仁和寺

2009年02月27日
『徒然草』の「仁和寺にある法師」仁和寺(京都府京都市右京区御室大内町)です。
仁和寺2307  仁和寺1306
慶応3年12月9日、第30代門跡純仁法親王は還俗され、翌年正月3日軍務総裁を命じられ、4日征討大将軍を拝命し、錦旗・節刀を賜って、鳥羽伏見の戦いに臨まれました。
明治3年東伏見宮を称されて、同15年12月、小松宮彰仁親王と改められました。

仁和寺は、仁和2年光孝天皇の発願、同4年宇多天皇の時竣工。
真言宗御室派の大本山で、宇多天皇が譲位の後、法務の御所として使われたので御室という名がつきました。
写真でみる維新の京都より


京福電鉄北野線御室駅を降りたところから、仁和寺までは北へ真っ直ぐ150mです。
春の桜の頃に訪れると、御室桜が咲いています。

仁王門から中門までが150m、中門から金堂までがさらに150mという、広い境内です。
広い境内と門の大きさから、どっしりした空気感かと思っていました。
東福寺や大徳寺などのような雰囲気。
しかし、意外とすっきり爽やか、のんびりした空気感でした。

さすがに新選組はここまで来ていないのではないでしょうか。
朝廷縁のお寺ですし…。
小松宮親王は、このお寺で法務を取られているのと、鳥羽伏見の戦いに参戦するのと、どちらがよかったのでしょう。
写真を見ると、“お坊ちゃま”な風貌で、利発そうですが、人も良さそうな感じですよね。
勝っているときは、すごく力を発揮するようなタイプかな。

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仁和寺 御室桜

伏見稲荷大社

2009年02月17日
全国稲荷の総本社の伏見稲荷大社(京都府京都市伏見区深草藪ノ内町)は、毎年初詣の人出が全国トップ5に入ります。
伏見稲荷千本稲荷
    千本鳥居

伏見稲荷大社は和銅4年創始といわれ、1200年の歴史を持ちます。

文久3年8月の政変で京を去った七卿の中、錦小路(病没)、沢(生野銀山挙兵)両卿を除く、三条実美以下、三条西、東久世、壬生、四条の五卿は、慶応4年12月14日夜、配所太宰府において復官入京の沙汰を受けました。
19日出立、海路大坂に入り、26日深夜伏見薩摩藩邸に入り、翌朝、諸藩の兵に護られて出発し、途中稲荷大社に参詣、小休し、衣冠を改めて御所に向かいました。
写真でみる維新の京都より


京阪電鉄伏見稲荷駅かJR奈良線稲荷駅を降りると、ずっと案内が続いています。
参道には焼き鳥が売られています。
まさしく焼き鳥、“すずめ”に“うずら”の姿そのままの焼き鳥です。
お稲荷様は農耕の神様なので、稲穂を食べるスズメは害鳥になるので食するそうです。

また稲荷山を巡ると、多くの鳥居や信仰する社があります。
が、これがまた急な坂があったりで苦しいです。
でも歩ける人間は、少しぐらいしんどい事をしないと、神様もお願いを聞いてくれなかもしれませんね。
ひと山越えて、東福寺や泉涌寺に降りれるので、元気な方は歩いてみてください。
神聖な山を歩くと、気持ちも清々しくなります。

ここに参詣した五卿は、山を越えることはなかったでしょう。
駕籠に乗ってお参りしたのでしょうね。
参詣、休憩、衣装改めですから、数時間も滞在していなかったと思います。

新選組隊士はこの千本鳥居を見たことがあるのでしょうか?
時代劇なら、こういう場所で斬り合いをしそうです。
これだけ鳥居があると、敵が隠れている場所だらけになって、戦いには不利になりそうです。


