2009年01月03日 (土) | 編集 |
土方歳三まんじゅうです。
これは函館に行った時に買ったものですね。
こちらももちろん中身は、お腹の中に納めました。
土方歳三の血(ワイン)は血の色を感じるために、中身も残していますが、他は美味しく頂いています。
昨日のお酒−清酒 新選組−のアテというより、やはり熱くて渋いお茶が合いますね。
これは函館に行った時に買ったものですね。
こちらももちろん中身は、お腹の中に納めました。
土方歳三の血(ワイン)は血の色を感じるために、中身も残していますが、他は美味しく頂いています。
昨日のお酒−清酒 新選組−のアテというより、やはり熱くて渋いお茶が合いますね。
2008年10月21日 (火) | 編集 |
八番楳の木・千両松(京都府京都市伏見区納所・千両松・下野)と呼ばれる場所です。
井上源三郎戦死の地でもあります。
正月4日夜、伏見の高瀬川堤防や中書島に布陣した幕軍も敗色濃く、宇治川堤防を淀へ向けて後退しました。
5日朝、石川厚狭介の率いる長州偵察隊は、宇治川堤を淀方面に向かって進撃しました。
千両松で東軍と出会いこれを撃破し、さらに追撃しようとしますが、部下の躊躇う姿に叱咤激励し、自ら突撃した石川は、千両松北側の堤防下に潜伏する佐川隊の槍隊の猛反撃にあい戦死しました。
長州偵察隊の旗色は悪くなりますが、薩藩砲兵の射撃と第二偵察隊、奇兵隊などの応援で、幕軍の別選隊・新選組・大砲隊などを相手に大激戦となりました。
双方とも死傷者を出しながら、官軍は幕軍を追い詰め、幕軍は会津藩別選組は大半戦死し、新選組も井上源三郎などが戦死、林権助の倅又三郎も戦死しました。
淀から八幡方面へ退きました。
淀(京都)競馬場の近くの元堤防跡に、東軍戦死者の八番楳の木埋骨の碑があります。
写真でみる維新の京都より
井上源三郎は、一発の銃弾で倒れました。
「叔父さんは撃たれると手当てをする暇もなく息を引き取ってしまった。」と11歳で戦闘に参会していた、甥の泰助の遺談だそうです。
銃弾は、頭部か胸部かは語っていないそうです。
泰助は叔父の首と刀を持ち歩きましたが、「人間の首があんなに重いものだとは思ってもみなかった。と語っています。
そして首を持ちきれず、あるお寺の門の前の田圃を掘って首と刀を埋めたと語り残しています。
泰助は寺の名を長男覚太郎氏の嫁「ケイ」さんに言い残したそうですが、ケイさんも死去されて今では知るすべもなくなりました。
昭和40年ごろ、この地に淀競馬場の駐車場が造られることになり、この碑が片付けられ、淀堤が切り崩され、飯場が建てられました。
しかしこの飯場で、夜中、紫色で袖に白いだんだらのついた羽織を着た血みどろになって武士が現れ、「元に返せ、元に返せ」と叫んだ夢を皆が見て、恐ろしさのあまり、関係者に話をして、埋葬地の碑を駐車場入口の一角に建て直し、競馬場関係者の名前を付した「誠の旗」10本程を立てて慰霊祭を行ったそうです。
新選組事典より
この場所は思い出深いのです。
何度行っても、ここを見つける事が出来なかったのです。
住所も細かく書かれているものがなくて、大まかな住所と写真の風景、それに添えられている文章の内容から探しました。
結局2ヶ月の間に4回通い、ようやく辿り着くことができました。
場所は、京阪電鉄淀駅から淀競馬場(京都競馬場)沿いに歩きます。
真っ直ぐ行ける道が無くて、少し住宅街を通り抜けなければ(当時は)行けませんでした。
そしてこの場所は、京都競馬場の駐車場(?)にありました。
駐車場に止めた方ようの高架(?)のような、橋の橋脚のたもとに建っていました。
京阪電車の窓からも、見ることが出来る場所です。
2ヶ月で4回も通ってでも行きたかったのは、井上源三郎が戦死した場所だと聞いていたからです。
新選組の重鎮の戦死地です、行ってみておかないと何時までもモヤモヤしてしまいそうです。
しかし、首と刀はどこかの寺の前の田圃に埋めた…ちょっとショックです。
頑張って持って歩いて欲しかったです。
そしてせめて墓標なりを建てて、埋めて欲しかったです。
戦争中ですから無理だったのはわかるのですが…。
綺麗に手入れがされています。
私が新選組仲間と行った時、近くのおじさんという方が話しかけられてきました。
そして「ここの手入れは、わしがやってるんや。花代も馬鹿にならない。」と延々と聞かされました。
言われてもどうする事もできませんからね。
「ありがとうございます。」と言って、ちょっと心残りがありましたが、井上源三郎さんに別れを告げて帰ってきました。
もう1度行きましたが、その時はおじさんは居られなかったので、ゆっくりとしてきました。
井上源三郎さんの首と刀はここには無いですが、井上さんらしき人が夢の中に出て来るというのは、この場所がお気に入りで、安心していられる場所なのかもしれませんね。
意外と戦さに嫌気がさして、ゆっくりしたいと思っていたのかもしれません。
八王子千人同心
井上源三郎戦死の地でもあります。
正月4日夜、伏見の高瀬川堤防や中書島に布陣した幕軍も敗色濃く、宇治川堤防を淀へ向けて後退しました。
5日朝、石川厚狭介の率いる長州偵察隊は、宇治川堤を淀方面に向かって進撃しました。
千両松で東軍と出会いこれを撃破し、さらに追撃しようとしますが、部下の躊躇う姿に叱咤激励し、自ら突撃した石川は、千両松北側の堤防下に潜伏する佐川隊の槍隊の猛反撃にあい戦死しました。
長州偵察隊の旗色は悪くなりますが、薩藩砲兵の射撃と第二偵察隊、奇兵隊などの応援で、幕軍の別選隊・新選組・大砲隊などを相手に大激戦となりました。
双方とも死傷者を出しながら、官軍は幕軍を追い詰め、幕軍は会津藩別選組は大半戦死し、新選組も井上源三郎などが戦死、林権助の倅又三郎も戦死しました。
淀から八幡方面へ退きました。
淀(京都)競馬場の近くの元堤防跡に、東軍戦死者の八番楳の木埋骨の碑があります。
写真でみる維新の京都より
井上源三郎は、一発の銃弾で倒れました。
「叔父さんは撃たれると手当てをする暇もなく息を引き取ってしまった。」と11歳で戦闘に参会していた、甥の泰助の遺談だそうです。
銃弾は、頭部か胸部かは語っていないそうです。
泰助は叔父の首と刀を持ち歩きましたが、「人間の首があんなに重いものだとは思ってもみなかった。と語っています。
そして首を持ちきれず、あるお寺の門の前の田圃を掘って首と刀を埋めたと語り残しています。
泰助は寺の名を長男覚太郎氏の嫁「ケイ」さんに言い残したそうですが、ケイさんも死去されて今では知るすべもなくなりました。
昭和40年ごろ、この地に淀競馬場の駐車場が造られることになり、この碑が片付けられ、淀堤が切り崩され、飯場が建てられました。
しかしこの飯場で、夜中、紫色で袖に白いだんだらのついた羽織を着た血みどろになって武士が現れ、「元に返せ、元に返せ」と叫んだ夢を皆が見て、恐ろしさのあまり、関係者に話をして、埋葬地の碑を駐車場入口の一角に建て直し、競馬場関係者の名前を付した「誠の旗」10本程を立てて慰霊祭を行ったそうです。
新選組事典より
この場所は思い出深いのです。
何度行っても、ここを見つける事が出来なかったのです。
住所も細かく書かれているものがなくて、大まかな住所と写真の風景、それに添えられている文章の内容から探しました。
結局2ヶ月の間に4回通い、ようやく辿り着くことができました。
場所は、京阪電鉄淀駅から淀競馬場(京都競馬場)沿いに歩きます。
真っ直ぐ行ける道が無くて、少し住宅街を通り抜けなければ(当時は)行けませんでした。
そしてこの場所は、京都競馬場の駐車場(?)にありました。
駐車場に止めた方ようの高架(?)のような、橋の橋脚のたもとに建っていました。
京阪電車の窓からも、見ることが出来る場所です。
2ヶ月で4回も通ってでも行きたかったのは、井上源三郎が戦死した場所だと聞いていたからです。
新選組の重鎮の戦死地です、行ってみておかないと何時までもモヤモヤしてしまいそうです。
しかし、首と刀はどこかの寺の前の田圃に埋めた…ちょっとショックです。
頑張って持って歩いて欲しかったです。
そしてせめて墓標なりを建てて、埋めて欲しかったです。
戦争中ですから無理だったのはわかるのですが…。
綺麗に手入れがされています。
私が新選組仲間と行った時、近くのおじさんという方が話しかけられてきました。
そして「ここの手入れは、わしがやってるんや。花代も馬鹿にならない。」と延々と聞かされました。
言われてもどうする事もできませんからね。
「ありがとうございます。」と言って、ちょっと心残りがありましたが、井上源三郎さんに別れを告げて帰ってきました。
もう1度行きましたが、その時はおじさんは居られなかったので、ゆっくりとしてきました。
井上源三郎さんの首と刀はここには無いですが、井上さんらしき人が夢の中に出て来るというのは、この場所がお気に入りで、安心していられる場所なのかもしれませんね。
意外と戦さに嫌気がさして、ゆっくりしたいと思っていたのかもしれません。
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八王子千人同心
2008年07月14日 (月) | 編集 |
松陰神社(東京都世田谷区若林4−35−1)の来原良蔵・福原乙之進・綿貫治良助の墓です。

