彰義隊戦死者墓

2009年03月17日
上野公園内には、彰義隊戦死者の墓(東京都台東区上野公園1 上野恩賜公園内)があります。
上野彰義隊墓
慶応4年5月15日の上野戦争で戦死した彰義隊士の遺体は、新政府軍をはばかって、上野山内に放置されたままでした。
円通寺の僧侶仏麿は侠客三河屋幸三郎とはかり、火葬を新政府軍に願い出、許可されました。
18日に266名の遺体を集めました。
このうちの一部を当時、山内の山王台にあった長さ55m、幅20mほどのごみ溜め用の穴の周囲で火葬し、その骨は円通寺に運ばれ、残りは穴の中に埋められました。

その後、彼らの慰霊が建議され、明治7年9月19日に寛永寺が時の東京府知事大久保一翁に墓碑建立を出願し、10月12日に許可されました。
しかし、資金調達が難航したため、同14年11月7日に再建願書を提出、12月5日に再び許可を得て、山岡鉄舟の筆による高さ6.7mの「戦死之墓」が上野公園内に建立されました。

また墓碑の台座の上に60㎝程の小碑が建てられていますが、これは「戦死之墓」建立時の工事中に土中より発見されたもので、正面には、
 慶応戊辰五月十五日
彰義隊戦死之墓
 発願回向主沙門松国
と刻まれています。
発願者の「松国」は、上野山内の護国院と寒松院の寺名から一文字ずつとったもので、両院の清水谷慶順と多田孝泉によって、明治2年に建立されたといいます。

裏面には「昔時布金地 今日草茫々誰笑千年後 却憐古戦場」の漢詩と、
「あはれとて尋ぬる人もなきたまのあとをし忍ぶ岡の辺の塚」という和歌が刻まれています。

<上野戦争>
上野戦争とは、慶応4年5月15日の戊辰戦争の戦闘の1つです。
江戸上野(東京都台東区)において彰義隊ら旧幕府軍と薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍の間で行われた戦いです。

抗戦派の幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎、天野八郎らは彰義隊を結成しました。
彰義隊は当初本営を本願寺に置きましたが、後に上野に移しました。
旧幕府の恭順派は彰義隊を公認して、江戸市内の警護を命ずるなどして懐柔をはかりましたが、徳川慶喜が水戸へ向かい、渋沢らが隊から離れると彰義隊では天野らの強硬派が台頭し、旧新選組の残党(原田左之助が参加していたといわれる)などを加えて、徳川家菩提寺である上野の寛永寺(現在の上野公園内東京国立博物館)に集結して、輪王寺公現入道親王(後の北白川宮能久親王)を擁立しました。

新政府軍は長州藩の大村益次郎が指揮しました。
大村は武力殲滅を主張し、上野を封鎖するため各所に兵を配備してさらに彰義隊の退路を限定する為に神田川や隅田川、中山道や日光街道などの交通を分断しました。
大村は三方に兵を配備し、根岸方面に敵の退路を残して逃走予定路としました。

5月15日、新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突。
戦闘は雨天の中行われ、北西の谷中方面では藍染川が増水していました。
新政府軍は新式のスナイドル銃の操作に困惑するなどの不手際もあったのですが、加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えて佐賀藩のアームストロング砲や四斤半砲による砲撃を行いました。
彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、山王台(西郷隆盛銅像付近)から応射していました。
西郷が指揮していた黒門口からの攻撃が防備を破ると彰義隊は瓦解します。
午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅しました。

結果、新政府軍は江戸以西を掌握。
敗戦した彰義隊は有志により輪王寺宮とともに隠棲し、榎本武揚の艦隊に乗船し、平潟港(現茨城県北茨城市)に着船。
春日左衛門率いる陸軍隊等、一部の隊士はいわき方面で、残る隊士は会津へと落ち延びました。
戊辰戦争の前線は北陸、東北へ移りました。


※ 2008年7月21日 円通寺の記事を参照してください。
幕末維新江戸東京史跡事典&Wikipediaより

JR上野駅の目の前です。
営団地下鉄銀座線上野駅でも目の前です。
西郷隆盛像の背後あたりにあります。

上野公園の有名人西郷隆盛像よりも行きたかったのが、彰義隊戦死者の墓でした。
西郷隆盛像も実物を見たかったですよ。
西郷隆盛像が40%、彰義隊戦死者墓60%といったところでしょうか。

彰義隊戦死者の墓は、柵があり遠くからしかお参りできませんでした。
今はこのような状態ではないのでしょうか?
インターネットでチェックしていると、もっとスッキリした状態の写真をみました。
まわりの屋根や建物が無い写真です。
もししれならもう一度訪れて、明治2年の小さな石碑をちゃんと見てみたいです。

彰義隊には新選組の原田左之助が参加したといわれているので、激戦地となった上野には行きたかったのです。
時間的関係か、彰義隊のこの場所に訪れる人に会いませんでした。
原田左之助は上野戦争で負傷して死亡したとの説もあります。
ただ神保邸で死亡したとの説なので、ここで火葬され、埋められた可能性は低いようです。
それでもこの上野で戦った可能性は高いようです。
大陸に渡って馬賊になったとの説もあって、真相は不明なままなのがいいのかもしれませんね。

そういえば原田左之助は美男子だったといわれています。
性格は高慢だったそうですが…。
沖田総司とともに、写真も肖像画も残っていないのが残念です。
あまり悪い話も読んだ事がありませんし、高慢なイメージはないですね。

彰義隊のドラマって見ませんね?
大河ドラマにでも取り上げられたら、一気に彰義隊ブームが来そうで、それはそれでちょっと嫌かもしれません。
赤報隊は当時“偽官軍”の汚名を着せられ、昭和になってやっと名誉が回復したのに、赤報隊を名乗る凶悪犯罪が20年前から起こり腹立たしく思います。
彰義隊までもが同じようにならない事を願います。