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林 豊

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伏見稲荷大社

下鴨神社・糺ノ森

2009年02月06日
葵祭で有名な、下鴨神社(京都府京都市左京区下鴨泉川町)です。
下鴨神社
文久3年3月11日の賀茂両社への行幸は、寛永3年、後水尾天皇の二条城行幸以来237年ぶりの盛儀でした。
沿道は行列拝観の人々で満ちたそうです。

孝明天皇は下鴨御拝の後、昼の御膳を召され、将軍に御膳・天盃下賜の後、行幸の列は上賀茂に向かいました。

下鴨神社は、正式名称「賀茂御祖神社」といいます。
上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命の母の玉依姫命と、玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀っています。
八咫烏は賀茂建角身命の化身。

糺の森
葵祭の前儀の中でも流鏑馬神事が有名です。
糺ノ森の真中にある全長500メートルの馬場を、公家風の装束姿や武家風の狩装束姿の射手たちが疾走する馬上から、3つの的を射抜くというものです。

射手のかけ声「イン、ヨー」とは「陰陽」のことで、みごと矢が的中すれば五穀は稔り、諸願は成就すると言い伝えられています。
文亀2年に中絶しましたが、昭和48年、下鴨神社式年遷宮の記念行事として復活しました。

また、
みたらし団子は、京都市左京区下鴨の加茂みたらし茶屋が発祥で、下鴨神社境内にある御手洗池の水泡を模して、この団子がつくられたといわれています。
加茂みたらし茶屋では5個の団子を串に刺し、あぶり焼きにして焼き目を付け、砂糖醤油の葛餡をかけて出しています。
この団子には特徴があり、一番上の団子が少し大きく、連続している他の4個の団子と距離が置かれて刺さっています。
これは、串に刺さった団子を人間の体に模しているためで、一番上は頭、残りの4個は四肢を表しています。(前述の水泡が沸いた様を表しているという説もあります)
写真でみる維新の京都&Wikipediaより


京阪電鉄や叡山電鉄出町柳駅から河合橋を渡ると、下鴨神社です。
木々が生い茂る糺ノ森は、神域の中を歩いていると思わせてくれます。
さらに奥に進んでいくと、ますます神聖な雰囲気がただよっています。

天皇の行幸としての下鴨神社より、葵祭の下鴨神社ですね。
葵祭は是非一度見てみたいと思うのですが、なかなかチャンスがないです。
京都三大祭では、時代祭だけ行った事があります。

祇園祭は池田屋事件の舞台で出てきますが、葵祭は幕末史の中で出てきませんよね。
時代祭は明治維新後ですから、当時は行われていません。
葵祭は源氏物語にも出てくるのですから、幕末当時は当然あったはずです。
新選組のメンバーや、志士といわれる人たちは見なかったのでしょうか?

もしかして祗園祭が庶民の祭りで、葵祭は賀茂社と貴族の祭りといわれているので、庶民の目の届かないところで、ひっそりと行われていたのでしょうか?
お祭というものが、幕末と現在とでは行われ方も変化しているのかもしれません。


京都市 加茂みたらし茶屋
京都三大祭

青蓮院

2009年01月18日
青蓮院(京都府京都市東山区粟田口三条坊町、神宮道三条下ル)です。
青蓮院
       青蓮院

青蓮院四脚門
     青蓮院四脚門

青蓮院勅使門
     青蓮院勅使門

青蓮院は、天台宗の門跡寺院で、寺格は高く、元は寺領1,330余石を有していました。
比叡山東塔南谷青蓮坊が移されたもので、鳥羽天皇の皇子覚快法親王の入寺以来、代々天台座主の住房となりました。
その後、法親王が法統を継いできたので、粟田御所とか青蓮院宮と呼ばれています。
伏見天皇の皇子尊円法親王は、書道に勝れ、当院において青蓮院流(粟田流)を開きました。
いわゆる御家流の源です。
皇室との関係も深く、天明8年の大火には、後桜町上皇はここに避難されました。
明治天皇も度々駐輦のうえ、小休されました。
現在は「旧仮御所」として史跡となっています。

