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小島資料館

2010年07月18日
新選組ファンなら一度は行ってみたい…、でもまだ行けてないのが、小島資料館(東京都町田市小野路950)なのです。

小島資料館1489

小島資料館2490  小島資料館3491

小島資料館0531
灯篭の正面に、彰義隊が官軍と戦った時の弾痕があります。

小島資料館4492
近藤勇銅像

沖田総司年賀状、近藤勇稽古着、近藤勇の晒し首を報じる瓦版、新選組墨印などがあります。

ここに近藤勇や土方歳三、沖田総司が通ったかと思うと是非行きたいです。
しかし、開館日時が第1・3日曜日の午後1時~5時だけなので、なかなか時間があいません。
総司忌や歳三忌で東京に行った時に…と思っても、イベントと重なったり、開いていなかったかりです。

それにしても広いお庭ですね。
名主さんの家だとこれぐらいの広さは平均的なのでしょうか。
当時の方が広かったかもしれないですよね。

いつか行けるといいな。







新選組 多摩党の虚実 土方歳三・日野宿・佐藤彦五郎
彩流社[神津 陽(著)/四六判/296頁]
1,890円

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慶養寺

2009年03月16日
慶養寺(東京都台東区今戸1丁目6-22)は新選組に関係があったかもしれません。
慶養寺1  慶養寺2
4月10日、江戸城明け渡しの前日、歳三らは酒井邸(東京都千代田区丸ノ内)より今戸八幡別当寺に移りました。
慶養寺がそれだといいます。
土方歳三写真集より


営団地下鉄銀座線、都営地下鉄浅草線、東武伊勢崎線の各浅草駅が近いですか?
駅を降りると国道6号を言問橋西まで北に歩きます。
言問橋を渡らずに、国道から川に近いほうの道を100mさらに北へすすむと慶養禅寺があります。

慶養寺が今戸八幡別当寺だといわれています。という事なので、確実とはいえません。
ただ“今戸”とつく寺に移ったようなので、この付近だったことには間違いないでしょう。
江戸城明け渡しの前日…。
土方はどんな気持ちだったのでしょう。
最後の砦の江戸城が落ちると悲嘆したのでしょうね。
ただ土方歳三が江戸城明け渡しを知ったのは、明け渡し後でした?

たかが江戸城一つぐらい。
徳川家さえ命があれば、また政権を奪取してやる!
ぐらいの気持ちの切り替えをしたのかもしれません。
そうであれば、アクティブさを見習わなければ!


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(2005/05)
土方 愛

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東京都台東区

田村銀之助墓-智香寺

2009年03月15日
伊庭八郎の死を看取った田村銀之助の墓が、智香寺(東京都文京区大塚3丁目28-7)にあります。
田村銀之助墓
田村銀之助は、陸奥磐城平出身。
田村半右衛門の五男で、兄一郎、録四郎もともに新選組隊士です。

慶応3年秋、江戸で入隊した銀之助は13歳でした。
隊士とはいっても年少のため、実践参加は箱館に渡ってからでした。
『史談会速記録』には、新選組が流山へ転陣する前後のこと、会津から仙台へ落ちる逃避行、さらに箱館五稜郭開城前後の証言があります。

銀之助は、経緯はわかりませんが、彰義隊頭取の春日左衛門の養子であったため、五稜郭内で負傷して寝ている春日の世話をしており、開城となる直前、春日と傍で寝ていた伊庭八郎らの最期の光景を語り残しています。
総裁榎本付きであった彼は、謹慎が解けた後、一時、黒田清隆のもとにいました。
榎本から黒田に託されていたようで、のちに黒田の北海道開拓にも同行しています。
沢簡徳のもとで書生をしていて、殺人事件に巻き込まれて飛び出し、陸軍教導団に入りました。

西南戦争にも参加しましたが、長州閥の壁の厚さから陸軍に嫌気がさして、竹橋騒動の時、合流しようとしましたが果たせずに断念、陸軍を辞めました。
再び黒田に従って北海道開拓に同行したり、警察署に奉職して日比谷焼討ち事件に遭遇したり、波乱に富んだ後半生を送りました。
向こうっ気が強く、ケンカっ早いが、情に厚い人だったそうです。

娘のはる女は幼いうちから英語を銀之助から学びました。
女学校に入ってみると、学校で習う英語と父の英語が違いました。
父の英語は、箱館でフランス人・ブリュネーから教えてもらった、仏語のアルファベットだったようです。

