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斉藤一の写真

2016年07月17日
2016年7月15日の日本経済新聞夕刊に、斉藤一の写真が発見された記事がありました。

写真が載っている記事は手元にあるのですが…。

妻トキヲさんと息子2人との家族写真です。

あまり鮮明ではない集合写真は有名で見たことはありました。
でも、あの写真だと顔もよくわからないんですよね。

今回の写真は家族写真という事で、ちゃんと顔が見えます。
パッと見たところ、小説やドラマ・映画で描かれる斉藤一のイメージは感じられませんでした。
明治維新後、だいぶんと時間が経過しているので、当時のような張り詰めた緊張感も薄くなっているのかもしれません。
もしくは、実は幕末当時から見た目や雰囲気は柔らかくて、剣をとった時に180度変わるような人だったのかもしれませんよね。

斉藤一は維新後も存命だったので、こうして写真が出てくる確率は高い一人でしょう。
沖田総司とか藤堂平助など、新選組中心人物で、若くして亡くなった人の写真が出てきたとしたらもう叫びまくりです!





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近藤勇 池田屋での第一声は…

2016年06月28日
先週か先々週の日本経済新聞に新選組の記事がありました。
あの池田屋事件における近藤勇の第一声が分かったというものです。

幕末の「池田屋事件」の際、2階に踏み込んだ新選組局長近藤勇が発した第一声は、「御上意」だった可能性があることがわかりました。

ドラマなどでは「手向かいすれば容赦なく斬る」と警告すような場面が多いですが、今回の資料ではこの言葉はありませんでした。
資料は「維新階梯」で、会津藩主松平容保が京都守護職になった1862年以降の出来事を明治時代に編纂。
31冊が宮内庁宮内公文書館にそろっているのを歴史研究家が確認しました。

64年の池田屋の場面では、近藤が亭主とやりとりした後、2階に上がると6、7人が車座になっていたと記述。
「座中を割って奥へ赴けば、一同(刀を)抜いて斬り掛かってきた」「此の方御上意と大音声で(叫んで)踏み込んだ」と続く。
後に近藤が「(相手は)御上意に恐れをなした様子。いまだ徳川のご威光は尽きず」と述懐したとも書かれています。

これまでは、1階にいた永倉新八の回顧録から、近藤は「手向かい致すにおいては容赦なく斬り捨てる」と警告したとされてきました。
「上意」という言葉は、予想外に相手がひるんだようです。


もうすぐ7月。
祇園祭の季節です。
池田屋事件といえば祇園祭。
ちょうどそれに合わせての発表だったのでしょうか。
近頃、全く話題のなかった新選組。
久々の新選組の話題です。

「御用改めである! 手向かい致せば容赦なく斬る」みたいな場面ですよね。
それが「御上意」だったのですね。
御用改めよりも御上意の方が、もっと威厳がありますね。
御用改めだと、会津藩松平容保からの命令、御上意だと将軍からの命令の印象を受けます。
それだけの決意で突入したのかもしれません。








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斎藤一の謎に前進

2015年09月07日
日本経済新聞に斎藤一の記事が載っていました。

西南戦争で右肋骨に銃撃を受け、警視庁では中間管理職の警察官―。
幕末に活動した新選組の生き残りとして知られながら、史料が少なく、謎が多いとされる斎藤一の明治維新後の従軍歴などが5日、国立公文書館が所蔵する明治時代の恩給関係の文書で明らかになった。歴史研究家のあさくらゆうさんが公開請求した。

