一力とは、「万」という字を“一”と“力”に分けたもので、本来は万亭・万屋・万春楼といいました。
祗園では古い格式ある茶屋で、「赤前垂れ」の店と呼ばれ、正装には赤前垂れをつけます。
大石内蔵助が遊興したと伝えられています。
しかし茶屋株30軒の許可を受け、正式に茶汲み女・茶立て女を置いたのは享保17年で、さらに遊女が許可されたのは寛政2年であり、大石内蔵助は遊興する事は出来なかったはずです。
大石は山科の閑居から、伏見の撞木町に通っていたそうです。
一力亭の入口は、もとは四条通に面していましたが、大正4年、市電開通により花見小路側に変わりました。
文久3年の八月十八日の政変以来、佐幕派の会合(会・肥・薩などの周旋方)が日夜、料亭などで開かれました。
この年の10月10日の夕、一力亭の会合で、出席した近藤勇は意見を求められて、一席ぶったことがありました。
近藤の意見は、朝幕一致して攘夷を行おうという論であったといいます。
新選組史跡事典より
阪急電鉄河原町駅や京阪電鉄祇園四条駅から、八坂神社に向かって歩いていると、南側(右)に赤い壁の建物が見えてきます。
そこが一力亭です。
大きな(広い)建物で、壁が赤いので見落とすことはないです。
この花見小路沿いには、たくさんのお茶屋さんが並んでいます。
正直、ここで近藤勇が会合に出席したのが信じられませんでした。
今では格式ある店で、一見さんお断りです。
そんなお店に近藤勇が上って、諸藩の周旋方と会合…。
新選組ファンの私でも、信じられない感じです。
確かに新選組は大きな仕事をして来ていますが、やはり生粋の武士ではないです。
各藩を代表して来ている武士が、近藤の意見をどれだけ真剣に聞いていたのか疑問です。
もし万が一、私が一力亭に上れるチャンスがあったとしても
↑ 100%無いといえますが(笑)
格式が高すぎて、何も楽しめないままに終わってしまうでしょうね。
近藤勇は、自分の意見を発することが重要だったでしょうから、楽しむということには拘っていなかったのでしょうね。
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西国屋は三条通を挟んだ池田屋の西側にありました。
池田屋事変当日、土方隊は武市半平太寓居でもある“丹虎(四国屋)”に御用改めに入ったとされています。
しかし、四国屋を探索した記録はありません。
四国屋と字面のにている“西国屋”と間違われた可能性があります。
西国屋に御用改めが行われた記録はあります。
以上のことから、西国屋を新選組が探索を行った可能性もありえます。
新選組史跡事典より
京阪電鉄三条駅から三条大橋を渡り、さらに直進すると右手に池田屋跡があります。
その斜め前に当たりになるのでしょうか。
写真は撮った気がするのですが、見つけられませんでした。
この写真は中央に、
大村益次郎
佐久間象山 遭難の碑 北へ約・壱丁
とかかれた碑が写っています。
西国屋があったと思われるのは、写真左端、タクシーが写っている奥辺りではないかと思います。
本当に池田屋の前という感じです。
もし土方隊が西国屋を御用改めしたのが、近藤勇たちが池田屋に御用改めに入った時間より後なら、池田屋での戦闘に気付かないはずは無いと思うのです。
小説などでは、土方歳三が池田屋に着いた時には、本格的に戦闘が始まっています。
それなら、西国屋と池田屋の距離−徒歩1分弱−を考えると、池田屋の戦闘後に西国屋に入っていると思うのです。
やはり丹虎に行っていた方が時間の経過からすると合いそうです。
四国屋(丹虎)と西国屋、字面を見ると本当によく似ていますね。
藤森神社は、今から約1800年前に、神功皇后によって創建された深い古社です。
本殿は正徳2年、中御門天皇より賜ったものです。
藤森神社は、菖蒲の節句発祥の神社としても知られています。
今日では勝運と馬の神様として、競馬関係者(馬主・騎手等)、また、競馬ファンの参拝者でにぎわっています。
5月5日に行われる藤森祭の、武者行列と駈馬神事は有名です。
藤森神社境内の「旗塚」は「いちのきさん」と親しまれています。
ここにお参りすれば、腰痛が治るといわれていて、近藤勇が何度も詣でて腰痛を治したと伝えられています。
新選組とさらに関係があります。
伊東甲子太郎らを失った高台寺党の残党が、近藤勇への報復を謀り、その機会を窺っていました。
新選組は、慶応3年12月16日に、伏見奉行所に陣を移していました。
高台寺党の生き残り、三木三郎(伊東甲子太郎の実弟)、加納道之助、富山弥兵衛、篠原泰之進、阿部十郎、内海次郎に加え、佐原太郎、江田小太郎も、匿われていた薩摩藩伏見藩邸から、旧伏見奉行所屋敷の近藤勇・土方歳三を、間諜を送りその出入りを見張っていたそうです。
小林啓之助は間諜であることが露見して、殺害されました。
元御陵衛士らは、近藤が二条城から帰る途中を、伏見街道上の藤森神社の北側と南側に別れて挟みうちにしようと、待ち伏せしたといいます。
藤森神社&新選組史跡事典より
京阪電鉄藤森駅よりも墨染駅の方が近く感じます。
墨染駅の東側の道を北に歩きます。
約500mほどで、東(左)側に藤森神社があります。
京阪電鉄藤森駅ならば、駅東側の道を南下してくることになります。
馬を走らせながら、逆立ちをしたり字を書いたりする駈馬神事が行われる境内は、広いというより駈け抜けるための長い直線の空間があります。
人間でも走りたくなるかもしれません(笑)
