十七烈士 墓の設計絵図

2011年11月02日
育児にあたふたしている間に期限が切れていました。
あ~、ショック(涙)
データとしてアップしておきます。


十七烈士 墓の設計絵図 東山・霊山歴史館で初公開”というのがあったのです。

 禁門の変(1864年)で長州藩の別動隊として幕府軍と戦った真木和泉守ら勤王志士「十七烈士」の墓の設計絵図が見つかり、京都市東山区の霊山歴史館で初公開されている。
現在墓のある大山崎町の天王山中腹でなく、近くの宝積寺(同町)三重塔の下に建立され、一列に墓石を配したことが分かる。
同館は「一人一人を顕彰する意味があったのでは。墓を建立した長州側が、禁門の変の恩義から志士を手厚く弔った証ではないか」としている。

十七烈士は、久留米や熊本など長州藩以外の出身で尊皇攘夷を掲げた17人の志士。
禁門の変で敗走する際、長州勢を先に逃がして天王山に立てこもり、自刃したと伝えられる。

初公開されているのは「天王山招魂場絵図」(縦24.5cm、横33cm)で、宝積寺の三重塔の下に「十七名」と記した縦長の墓の図面が描かれている。
同館によると、墓の長さは「8間」(約15m)で、墓の両端に2基の石灯籠がある。
墓地の幅は「11間」(約20m)で、敷地内に松の木があったこともうかがえる。

昨年11月に、霊山歴史館が上京区の郷土史家から寄贈を受けた。
長州藩主だった毛利敬親が明治元年に墓を建てたといい、同館の木村幸比古学芸課長は「絵図は、長州藩から依頼を受けた石材屋が描いた下書きと考えられる」と話す。

大山崎町歴史資料館によると、墓は明治20~30年に現在の場所に移された。
同館は「宝積寺に墓があったことは分かっていたが、詳細を示す資料は初めての発見だ。三重塔の下に区画を作り、丁寧に墓を整備した様子が伝わる」としている。
京都新聞社より

展示は霊山歴史館で10月3日まででした。


宝積寺2
  宝積寺の三重塔

宝積寺2








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長州藩伏見藩邸跡

2009年03月03日
長州藩伏見藩邸跡(京都府京都市伏見区京橋表町)です。
長州伏見藩邸跡1  長州伏見藩邸跡2
毛利父子並びに七卿の復権の歎願を続けた長州藩も、朝廷との間に幕府・会津・薩摩の妨害があるため、ついには兵力をもって解決しようとしました。

元治元年7月、福原越後は伏見藩邸に入り、同18日深夜、武装した兵500とともに京へ進軍しました。
伏見街道を守る大垣藩兵に阻止され、竹田街道からの会津・桑名・
新選組に攻められ、福原は負傷落馬、藤森の彦根兵に追撃され、長州藩邸に戻りました。
勝ちに乗じた彦根他の連合軍は、京橋際から長州藩邸を砲撃しました。
このため藩邸は炎上、民家34、35戸も類焼しました。
写真でみる維新の京都より


京阪電鉄中書島駅を降りて、左の道を北へ歩くと150mも行かないあたりに、京都市伏見土木事務所の建物があります。
そこが長州藩伏見藩邸跡です。
あと少し真っ直ぐに進むと、京橋になります。

京都市伏見土木事務所の玄関横に、碑が建っていました。
これは長州藩伏見藩邸跡を示すものではなく、古い道標です。
いつの道標かは見られませんでした。
藩邸は焼失してるので、それ以降のものなのかもしれないです。

京橋から長州藩邸に砲撃したのも頷けます。
近い!
200m程だと当時の大砲でも楽々届いたのでしょう。
持久力の無い私でも走れそうです。

長州藩は京橋に大変近い場所に藩邸があったのですね。
それだけ便利な地に藩邸があるというのは、物資の輸送も多く、栄えていた証拠なのかもしれませんね。


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天龍寺

2009年02月24日
臨済宗天龍寺派の大本山、霊亀山天龍資聖禅寺(京都府京都市右京区嵯峨芒ノ馬場町)は、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために創建しました。
天龍寺
五山の第1位に列せられるほど栄えましたが、たびたび焼失し、江戸期に復興しましたが、禁門の変の戦火にかかりました。