来原良蔵は長州藩士で松陰の親友でした。
しかし松陰が老中間部詮勝の暗殺を企てたことを知り、絶交しました。
文久2年、横浜の外国人を殺害しようとした事を藩世子の元徳に戒められて、藩邸内で自刃しました。
享年34歳。
芝の青松寺に葬られた後、この地に改葬されました。
福原乙之進は長州藩士。
文久2年に中谷正亮、久坂玄瑞らと脱藩しました。
長井雅楽を暗殺しようとしましたが、未遂に終わりました。
江戸に出て討幕を画策しましたが、刈谷藩邸内で一橋家臣脇坂又三郎と談話中に古河藩兵に包囲され、負傷し自刃しました。
享年27歳。
直接この地に葬られました。
綿貫治良助は長州藩士です。
足軽として江戸藩邸に仕えていました。
禁門の変が起こると、朝敵となった長州の藩邸は幕府に没収されることになり、使者の幕吏と争い自ら喉をついて自殺しました。
享年29歳。
直接この地に葬られました。
幕末維新江戸東京史跡事典より
こんかい書いた、3人の長州藩士は全く知らない方々です。
長州ファンの方には、おなじみなのかもしれませんが、私は初耳の方ばかりです。
松陰の親友に、久坂玄瑞と脱藩というのですから、長州の歴史の中では有名ですか?

