
品川寺門前の立場茶屋です。主人は半右衛門。
立場茶屋というのは、宿場と宿場の間に作られた、馬子や人足の為の休憩所でした。
後に一般の旅籠も営むようになりました。
幕末期には、幕府の御用宿として利用されていました。
新選組も慶応3年10月21日に、土方歳三が江戸募集の新入隊士らと30人と昼食をとっています。
また、翌年1月には、鳥羽・伏見の戦いで敗戦し、江戸に帰ってきた新選組が15日から23日まで滞在しています。
新選組大事典より
京急本線青物横丁駅のほぼ前に品川寺があります。
この門前に釜屋がありました。
商店街を歩いた記憶があります。
今は説明板があるだけでした。
あまりに素っ気無かったので、印象に残っていないのです。
ただ、「え〜、こんな所に、新選組関係の史跡があったのか!?」と思ったのは覚えています。
東京在住の新選組ファンの知り合いが、私が見落としていた場所にも多く案内してくれたので、「えぇ〜!!」とい史跡の一つでした。
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清河八郎の暗殺を計画していた、佐々木只三郎、速見又四郎、高久安次郎、広瀬六兵衛、永井寅之助、依田哲二郎、徳永昇らはなかなか機会を見つけられませんでした。
老中小笠原長行が上山藩士金子与三郎に密命し、金子は佐々木。速水らと計画し、清河を自宅に招待しました。
当日、清河は山岡鉄舟の隣、高橋泥舟邸に寄り、
「さきがけて またさきがけん 死での山 迷いはせまじ すめろぎの道」 と詠んでいます。
金子邸で厚いもてなしを受けた帰途、一の橋を渡っていた時に、佐々木只三郎が声をかけて頭を下げました。清河が笠の紐に手をかけた時に、速見又四郎が背後から斬り付けたのが致命傷になりました。
幕末維新江戸東京史跡事典
一の橋付近は車通りも多くて、思うように写真も撮れませんでした。
「一の橋」の文字が入った写真は、人に見せられないほどのピンボケだったのです。
当時はまだフィルムだった為、現像してみないとわからないという事で、何度泣いたことでしょう。
今の風景を見ると、「暗殺」にはとても不向きな場所のように思います。
しかし幕末に撮られた、一の橋近くの写真を見ると、家は多く立ち並んでいますが、ビルも高速道路も街灯ももちろんないので、暗闇の中で「暗殺」は決行できたように思います。
清河八郎が暗殺された橋を、「赤羽橋」と聞いた事もあるのですが、「一の橋」が正しいのでしょうか?
今回は「一の橋」を訪れてみました。
赤羽橋と一の橋は、現在は750mほど離れています。
“たった750m”なのか、“750mも”なのかどうなのでしょう。

清河八郎、本名は斉藤元司。
出羽庄内清川村、山形県東田川郡立川町清川(現在は平成の大合併の影響があるかも)の酒造家斉藤豪寿(ひでとし)の長男として生まれました。
18歳で江戸に出て、東条一堂に学び、のちに安積艮斉塾に入り、昌平黌に学びました。
剣は北辰一刀流千葉周作に入門。
安政元年、神田三河町に塾を開きました。
浪士隊を結成しましたが、尊王倒幕の為であったため、江戸に戻されました。
15日後の4月13日、上山藩金子与三郎に招かれ、帰途、佐々木只三郎・速見又四郎、高久安久らに暗殺されました。
享年34歳。
新選組大事典より
清河八郎は肖像画が残されていますが、どうしても西村雅彦氏の清河八郎が頭から離れません。
清河八郎のお墓の横には、お蓮さんのお墓もあり仲良く並んで眠っています。
清河八郎にすれば志半ばで斃れたので、悔やまれることばかりでしょうが。
あやふやな記憶ですが、お蓮さんは清河八郎の母親には認められなかった、というような話を聞きました。
理由はお蓮さんが遊女だった為。
清河八郎は勘当状態だったそうです。
お蓮は、清河八郎同志達と連座で投獄され、取調べに耐え抜きましたが、病に倒れ亡くなっています。
そういう話を聞き、並んだ墓石をみると一緒でよかったなと思います。
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伝通院(東京都文京区小石川3丁目14−6)は、無量山伝通院寿経寺といい、徳川家康の母於大の菩提寺として知られています。 
浪士隊結成の処静院跡の石柱

文久3年2月8日、浪士隊は伝通院塔頭処静(所浄)院に集合後、京都へ向けて出発しました。
処静院の細谷琳瑞和尚は公武合体論者で、山岡鉄舟や高橋泥舟などとも交流があったそうです。
伝通院門前(南隣)には福寿院(大黒天)があり、処静院はその北にあったといわれていますが、江戸切絵図や明治20年頃の地図では西隣に記されています。
処静院は火災に遭い、廃寺となっています。
新選組大事典より
“でんつういん”と思っていたら実は“でんづういん”でした。
ここでの浪士隊集合がなければ、新選組は生まれなかったはずです。
清河八郎はここで、集まった浪士を見て野望を抱いたのでしょうか?
近藤勇や沖田総司、土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、永倉新八、原田左之助、斉藤一たちは、大きな夢を抱いていたのでしょうか?
芹沢鴨や新見錦、平間重助、平山五郎は何を抱いて集まったのでしょうか?
そしてその他の浪士達は…。
小石川といえば、最初に連想するのが“小石川療養所”。
時代劇の見過ぎですね。
TBSでやっていた「大岡越前」の小石川療養所が真っ先に思い浮かびます。
医師は竹脇無我さんの“伊織先生”です。
東京ドームが近いのですね。
関西人の私には、東京ドームは珍しかったです(笑)
甲子園は身近なのですが…。

近藤勇の養父で、天然理心流の三代目です。
市ヶ谷甲良屋敷に試衛館道場を開きました。
近藤勇を養子に迎え、文久元年に勇に四代目を譲り、四谷の舟板横丁に隠居しました。
慶応3年10月28日朝六つ半に76歳で死去しました。
墓碑正面には、丸に三引紋の下に「周斎近藤邦武之墓」と刻まれています。
戒名は「仁功院殿義山道周居士」。
11月14日には会津藩士が弔問に訪れて二十両を供えた記録もあります。
新選組史跡事典より
増上寺の北西、東京タワーの北にある金地院です。
静かな墓地に、ひっそりとお墓がありました。
近くに増上寺があるので、もっと華やか(?)な場所を想像していました。
近藤周斎は新選組の小説などでも登場します。
しかし、どうもイメージがないのです。
厳ついおじいちゃん、優しいおじいちゃん、女ッ垂らしなおじいちゃん、どれも今ひとつしっくりとしません。
「近藤周斎の奥さんは、沖田総司を周斎の隠し子だと思って辛く当たった。」という小説か、漫画を読んだ事があります。
どこまでが本当のエピソードなのでしょうか?
これが本当のエピソードなら、女好きなおじいちゃんって事でしょうか?
それとも当時としては、ごく普通の事だったのでしょうか?
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