三浦啓之助墓

2008年08月06日
三浦啓之助の墓(愛媛県松山市祝谷東町442 鷺谷共同墓地)が松山市にありました。
幕末関係(松山) 
新選組食客で、長野県松代出生で父は佐久間象山です。
本名佐久間恪二郎。新選組入隊後、三浦啓之助と称しました。
明治4年に佐久間恪(いそし)と改名、松山では格(まさる)と記録にあります。
明治6年に町人の娘ますと結婚、同9年に男子継述(つぐのぶ)が生まれましたが、明治12年に没しています。ますは静枝と改名し、明治34年に没しました。

恪は司法省出仕四級判事となり、堂省大丞、象山門下で松代出身の渡辺驥の世話で、愛媛県司法省十二等出仕、県庁聴訴課付となりました。

明治8年末に単身赴任し、河内うたとの間に、娘小松が生まれました。
松山での仕事は、松山裁判所判事として仕事をしていたようですが、在職中に急逝しました。
死因は、大酒豪で、うなぎ料理による中毒死。
酒乱の果て庭の池に落ちた転落死、また明治10年松山地方に流行したコレラによる病死と、明確ではありません。享年29歳。

墓所も二ヶ所説があります。
1、愛媛県和気郡祝谷村鷺谷共同墓地
2、松山市祝谷東636 祝谷山常信寺
1、については、道後温泉鷺谷共同墓地ですが、台帳にはありません。
2、はお寺には墓は存在しませんが、鷺谷共同墓地の無縁墓地に拝み石塔として現存しています。
明治41年に没した、娘小松の墓も隣にあるといいますが、これは不明です。
新選組大事典より

という事で、道後温泉の裏(?)に行き、共同墓地は見つけました。
「新選組大事典」の墓の写真を参考に、お墓探しをしました。
しかし写真の通り、日も暮れて周りが見えないほどで、墓石に刻まれた名前を読み取る事が難しく断念せざる得ませんでした。

道後温泉という“超”が付くほど有名な温泉街の裏に、こんな場所があるとは思いませんでした。
確かに、私達は道後温泉に遊びに行きますが、そこで生活している人がいないと私達が疲れを癒しにいけません。
生活する方が居られるという事は、亡くなられる方も居られるという事ですものね。

三浦啓之助という人物は、あまり好印象はありません。
親のコネで入った、出来ない人物という印象です。
いつの間に、新選組から離れていました?

亡くなった死因も不明、墓も不明(拝み石塔はありますが)…やはりどこか、中途半端な人なイメージが拭えません。
ます(改名後静枝)さんとは、離縁していのですか?
もしかして、河内うたさんはお妾さん?
それとも今でいう不倫で娘が生まれました?
なんだか、何もかもはっきりしない人ですね~。

お父さんが偉大すぎました?


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原田左之助奉公の地

2008年08月05日
久しぶりに新選組関係の史跡です!

原田左之助奉公の地(中島隼太屋敷跡 愛媛県松山市南堀端町1)です。
原田佐之助関係(松山)

原田左之助は(もちろん)新選組隊士です。伊予松山藩城下矢矧町(現・松山市緑町1)に下級武士の中間、または小間使いの身分の子として生まれました。
新選組が関わりあった事件のほとんどに名前があります。
隊士として家庭を持ち、29歳で亡くなっています。

明治40年6月15日の『史談会速記録』に左之助を見かけた内藤素行が語っています。
内藤が11歳の頃、松山で左之助を見かけました。
「裸体でふんどし一つで頬冠りをして其頃専ら習いました蘭式の銃隊に用います太鼓を、革帯を以って肩から左の腋へ下げて撥を持ってドンドンと鳴らし乍らやって来る者が…」と述べています。

幕末当時の松山藩武家屋敷は、勝山の本丸、二の丸の城郭を中心に、南西方の城裾下に三の丸、東南西の要所に家老職の屋敷、堀の内に上級家臣、頭部1~3番町と、南・西堀端通りに、上中級家臣団屋敷、東北側に下級家臣を配しています。
左之助の住む辺りは、城山の陰で日当たりが悪かったです。

内藤素行の証言する場所は…。
内藤は城の北西部の松山平和通りで、左之助を見かけることは無理です。その後移った南馬場東角(現・堀の内市営プールの南東角地)が妥当です。
この頃、左之助の主人、中島家は3回転居しており、左之助奉公時は、南堀端通り東より3軒目(現・南堀端町の松山家庭裁判所東北角地と、市電通りの1部を含む場所)です。
交野家は2回転居し、二番町通り会所藩明教館学問所(現・松山市二番町4・水産会館)より西角北寄2軒目(松山市二番町4、番町小学校内)です。

内藤・中島家は、城の堀を挟んだ所に、交野家は中島家より東方、道路二つ目の位置にあったことになります。
内藤の談話どおり、左之助の太鼓の音で、素行が屋敷前の内堀土手に上り、堀越に歩く左之助を見かけ、その左之助が中島家より、現・伊予銀行前の市電通りを歩いて、東の現・松山市役所前を城に向かって左折し、当時道路であった市役所の本館と別館の間を東に、突き当りの道路を30mほど右折した番町小学校校庭内にあった交野家まで歩いた事になります。
新選組大事典より

参考にした「新選組大事典」に、左之助が歩いた経路が詳しく書かれていました。
松山に着いたのが、夕方近かったので大変な人混みでした。
本当なら、この経路に出てくる一つ一つの場所を写真に収めたかったのですが、あまりの人でさすがの私も断念しました。(大抵の事なら躊躇いつつも、シャッターを押します。マナーはちゃんと守ります)
伊予銀行前だけは、どうにかこうにか写真を撮ることが出来ました。

もちろん、家庭裁判所・市役所などはちゃんと見てきました。
お城に行く事も思ったのですが、山の頂上にあり、さらに改修工事中で足場を組みシートが掛かっていたのが下からも見えたので、下での散策をする事にしました。

松山市という所は、私が想像していたより“町”でした。ゴメンナサイ。
大阪市や神戸市に近い所に住んでいるので(私の住むところは大都会ではありません)、どうしても大阪市や神戸市を基準に考えてしまうので…。
今、地図で上記の建物を確認しても、鮮明に思い出せます。
市電にも乗り、市電からも見たので、記憶にインプットされ易かったのでしょう。

原田左之助といえば、新選組の中心人物です。
松山藩出身という事は知られていますが、実際に松山に行ってみると、この土地から江戸や京都で活躍した事が不思議です。
そんな事を言ったら、太平洋側の土佐出身者はどうなる?って事になりますが。
今と違って、しまなみ海道も、瀬戸中央道も、鳴門・明石海峡大橋も無い時代ですからね。


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