来原良蔵は長州藩士で松陰の親友でした。
しかし松陰が老中間部詮勝の暗殺を企てたことを知り、絶交しました。
文久2年、横浜の外国人を殺害しようとした事を藩世子の元徳に戒められて、藩邸内で自刃しました。
享年34歳。
芝の青松寺に葬られた後、この地に改葬されました。
福原乙之進は長州藩士。
文久2年に中谷正亮、久坂玄瑞らと脱藩しました。
長井雅楽を暗殺しようとしましたが、未遂に終わりました。
江戸に出て討幕を画策しましたが、刈谷藩邸内で一橋家臣脇坂又三郎と談話中に古河藩兵に包囲され、負傷し自刃しました。
享年27歳。
直接この地に葬られました。
綿貫治良助は長州藩士です。
足軽として江戸藩邸に仕えていました。
禁門の変が起こると、朝敵となった長州の藩邸は幕府に没収されることになり、使者の幕吏と争い自ら喉をついて自殺しました。
享年29歳。
直接この地に葬られました。
幕末維新江戸東京史跡事典より
こんかい書いた、3人の長州藩士は全く知らない方々です。
長州ファンの方には、おなじみなのかもしれませんが、私は初耳の方ばかりです。
松陰の親友に、久坂玄瑞と脱藩というのですから、長州の歴史の中では有名ですか?
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2008年04月02日 (水) | 編集 |
「土方歳三の血」の他にも、「ゆかりの人」という“ワイン”と“焼酎”がありました。
土方歳三と榎本武揚の2人だったでしょうか?
白ワインの瓶と焼酎の外箱です。
焼酎は牛乳焼酎と書いてあります。
どんな物で、どんな味だったかは覚えていないのです…。

土方歳三と榎本武揚の2人だったでしょうか?
白ワインの瓶と焼酎の外箱です。
焼酎は牛乳焼酎と書いてあります。
どんな物で、どんな味だったかは覚えていないのです…。

2008年03月19日 (水) | 編集 |
飛行機までの時間が、少し余裕が出来たので、大森海岸に下りました。
目の前は津軽海峡です。
北海道の海風を満喫しました。
2日前、北海道に上陸した時は、温帯低気圧と共に上陸した影響でしょうか、砂浜には多くの海草が打ち上げられていました。

もちろん函館の史跡はこれだけではありません。
まだまだあります。
少し足を伸ばせば、まだまだ数えられない程あります。
行きたい!!!!!!
お昼過ぎの飛行機で私は帰阪しました。
来るときは伊丹空港から飛び立ち、帰りは関西空港に下ります。
関西空港に着いた時は、もう真っ暗でした。
飛行機に乗りなれている人はなんてことはないのでしょうが、空港の誘導灯が凄く綺麗で思わず見入ってしまいました。
無事着陸、楽しい3日間でした。
目の前は津軽海峡です。
北海道の海風を満喫しました。
2日前、北海道に上陸した時は、温帯低気圧と共に上陸した影響でしょうか、砂浜には多くの海草が打ち上げられていました。

もちろん函館の史跡はこれだけではありません。
まだまだあります。
少し足を伸ばせば、まだまだ数えられない程あります。
行きたい!!!!!!
お昼過ぎの飛行機で私は帰阪しました。
来るときは伊丹空港から飛び立ち、帰りは関西空港に下ります。
関西空港に着いた時は、もう真っ暗でした。
飛行機に乗りなれている人はなんてことはないのでしょうが、空港の誘導灯が凄く綺麗で思わず見入ってしまいました。
無事着陸、楽しい3日間でした。