大正13年8月20日、69歳で死去(65歳とするものもありました)
「田村家之墓」に合葬され、墓側面に名前があります。
幕末維新江戸東京史跡事典&新選組大事典より


営団地下鉄丸の内線新大塚駅を大塚5丁目交差点の方に出ます。
そのまま南へ歩くと、400mほど行くと消防署大塚出張所があります。
そこで東に曲がります。
約300mで大塚窪町公園が見えて来ますが、公園の東隣にお寺があります。

今回、お寺まではちゃんと行く事はできました。
智香寺と刻まれた石は道路に面して建っていますが、門は階段を登った上にあります。
しかしながら、お墓を見つける事が出来なかったのです。
時間があればゆっくりと探すことが出来たのですが、より多くの史跡を回ろうと、時間を短くしか取っていなかったのがミスでした。
もっと簡単に見つかるはずだったのですが…。

新選組初期からの隊士だったら、もう少し時間をどうにかしたのですが、慶応3年からの新選組隊士だったので(今考えても、すごい理由ですね)、お寺の場所が判ったからいいやとしました。
でも考えてみれば、伊庭八郎の最期を知っている人だったのですよね。
あ~これもミスった?!

田村銀之助は写真が残っていますが、少年の頃の写真ですよね?
童顔で、実は30代の頃の写真です。エッ。なんて云わないですよね。
整った顔立ちをしていると思うのです。
可愛いって感じでしょうかね。
気が強そうな雰囲気は特にないのですが、新選組に入ろうと思うくらいですから、気が弱いはずはないですね。


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伊庭八郎

釜屋跡

2008年07月21日
釜屋跡(東京都品川区南品川3丁目)を訪れました。
釜屋跡1  釜屋跡2
品川寺門前の立場茶屋です。主人は半右衛門。
立場茶屋というのは、宿場と宿場の間に作られた、馬子や人足の為の休憩所でした。
後に一般の旅籠も営むようになりました。
幕末期には、幕府の御用宿として利用されていました。

新選組も慶応3年10月21日に、土方歳三が江戸募集の新入隊士らと30人と昼食をとっています。
また、翌年1月には、鳥羽・伏見の戦いで敗戦し、江戸に帰ってきた新選組が15日から23日まで滞在しています。
新選組大事典より


京急本線青物横丁駅のほぼ前に品川寺があります。
この門前に釜屋がありました。
商店街を歩いた記憶があります。

今は説明板があるだけでした。

あまりに素っ気無かったので、印象に残っていないのです。
ただ、「え~、こんな所に、新選組関係の史跡があったのか!?」と思ったのは覚えています。

東京在住の新選組ファンの知り合いが、私が見落としていた場所にも多く案内してくれたので、「えぇ~!!」とい史跡の一つでした。

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清河八郎遭難の地

2008年07月11日
清河八郎遭難の地、一の橋(東京都港区三田1-1)です。
一の橋
清河八郎の暗殺を計画していた、佐々木只三郎、速見又四郎、高久安次郎、広瀬六兵衛、永井寅之助、依田哲二郎、徳永昇らはなかなか機会を見つけられませんでした。
老中小笠原長行が上山藩士金子与三郎に密命し、金子は佐々木。速水らと計画し、清河を自宅に招待しました。
当日、清河は山岡鉄舟の隣、高橋泥舟邸に寄り、
「さきがけて またさきがけん 死での山 迷いはせまじ すめろぎの道」 と詠んでいます。

金子邸で厚いもてなしを受けた帰途、一の橋を渡っていた時に、佐々木只三郎が声をかけて頭を下げました。清河が笠の紐に手をかけた時に、速見又四郎が背後から斬り付けたのが致命傷になりました。
幕末維新江戸東京史跡事典

一の橋付近は車通りも多くて、思うように写真も撮れませんでした。
「一の橋」の文字が入った写真は、人に見せられないほどのピンボケだったのです。
当時はまだフィルムだった為、現像してみないとわからないという事で、何度泣いたことでしょう。

今の風景を見ると、「暗殺」にはとても不向きな場所のように思います。
しかし幕末に撮られた、一の橋近くの写真を見ると、家は多く立ち並んでいますが、ビルも高速道路も街灯ももちろんないので、暗闇の中で「暗殺」は決行できたように思います。

清河八郎が暗殺された橋を、「赤羽橋」と聞いた事もあるのですが、「一の橋」が正しいのでしょうか?
今回は「一の橋」を訪れてみました。
赤羽橋と一の橋は、現在は750mほど離れています。
“たった750m”なのか、“750mも”なのかどうなのでしょう。
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