元治元年6月28日、長州藩家老・国司信濃に率いられた兵団は、天龍寺に入り宿営しました。
7月19日早暁、市中へ向かって進軍し、蛤御門で敗れました。
翌日、薩州兵は長州の残党を掃討にやってきて、寺に火をかけました。
写真でみる維新の京都より


阪急電鉄嵐山線嵐山駅から桂川に向かって歩きます。
渡月橋を渡り、まっすぐまっすぐ進むと、京福電鉄嵐山線嵐山駅があります。
京福電鉄の嵐山駅を通り過ぎたところに、天龍寺への入口があります。

渡月橋を渡ったあたりから、「人力車に乗りませんか?」と呼び込みが続きます。
一人で歩いていても声を掛けられます。
一人で人力車に乗る人は少ないと思うのですが…。

天龍寺はなんども火災にあっているようです。
薩摩藩兵が、火を放ったというのには怒り心頭です。
文化財は大切に!
“形あるものはいつかは無くなる”それはわかっていますが、人為的に壊されるのには我慢が出来ません。
地震や落雷、大雨などの自然災害や、年月を経て朽ちてくるなど、人間の力ではどうしようもない事が原因なら、諦めもつくというものです。

ということは、今見ている天龍寺の建物は、国司信濃達が見たものとは別のものという事になりますね。
残念です。

この写真の手前30mほどの所に、坂本龍馬像(2008年11月14日 坂本龍馬銅像を参照)があります。


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詩仙堂-久坂玄瑞位牌

2009年02月18日
石川丈山隠栖の地、詩仙堂(京都府京都市左京区一乗寺門口町)には、久坂玄瑞の位牌が祀られています。
詩仙堂
詩仙堂の名の由来は、詩仙の間にある漢・晋・唐・宋の三十六詩人の肖像によります。
仏間の本尊脇の位牌棚の中には
「義寂院長州人久坂義助・忠光院長州人寺島忠三郎各位」
という位牌も祀られています。

石川丈山は徳川の家臣ですが、夏の陣での抜け駆けを譴責され、辞職剃髪して当地に30余年隠栖し、寛文12年5月23日没しました。享年90歳。
写真でみる維新の京都より


叡山電鉄修学院駅で下車し、北山通を150m東へ行くと白川通北山交差点に出ます。
5叉路になっている交差点ですが、白川通を南へとります。
700mほど歩き、一乗寺郵便局の手前を東へ入ります。
“宮本武蔵が1人で数十名の吉岡一門と戦った場所”といわれる、一乗下り松を見てさらに東に進みます。
一乗下り松から200m東に詩仙堂があります。

36詩人の肖像が有名ですが、それより私は位牌の方が気になりました。
位牌棚は遠くから拝見できたように思うのですが、ひとつひとつの位牌は目にできなかったような気がします。
詩仙堂の拝観は出来ます。

それにしても何故ここに久坂玄瑞と寺島忠三郎の位牌が祀られているのでしょう。
移転後の三縁寺が近くにありますが、それとは関係ないでしょう。
誰か、長州関係者か久坂玄瑞や寺島忠三郎に関係した人が、個人的に供養するために位牌を作りお寺に納めたのかもしれませんね。


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桂小五郎像-長州屋敷跡

2009年01月15日
長州屋敷跡(京都府京都市中京区河原町通御池上ル東側)の西側に桂小五郎像があります。
桂小五郎像
長州屋敷跡の碑は御池通側(南側)にありましたが、桂小五郎像は西側北寄りにありました。

前にベンチがあるので、そこに座れば桂小五郎とツーショットの写真を撮ることができます。
いかがですか?

私がこの像を見て嬉しかったのは、“木戸孝允像”でなかったところです。
“桂小五郎”の方が、格好いいと思いませんか?
写真でみても、着物姿の“桂小五郎”時代の方が格好いいです。
名前も“木戸孝允”はなんだか魅力がないです。
私は“桂小五郎”派ですね。
こんな細かなところに拘っているのは私だけでしょうか?
やはり私はマニアですかね?(笑)

新選組は“新選組”で、私の中では“新撰組”ではないですね。
どなたか歴史研究かの先生が、「選ばれし者の集まり(組)なのだから“撰”が正しいだろう。」と仰っていましたが、でもやはり“選”でしか考えられません。


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