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(2007/02/15)
不明

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上野公園

円通寺-旧上野の黒門

2008年07月12日
円通寺(東京都荒川区南千住1-59-11)には、旧上野の黒門が保存されています。
円通寺3旧上野の黒門  円通寺4旧上野の黒門弾痕
上野戦争の激戦のあとがくっきりと残っている、寛永寺黒門は維新後、帝室博物館に収蔵されていました。
明治40年、彰義隊の戦死者を埋葬していた関係で円通寺に払い下げられました。
幕末維新江戸東京史跡事典より

この黒門が見たくて、円通寺を訪れました。
黒門には弾痕の後がたくさん残っています。
本当に多くの痕が残っていて、戦いの凄さを物語っていました。

悲惨で、悲しくて、やるせなさを感じました。
それでも当時はきっと、それぞれに真剣に日本の未来を憂い、命をかけて戦ったのでしょう。


彰義隊彰義隊
(2005/11)
吉村 昭

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円通寺-碑&墓

2008年07月12日
幕末期の住職仏磨和尚が、上野戦争で死んだ彰義隊士の墓を建立したのが、円通寺(東京都荒川区南千住1-59-11)です。
現在多くの旧幕臣の墓などがありますが、一般参拝は出来ません。
円通寺1彰義隊墓
・彰義隊士の墓
 「戦死墓」とだけ刻まれた墓があります。
 これが仏磨和尚と三河屋幸三郎によって埋葬された、266人の彰義隊士たちの墓です。
 墓石は明治37年5月15日に、榎本武揚によって建てられたもので、
 「戦死墓」という文字も榎本の書です。

・天野八郎墓
 彰義隊頭並。慶応4年、彰義隊が結成されると、副長格である頭並に就任。
 渋沢成一郎の脱退後は、事実上の隊長として彰義隊を指揮した。
 上野戦争で敗れ、潜伏しているところを捕えられました。
 慶応4年11月8日、日比谷の牢内で病死。享年38歳

・天野八郎の碑
 墓のすぐかたわらにあります。
 それによると、日比谷の牢で病死した後、小塚原に埋葬されました。
 3年後にようやく同志がその場所に墓碑を建てたといいます。
 明治23年、遺族により円通寺に改葬されました。
 題字は榎本武揚、撰文は田辺太一によるものです。

・大鳥圭介の碑
 明治44年6月15日に79歳で亡くなりました。
 碑は碧血会と同方会によって、明治44年に建てられました。
円通寺2
右奥が天野八郎の墓と碑。一番左が大鳥圭介の碑です。

・荒井郁之助の碑
 明治42年7月19日に没した後、翌年碧血会によって建てられた追悼碑。

・榎本武揚の碑
 明治41年10月26日に没しました。
 碑は42年、江戸会、同方会、旧交会、碧血会の有志によって建てられました。

・大澤常正の句碑
 明治時代の弁護士。
 維新後の彰義隊に関する世話人を務めた。

・大塚嘉久治らの碑
 「合同舩」と題された、彰義隊士8人の合同慰霊碑。
 山田八郎・松本義房・大塚嘉久治・小林一知・西村賢八郎
 前野利正・羽山寛一・百井求之助

・木下福治郎 鷹羽玄道の碑
・後藤鉄治郎の碑
・佐久間貞一の碑 大日本印刷の創業者
・佐野豊三郎の墓
・相馬翁輔の碑
・土肥庄次郎の墓
・丸毛靱負の碑
上記7つは彰義隊士の碑&墓

・小芝長之助の墓
・沢太郎左衛門の碑
・高松凌雲の碑 箱館病院の頭取を務めた
・中田正廣の碑
・永井尚志 永井岩之丞の碑
・町野五八 堀覚之助の名で、箱館戦争に参戦
・松平太郎の墓
上記7つは旧幕臣の碑&墓

・死節の墓
 彰義隊とはじめとする旧幕軍戦死者の慰霊の墓です。

・新門辰五郎の碑
 侠客で町火消組頭です。
 上野戦争の折には、彰義隊に協力して、鉄砲よけの米俵を運搬しました。

・戦死人の碑
 上野戦争で死んだ彰義隊士を弔うために建立されたと思われる。

・仏磨和尚の墓
 上野戦争後、逆臣として野ざらしになっていた彰義隊士の弔いました。
 そのため、一度は新政府軍に捕えられました。
 10日あまりの拘束後、改めて埋葬許可をとりました。
 三河屋幸三郎と上野山で火葬にし、遺骨を円通寺に埋葬しました。

・三河屋幸三郎の碑
 商人で侠客。通称「三幸」。
 そばには「三河家之墓」と彫られた墓碑もあります。

・有縁諸霊の碑
 彰義隊士の霊を弔ったものと思われます。

・良馬の碑
 慶応4年春、陸奥下手渡藩主の立花出雲守種恭から、八重垣という名馬が彰義隊に下されました。
 本多晋がこの馬に乗って江戸城から深川の立花邸へ行く途中、馬ごと溝に落ちて負傷した話があります。
 その後、結城戦争の時に相馬翁輔がこの馬に乗り、古河藩に出向いたところ、馬は撃たれ、相馬も殺害されました。
 碑は名馬八重垣を追悼して建立されました。

幕末維新江戸東京史跡事典より

多くの碑や墓があって驚きです。
これだけの碑を感じる事はなかった記憶があります。

一般参拝は出来ないのですが、フェンスが張られているだけで、私が訪れた当時はフェンス越しにお参りする事はできました。
今はどうなのでしょうか?

彰義隊に原田左之助が参加し、死亡したという話もあります。

 
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