2008年12月30日 (火) | 編集 |
冷然院跡(京都府京都市中京区竹屋町通堀川西入ル)の前を通りました。
平安前期〜中期、冷然院があったところである。
弘仁年中(810〜824年)嵯峨天皇の離宮として造営されたのがはじめで、林泉を前に数十の建物が建ち、天皇は、しばしば行幸になって、華麗な詩歌の宴を行い、譲位後は、後院(上皇の御所)として使用されました。
嵯峨天皇の後、冷然院は皇室の重要な財産として伝えられ、代々天皇の離宮・後院として使用されました。
元は、「冷然院」という名前でしたが、火災が相次いだので“然”の字は“燃”につながるということから、「冷然院」から「冷泉院」へと改められました。
この「冷泉院」は、『源氏物語』とも関係があります。
冷泉帝−光源氏と藤壺の中宮との不義の子−が譲位したのちに過ごした御所が「冷泉院」です。
京都市などより参照
二条城のお堀の北側にあります。
堀川通を西に曲がった処です。
冷然院跡が何かよくわからずに、とりあえずパチリ!
平安時代でしたよ!!
幕末とかけ離れ過ぎました。
しかし源氏物語と思うと、興味が出てきました。
碑と説明板が木々に隠れるように建っているので、気付かない人も多いかもしれません。
でも、平安時代の建物跡の場所が分かるというのも、凄いですよね。
それなのに、幕末関係の位置が分からなかったりするのですが。
さすが京都!
千年の都!!
冷然院
嵯峨天皇
平安前期〜中期、冷然院があったところである。
弘仁年中(810〜824年)嵯峨天皇の離宮として造営されたのがはじめで、林泉を前に数十の建物が建ち、天皇は、しばしば行幸になって、華麗な詩歌の宴を行い、譲位後は、後院(上皇の御所)として使用されました。
嵯峨天皇の後、冷然院は皇室の重要な財産として伝えられ、代々天皇の離宮・後院として使用されました。
元は、「冷然院」という名前でしたが、火災が相次いだので“然”の字は“燃”につながるということから、「冷然院」から「冷泉院」へと改められました。
この「冷泉院」は、『源氏物語』とも関係があります。
冷泉帝−光源氏と藤壺の中宮との不義の子−が譲位したのちに過ごした御所が「冷泉院」です。
京都市などより参照
二条城のお堀の北側にあります。
堀川通を西に曲がった処です。
冷然院跡が何かよくわからずに、とりあえずパチリ!
平安時代でしたよ!!
幕末とかけ離れ過ぎました。
しかし源氏物語と思うと、興味が出てきました。
碑と説明板が木々に隠れるように建っているので、気付かない人も多いかもしれません。
でも、平安時代の建物跡の場所が分かるというのも、凄いですよね。
それなのに、幕末関係の位置が分からなかったりするのですが。
さすが京都!
千年の都!!
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冷然院
嵯峨天皇
2008年12月27日 (土) | 編集 |
有名な清水寺(京都府京都市東山区清水)です。
島田左近献納の石灯篭
十一面千手観音を本尊とする、音羽山清水寺は、北法相宗総本山で、本堂の懸崖舞台は有名です。
延暦17年創建です。
山門に並び立った石灯籠は、九条家家士で、井伊直弼の家臣長野主膳と謀って、主人九条関白を親幕派に転じた、島田左近の献納したものといわれています。
島田左近は、九条家諸大夫です。
出自も生い立ちも明らかでありません。
一説によれば石見の農家に生まれて、京都に出て商家の手代として働くうちに手づるを得て、宮家の青侍になり、やがて九条家に仕えて諸大夫まで立身したといいます。
また一説には、美濃の山伏あるいは神主の子で、九条家の家臣島田氏の入り婿となって、彼の妻の母千賀浦が老女であったので、九条家で勢力を得るようになり、諸大夫に出世したなどといいます。
が、どれも確証がありません。
左近が九条家の地位を利用して活躍するのは、安政5年の大獄からです。
井伊直弼の腹心長野主膳と謀り、目明しましらの文吉を使って尊攘派志士の検挙に暗躍、幕府から1万両の賄賂をとったと噂されました。
和宮の降嫁にも尽力、文久元年和宮の供として、江戸まで随行しました。
京都ではその権力は今太閤といわれるほどで、尊攘派に最も憎まれ、妾宅にいる時に田中新兵衛ら薩摩藩士3名に襲われて殺されました。
その首は加茂河原に斬奸状とともに晒されました。
島田左近は30代半ばだったといいます。
写真でみる維新の京都&幕末維新人名事典より
清水寺が幕末の小説などで出て来ることは少ないですね。
八坂神社などは時々目にします。
それは私が新選組ファンで、新選組中心の小説を読むからでしょうか?
この灯籠は島田左近が献納したといわれています。
あまり気付かないような所に、幕末が残っているのですね。
それにしてもこの島田左近という人は、本当に謎の多い人ですね。
出自がわからない。
気が付いたら、九条家の諸大夫になって、その場所に居た!という感じでしょうか?
亡くなった時の年齢も、30代半ばというあやふやさ、親密にしていた女性も何も聞かなかったのでしょうか?