文書は、退職公務員の恩給請求書などをまとめた「明治廿六年官吏進退恩給ニ」の文官恩給の部。
斎藤は警視庁を退職翌年の1893年1月19日付で、警視総監宛てに申請した。丁寧な文字で書かれた「西南之役従軍履歴」などは直筆とみられ、維新後から使った「藤田五郎」の名前で、押印もある。
これによると、斎藤は77年2月20日に内務省の警視局で警部補となり、同5月17日に「警視第二番小隊半隊長」として西南戦争へ従軍。4日後の同5月21日に大分県の嵯峨へ着き、同7月12日に大分県の高床山で弾丸により右肋骨を負傷すると陸軍の出張病院へ入院した。部隊復帰は同8月15日で、戦闘終結後の同10月24日に臼杵で乗船。帰京後の79年10月8日に勲七等を与えられた。
81年の警視局廃止後は、陸軍省の御用掛けに。警視庁の設置で、同年11月11日に巡査部長となり、翌年12月に月給が12円から15円へ昇給した。階級は85年7月3日に警部補、88年11月1日に警部へ上がり、92年12月14日に退職。当時48歳で「官ノ都合ニ依リ諭旨」とあり、16年間の勤務に対する恩給は年46円だった。
これらは妻のトキヲが斎藤の死亡後、遺族年金に当たる「文官扶助料」を申請した書類にも記されていた。斎藤は後に東京高等師範学校(現筑波大)や東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大)で守衛や会計などの仕事に就いたが、この間の恩給の請求記録はなかった。
恩給関係文書からは、斎藤がトキヲと結婚した年月日も判明した。一般的にトキヲとは再婚だったと認識されているが、最初の婚姻だった可能性が高い。
文書は文官扶助料の請求書をまとめた「大正五年恩給文官扶助料十五巻六十一」。妻トキヲも斎藤の死亡翌年の1916年に申請していた。
これによると、明治維新後に「藤田五郎」と名乗った斎藤は、1874年3月17日にトキヲと結婚。戸籍はトキヲを「妻」とし、再婚を示す記載はなかった。
2015年9月5日 日本経済新聞


久しぶりの新選組の話題です。
それも近藤勇でも土方歳三でも、沖田総司でもなく斎藤一。
でも、“実写版 るろうに剣心”があり、斎藤一が出てましたものね。
今のNHK大河“花燃ゆ”に土方歳三や沖田総司がチラッとはでていましたが、話題としては斎藤一の方が目立った映画出演でしたよね。

斎藤一は気になる人物ではあります。
会津に行った時には、お墓もお参りしてきました。
新選組時代も、沖田総司と並ぶ剣の使い手といわれています。
そして私の中では、沖田総司と同じように若くて、男前、剣の使い手で謎多き人物のイメージがあります。
こうなるともう胸キュンするに間違いありません。

維新後も生き延びていて、でも経歴ははっきりせず、写真も「おそらく斎藤一だろう」って感じですし、想像力を掻き立てられます。
その斎藤一の謎が少しずつわかってきました。
もしかしたら謎の方がいいのかもしれませんが、でも知りたい気もします。
できれば新選組時代というか、維新の若かりし頃の写真なんかが出てきたらすごくうれしいです。

会津にもう一度行きたいな…。
京都も行きたい!
あ~、史跡巡りに行きたいです。











新選組№3 谷右京って?

2013年05月09日
2013年5月9日付けの日本経済新聞に新選組の前身「壬生浪士組」の記事がありました。

新選組№3-2
2013年5月9日 日本経済新聞

谷右京って初めて名前を聞きました。
勝海舟の援助を受けてウィーン万国博覧会に出品したほどの人物ならもう少し名前を知っている人もいると思とうのですが…。
でも名前があるのなら実在の人物だったのでしょうね。

新選組関係で谷といえば、“谷3兄弟”ですね。
この谷兄弟の印象が私はあまりよくない(私の好みではない)のです。
谷という名字はこの兄弟のイメージが付いてきてしまいます。
なので、実在の人物?って勘ぐってしまうのかな?

これから研究が進んでいくのかな?

150年ほど前の事が分らないのが歴史なんですよね。
150年、その当時生まれた人が150歳。
さすがに150歳の人はいないとしても、100歳を超えている人はたくさんいてるって事は、そのほんの50年ほど前の事が分らない…。
やっぱり歴史って面白いですね。




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角屋 新選組の刀傷公開

2013年04月10日
京都島原の揚屋の角屋(京都府京都市下京区)で、新選組が付けた刀傷が残る燭台などが公開されました。

角屋刀傷
2013年4月10日 朝日新聞朝刊

18日には新選組を記念した石標も建てるそうですね。

新選組が付けた刀傷がある燭台は見てみたいです。
誰が付けたかわかっているとなおいいのですが、そこまでは分からないでしょうね。

本当に新選組?
相手側ってことはないのでしょうか?

って、疑心暗鬼になっているのには、私が角屋を見学したときにあまりいい思いをしなかったから…。
これはあくまでも私個人の感じ方で、一緒にいった人はよかったのかも知れません。
それに今は変わっているかもしれないですし…。

角屋に新選組の石標を建てるのはどうなのかな?
新選組も足繁く通っているのですが、どうも長州とかのイメージも強いんですよね。
“新選組”だけの記念碑は少し違和感もあるのです。
実際に見ていないので、あまり否定的な事ばかり書いても仕方がないのですが、率直な感想です。

そのうち見に行きたいです。













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