悟真寺

2009年02月28日
悟真寺(京都府京都市伏見区榎町)は、天正3年、月公上人の開基による浄土宗の寺です。
悟真寺1

悟真寺2  悟真寺3
       戊辰之役東軍戦死者之碑

門前左に“東軍戦死者埋骨所”の標石があります。
本堂前には、“戊辰之役東軍戦死者之碑”が建っています。
榎本武揚書、十七日会建立のもので、当寺内の埋骨地が二ヶ所あることを示しています。
本堂裏手墓地内東中央辺に1基、西北端近くに1基、ともに戦死者埋骨の場所です。
将兵64名が葬られいます。
西北の碑の傍らには、会津稲生新助47歳、柴宮八三郎43歳の墓が建てられています。
写真でみる維新の京都より


京阪電鉄および近畿日本鉄道丹波橋駅からだと、京阪丹波橋駅の北側の丹波橋通りから歩きます。
丹波橋通りを西へ歩いていると、丹波橋が架かっているので渡ります。
橋を渡り3本目の道を北へ曲がります。
(京都中央信金があるのが4本目です)
北へ300m行くと、東側角にあります。

周りにあまりお寺がないので、わかりやすいと思います。
こんなところに埋骨されているのか。と思いました。
当時はこの辺り一帯が鳥羽伏見の戦の地だったのでしょう、しかし現在はこの辺りは住宅地で、城南宮付近や御香宮付近とも離れているので、今ひとつピンッと来ませんでした。
地図を見ると、城南宮と御香宮のちょうど中間あたりです。

埋骨地が2ヶ所もあるそうです。
64名もの人がこの地で眠っているのですが、64名の氏名は記録されているのでしょうか?
名も無き戦死ということなのでしょうか。
会津の稲生、柴宮という2名のお墓が別にあるというのは、この2名だけ氏名が判っていたので、別にお墓が建てられたという事を意味するのでしょうか?

墓地の埋骨地までお参りさせて下さいと、尋ねるのも躊躇われたので、門から見える戊辰之役東軍戦死者之碑のみ見て帰りました。

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伏見奉行所跡

2009年02月28日
新選組が屯所とした、伏見奉行所跡(京都府京都市伏見区東奉行町 市営桃陵団地)です。
伏見奉行所跡2  伏見奉行所跡
慶長5年に創設の伏見奉行所も、実際は寛文6年に水野石見守忠貞が初めて伏見支配に専念する奉行となりました。
伏見奉行所には、与力10騎・同心50人が属して、伏見市街と周辺9ヶ所の支配をしました。
安政6年に奉行に就任した林肥後守忠交(上総請西藩主)が慶応3年5月病没した後、幕府は後任者を任命せず、慶応3年11月20日伏見奉行所は廃止し、京都町奉行に業務を兼帯させました。

慶応3年12月9日の政変後、永井尚志に従って大坂に下っていた近藤勇と新選組は、下坂二日後に伏見警備を命じられ、元奉行所屋敷へ入り屯所にしました。
翌年正月3日夜、鳥羽伏見開戦の日、伏見口で新選組は繰り返し薩軍陣地へ斬り込みをかけましたが、装備に勝る敵の防御線を突破できず、薩軍の砲撃により奉行所は戦火で灰燼に帰しました。
新選組も会津もその他の友軍とともに伏見を放棄して後退しました。
写真でみる維新の京都&新選組大事典より


御香宮の前を通る、国道24号を400m南に進むと、桃陵団地前のバス停があります。
バス停の東側に団地が並んでいます。
団地のどこに写真の碑があったかの詳細を覚えていません。
団地の入口付近を歩いていると、すぐに見つけることが出来たのです。

ここはまさに新選組が足を踏み入れた場所です。
近藤勇や沖田総司は怪我や病気でしたが、土方歳三は指揮をとりながら奉行所を宿所にして戦っています。
この地に土方歳三がいたんだ~。
同じ地に立って、同じ空気を吸っています。
しかし、見る風景も吸う空気の汚れ具合も違います。
奉行所の一部でも残っていたのなら、もう少し想像しやすいのですが、灰になってしまったらどうしようもありませんね。


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城南宮-補遺

2009年02月27日
城南宮(京都府京都市伏見区中島宮の後町)の写真です。
城南宮

2008年10月20日の“城南宮”を見てください。
そちらにも写真を追加しておきます。

御香宮

2009年02月27日
慶長10年家康の再建に成り、伏見城の遺構を多く残す御香宮(京都府京都市伏見区御香宮門前町)です。
御香宮
慶応4年正月、伏見方面守備の主力薩摩藩は、司令島津式部麾下の将兵800名が、御香宮を中心に東方龍雲寺方面を固めていました。
長州兵125名は、その他の寺院に駐屯していました。

