を拝見した時(2度目に訪れた時)、お寺の方が格天井画がある部屋に案内して下さいました。
この格天井画は幕末には関係ありませんが、とても綺麗でした。
ありがとうございました。

阪神・淡路大震災の影響は姫路ではどれほどあったのでしょうか?
震源地からの距離は、私の住む町と同じぐらいのようですが、どちらかといえば、神戸市や西宮市の大阪よりの方が被害が大きかったようです。
人が史跡を後世に残そうとしても、地震や雷など人間にはどうしようもない、自然災害があるという事を改めて突きつけられた気がしました。


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