子供達はなおさら走りたくなるでしょうね。
時間的に子供は学校に行っているような時間で、そういう光景は目にする事はありませんでした。
本殿の横に「旗塚」があります。
近藤勇も腰痛だったのですね。
何度も訪れたと伝わっているという事は、慢性の腰痛持ちだったのでしょう。
近藤勇が「腰が痛い」といって、部屋でひとり腰をトントンと叩いているのは、まだなんとなく想像しうる範囲です。
が、土方歳三が腰痛で腰をトントン…あまり似合わないかも…。
沖田総司に見つかって、苦笑いをしているようなマンガはありそうですね。
あんなに重そうな刀を2本も差しているのですから、当時の人たちは腰痛持ちの人も多かったのでしょう。
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祗園石段下(京都府京都市東山区東大路通四条南西側)は、“祗園会所跡と竹屋跡”に写っている、辺りと同じです。
慶応2年2月5日に大石鍬次郎の実弟一橋家附臣大石造酒蔵が、新選組隊士今井祐次郎に斬殺されています。
また慶応2年4月1日には新選組谷三十郎が暗殺されたともいいます。
大石造酒蔵は、武州江戸の人で大石捨二郎の二男で、新選組大石鍬次郎の実弟です。
一橋家附臣として上洛していた際、祇園町において新選組隊士今井祐次郎と些細なことで口論となり、今井に斬殺されました。
墓は京都市下京区綾小路通大宮西入ル四条大宮町37の光縁寺にあります。
鍬次郎が造酒蔵の敵として今井付け狙い、土方が仲裁をするというエピソードが残っています。
大石家の跡目相続問題につき、近藤、土方は大石の親戚に鍬次郎を推薦しましたが、大反対に遭い、大石家は断絶となってしまいました。
今井祐次郎は、信州出身です。
諸士取調役兼監察。
慶応元年4月、江戸で入隊しました。
慶応2年2月に大石鍬次郎の実弟を、そうとは知らずに殺害し、仇を討とうとする鍬次郎と険悪になりますが、土方歳三が大石を戒めて納めました。
9月の三条制札場に出動し、宮川助五郎に手傷を負わせています。
同3年6月、幕臣に取り立てられ、見廻組並御雇の格を受けますが、鳥羽・伏見の戦いで淀で戦死しました。
受傷後、江戸帰還船の船中で死亡ともいわれています。
享年25歳。
墓は東京都北区滝野川7丁目の寿徳寺境外墓地。
新選組大事典より
大石造酒蔵は大石鍬次郎の実弟で二男ですよね。
鍬次郎は、長男なのに「次郎」ですか?
当時はこういうことには、煩そうなのに次郎とつけたのには、何か理由があったのでしょうか?
弟は造酒蔵で、特に続柄がわかるような名前ではないです。
「捨二郎」の「二郎」から、長男に「次郎」をつけたのでしょうかね?
大石鍬次郎は新選組では「人斬り鍬次郎」と異名をとっていましたが、実弟は兄ほど武闘派では無かったのでしょう。
これが鍬次郎だったら、今井祐次郎の方が斬られていたかもしれません。
谷三十郎の祗園石段下での斬殺はフィクションである可能性が高いそうです。
今の祗園石段下の状況では、暗殺には適さない場所です。
幕末当時はもう少し、暗殺に適していたのかもしれませんね。
光縁寺に仮埋葬された後、大阪府大阪市北区兎我野の本伝寺に埋葬されているので、もしかしたら…とも思わないではないです。
それでも大石鍬次郎や造酒蔵、今井祐次郎に谷三十郎がこの場所を歩いたことは確実です。
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東山、八坂神社に向かって右側(写真では左側)、警察官駐在所からバス停にかけて、東の方には祗園会所がありました。
元治元年6月5日、新選組は京都潜伏の倒幕派取締のため祗園会所に集結しました。
この日、前川邸から祗園会所に向かおうとしている隊士たちを、八木為三郎が目撃しています。
昼頃のことだったそうです。
隊士たちは、何気ない風を装いながら、祗園会所に集まりました。
会津藩とは午後8時頃より共同で探索を行うことになっていましたが、新選組は午後7時頃より動きだしました。
近藤勇率いる10名と、土方歳三率いる22名に編成された隊士たちは、この祗園会所を出発して、祗園の店の御用改めを行いながら北上し、池田屋に到達しました。
この祗園会所の西側にお茶屋「竹屋」がありました。
後の元勲、山縣有朋(狂助・小助)が在京中、よく遊んだ店です。
山縣は舞妓小菊を愛し、また小美勇と馴染み、酒興の果てに、流しのおこし売りとともに踊り狂ったそうです。
写真でみる維新の京都&新選組史跡事典より
八坂神社の真ん前です。
この写真は八坂神社の石段の上から撮りました。
観光客が八坂神社をバックに写真を撮る中、一人反対を向いて撮っていました。
今は特に何も残っていません。
ここが池田屋への起点となった場所です。
きっとここへ集合した時は、緊張しながら集まっていたのでしょうね。
相手がいてることですから、自分が斬られてしまうこともあるわけです…。
壬生の屯所以外で、これだけ幹部も含めて集まること自体がないのでは?
一大仕事だったことがよくわかります。
その横で、山縣有朋が踊り狂って楽しんだ茶屋があったそうです。
歴史に残る事件の始まりとなった場所の隣に、歴史に名を残した人が遊びまくった場所がある。
幕末の京にはそんな場所が、あちらこちらにあったのでしょう。
本当に混沌とした都だったのですね。
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