これに対して、正月2日から3日にかけて、伏見方面に詰めかけた幕府の先鋒は3,000名に及びました。
竹中丹後守を長とする会津藩の主力は、新選組150名と浜田の兵を加えて約1,500名が、伏見奉行所や寺々に入って、西軍に対峙しました。

伏見では西軍は御香宮を、東軍は奉行所を拠点として戦いが始まりました。
新選組の土方以下の活躍もむなしく、刀槍に頼り、火力において劣る東軍は、竜雲寺高地からの砲撃に圧倒され、奉行所は火を発しました。
敗色濃い東軍は、火災の延焼とともに日没ごろに退却し始めました。

御香宮には『戊辰戦之役東軍伏見鳥羽淀八幡ニ於テ戦死及殉難者人名簿』があり、新選組の戦死者24名の名も載っています。
写真でみる維新の京都&新選組大事典より


京阪電鉄伏見桃山駅、近畿日本鉄道京都線桃山御陵前駅の東側に位置します。
京阪桃山駅からだと、100m東に近鉄桃山御陵前駅があるので、近鉄を越えます。
近鉄桃山御陵前駅の隣が御香宮の西側にあたります。
JR奈良線桃山駅を利用した場合は、西側になります。
桃山駅の北側の通りを西に200mで御香宮です。

私はなぜか、御香宮に明るいイメージがありません。
訪れるのが曇りの日が多いからか、新選組敗走のイメージがあるからでしょうか。
去年訪れた時は、お宮参りの家族が数組来られていました。
慶事で賑やかでした。
境内には“伏見名水”として名高い、“御香水”が涌いています。
なのに、明るいイメージがないのですよね…。
別にだからどうこうという訳ではないのです。
薩摩ファンの人なら、なんて清々しい場所だ!と思うかもしれません。

伏見戦跡の碑がありましたが、大抵碑の前には車が止められています。
この写真を撮る時もそうでした。
それがとても残念です。

土方歳三はこの地を、憎々しく思いながら戦ったのだと思います。
探索方は御香宮を偵察に来たかもしれません。
薩摩藩士で殺気立っていたのでしょう。
新選組も伏見奉行所跡で、同じように士気が高まっていたとは思います。


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高濱砲台

2008年10月27日
カテゴリを「京都 鳥羽・伏見戦」にまとめましたが、高濱砲台跡(大阪府三島郡島本町高浜)は、大阪府になります。
高濱砲台2  高濱砲台3

高濱砲台より橋本方面
「高浜砲台跡」の碑の横の堤防から橋本方向を望む。

元治元年に幕府により設置された河川台場です。
淀川対岸には、楠葉砲台がおかれています。
国内では河川台場は他に例をみないです。
大坂湾から京都へ侵入する外国船を想定して築かれました。
周囲180mの長方形で、土塁の高さは2.5mほど、カノン砲四門が設置され、管理は京都守護職・松平容保があたりました。

慶応4年1月の鳥羽・伏見戦では、高浜砲台を津藩藤堂家が、楠葉砲台を小浜藩酒井家が守り、京都方面から来る薩長軍に備えていました。
津藩は5日の勅使・四条隆平の説得に応じて新政府への帰順を決め、翌6日正午過ぎに旧幕軍の八幡、橋本、そして楠葉砲台に砲撃を開始しました。

土方歳三ら新選組は橋本宿、八幡山付近で戦闘状態にありましたが、津藩の裏切りにより戦意を喪失した八幡、橋本の旧幕軍とともに楠葉に撤退し、大坂まで退くことになりました。

高浜砲台は高浜、広瀬あたりにあったといいますが、淀川改修工事により取り壊されました。
今は河川敷ゴルフ場となっています。
新選組史跡事典より


阪急電鉄水無瀬駅から東へ歩きます。
水無瀬交差点を渡り、そのまま東へ続く道を道なりに歩いてください。
途中クリーニング店の分岐で右に進みます。
高浜公会堂が見えてきますが、その横の神社の前に碑が建っています。
駅から約500mです。

観光客はあるいていない、ごく普通の生活道路を歩いて行くので、ほんとうにこの道であっているのか不安でした。
「高濱砲台」という碑を見たときは嬉しかったです。

今、この碑の前に立っても、堤防で橋本方面は何も見えません。
横の堤防を登ってやっとみることが出来ます。
さらに目の前はゴルフ場なので、鳥羽・伏見の戦いを想像するには、すごく違和感を感じる風景になっています。

ここを京都守護職の松平容保が管理していたのは、あまり出てきませんよね?
松平容保といえば、新選組と近い関係です。
新選組や旧幕軍も松平容保の管理下にある場所なら安心で、裏切りなど考えられなかったのではないでしょうか?
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