明治26年9月、火災で宸殿・小御所・好文亭・叢華殿などは焼け残りました。
玄関から左手の奥にある質素な御殿は焼け残った叢華殿で、二品尊融法親王(中川宮・久邇宮朝彦親王)が、安政の頃に忍向、信海、梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎、小林良典、宇喜多一らの志士が宮家の家来山田勘解由や池内大学の尽力で参殿してきたときに、しばしばあった場所です。
幕府の権力を弱め、かつ、朝威の恢復の為に密議をしました。

中川宮は伏見宮邦家親王の第四皇子として、文政7年正月28日に誕生しました。
母は鳥居小路信子です。
安政の大獄では皇族にかかわらず、永蟄居の処分を下され2年半も幽囚されました。
志士らに利用され、あるときは過激派、あるときは穏健派でしたが、本心は公武合体でした。

中川宮は改名が多くありました。
富宮
成憲
尊応法親王
尊融
獅子王院宮
中川宮
朝彦
尹宮
賀陽宮
伏見宮
二品
三品
久邇宮 等々があります。
幕末維新京都史跡事典より


阪急電鉄河原町駅か京阪電鉄祇園四条駅から四条通を東に歩き八坂神社まで行きます。
八坂神社の前を北に折れ、新橋通まで北上し、そこを東に曲がります。
知恩院方面へ行きます。
道なりに進んでいくと、やがて智恩院に着きますが、通り越した北隣が青蓮院です。

道に沿って、大木が青々と茂っていました。
歴史を感じます。
この木は、幕末の頃を知っているのかもしれません。
中川宮をはじめ、ここを訪れた人や、前を通ったかもしれない新選組隊士を見ていたのかも…。
SFの世界のように、木の記憶をどこかに投影できたらすごいでしょうね。

久邇宮朝彦親王の写真を見ると、誰かに似ている気がするのです。
誰かに似ていると思いませんか?
中日ドラゴンズの監督!!


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門跡

宇喜多一寓居跡

2009年01月09日
吉村寅太郎寓居跡、武市半平太寓居跡の隣が、宇喜多一寓居跡(京都府京都市中京区木屋町通三条上ル)です。
宇喜多一寓居跡
安政の末年に宇喜多父子の住んだ所がこのあたりでした。

宇喜多(浮田)一は、尊王派の画家です。
京都生まれで、姓は豊臣、名は公信、のち可為と改めました。一は号。
田中納言に土佐派を学び、のち藤原信実に則りました。
和歌、書にも通じていました。
気節を尊び性質は豪快で、勤王の志が厚く、安政元年の京都御所炎上・造営のさい、画院の寄人に召出され、西対屋に烈女伝の図を描きました。

梁川星巌、頼三樹三郎ら志士と交わり、後半生は山陽の住んだ三本木の家を借り国事に奔走するようになりました。
アメリカ艦が来航し、幕府の外交に憤慨し、画をこう人には「神風夷艦を覆す図」などを描きました。
またしばしば朝廷に献策して士気を鼓舞しました。

安政の大獄がおこると、子可成とともに捕えられ江戸の獄に繋がれました。
翌年赦されて帰洛しましたが、囚中に瘡を患い、安政6年11月14日65歳で病没しました。

好んで王朝古典に画材をとり、復古大和絵を標榜して画壇に刷新の気風をおこしました。
写真でみる維新の京都&幕末維新人名事典より


吉村寅太郎寓居、武市半平太寓居跡の北隣りにあります。
その場所を示す碑などはありません。
ビルなどに埋もれるように、入口があります。
ついつい通り過ごしてしまいそうです。

宇喜多一という画家の名前は初めて聞きました。
絵も拝見したことがありません。
目にしていても、気付いていなだけでしょうか?
京都御所にも描いているようですね。
機会があれば、一度絵を見てみたいです。


宇喜多一
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