詳しい生まれとかは別にしても、どの辺りの生まれで、年ぐらい聞きそうな気がするのですが。
この石灯籠も“いわれています”であり、“しました”ではないのです。
何もかもが、確定できないという…。
生身の人間ですよね、まさか幽霊ではないですよね。
清水寺
清水寺 今年の漢字
島田左近献納の石灯篭
十一面千手観音を本尊とする、音羽山清水寺は、北法相宗総本山で、本堂の懸崖舞台は有名です。
延暦17年創建です。
山門に並び立った石灯籠は、九条家家士で、井伊直弼の家臣長野主膳と謀って、主人九条関白を親幕派に転じた、島田左近の献納したものといわれています。
島田左近は、九条家諸大夫です。
出自も生い立ちも明らかでありません。
一説によれば石見の農家に生まれて、京都に出て商家の手代として働くうちに手づるを得て、宮家の青侍になり、やがて九条家に仕えて諸大夫まで立身したといいます。
また一説には、美濃の山伏あるいは神主の子で、九条家の家臣島田氏の入り婿となって、彼の妻の母千賀浦が老女であったので、九条家で勢力を得るようになり、諸大夫に出世したなどといいます。
が、どれも確証がありません。
左近が九条家の地位を利用して活躍するのは、安政5年の大獄からです。
井伊直弼の腹心長野主膳と謀り、目明しましらの文吉を使って尊攘派志士の検挙に暗躍、幕府から1万両の賄賂をとったと噂されました。
和宮の降嫁にも尽力、文久元年和宮の供として、江戸まで随行しました。
京都ではその権力は今太閤といわれるほどで、尊攘派に最も憎まれ、妾宅にいる時に田中新兵衛ら薩摩藩士3名に襲われて殺されました。
その首は加茂河原に斬奸状とともに晒されました。
島田左近は30代半ばだったといいます。
写真でみる維新の京都&幕末維新人名事典より
清水寺が幕末の小説などで出て来ることは少ないですね。
八坂神社などは時々目にします。
それは私が新選組ファンで、新選組中心の小説を読むからでしょうか?
この灯籠は島田左近が献納したといわれています。
あまり気付かないような所に、幕末が残っているのですね。
それにしてもこの島田左近という人は、本当に謎の多い人ですね。
出自がわからない。
気が付いたら、九条家の諸大夫になって、その場所に居た!という感じでしょうか?
亡くなった時の年齢も、30代半ばというあやふやさ、親密にしていた女性も何も聞かなかったのでしょうか?
詳しい生まれとかは別にしても、どの辺りの生まれで、年ぐらい聞きそうな気がするのですが。
この石灯籠も“いわれています”であり、“しました”ではないのです。
何もかもが、確定できないという…。
生身の人間ですよね、まさか幽霊ではないですよね。
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清水寺
清水寺 今年の漢字
2008年12月27日 (土) | 編集 |
清水寺一山九院の本坊・成就院(京都府京都市東山区清水、清水寺山内)は、本堂の手前、北方にあります。
先師蔵海の後を嗣いで、成就院の住職となった忍向(月照)は、勤王の志厚く、近衛家に出入りし、尊攘の志士と交わったため、幕府に睨まれ薩摩に下りました。
忍向の弟も蔵海の弟子となり、僧信海となり、兄の去った後寺務を預かった近藤正慎の亡き後、成就院の住職を嗣ぎました。
清水寺へ向かう途中、左の道を行くと、月照・信海の碑があり、坂を下ると成就院です。
忍向(月照)は、京都清水寺成就院住職で、正式僧名は忍向です。
大坂の町医玉井宗江の長男で、俗名宗之のち久丸です。
文政10年4月14歳で、縁戚にあたる成就院蔵海の弟子となり、翌年得度して中将坊忍鎧また忍介と称し、天保6年5月、23歳で同院住職を継ぎました。
和歌の道を通じて、近衛忠熙に認められ、有馬新七、西郷吉之助、鵜飼吉左衛門ら諸藩の志士と交際し、尊攘運動に没頭しました。
安政元年2月、同じく清水寺で修行した実弟信海に寺務を任せて国事に奔走し、同月近藤忠熙と謀って、高野山で外夷退散の祈願を行ったあと、とくに水戸藩への勅諚降下につき、鵜飼吉左衛門父子や頼三樹三郎、梅田雲浜らと公卿入説に努めました。
大獄により、鵜飼父子、頼、梅田も逮捕され、身に危険が迫ってきたので、近衛の勧告に従って9月11日、僕大槻重助を伴い京を脱出し、西郷吉之助、有村俊斎の両薩摩藩士に守られて、海路大坂から下関へ逃れ、豪商白石正一郎宅に身を寄せました。
ついで福岡で薩摩脱藩士北条右門の隠れ家に潜み、西郷、有村が先に帰国したあと、山伏に姿を変えた平野国臣に連れられて、南部一条院門跡使僧静渓院鑁水の変名で苦しい旅を続け、11月10日やっと鹿児島に入りました。
同月15日夜、西郷が宿を訪れて忍向と平野、重助を連れ出し、酒肴を設けた舟を船頭3人に操らせて月明の薩摩湾へ漕ぎ出しました。
酒宴が開かれたあと、未明近く、突然西郷と忍向が海へ飛び込み、間もなく引き揚げられましたが、忍向はすでに水死していました。享年46歳。
西郷は蘇生しました。
せっかく薩摩入りしたものの、藩首脳の空気は冷たく、忍向の日向への追放を宣せられた西郷が前途を悲観して、これを忍向に伝え、ともに死を決したらしいです。
忍向の遺体は鹿児島の禅宗南林寺に葬られ、別に清水寺子安塔付近に、大獄に座して江戸で獄死した弟信海と並んで墓があり、また清水寺境内北側には明治8年、月照十七回忌に西郷の詠んだ詩の碑と忍向兄弟の辞世碑が建てられました。
贈正四位。
写真でみる維新の京都&幕末維新人名事典より
清水寺の仁王門を潜り、本堂には向かわずに、観光客のいない左(北)にそれていきます。
池の横を通り抜けると、成就院(本坊)があります。
清水寺本堂とは違い、人の気配は在りませんでした。
おそらく幕末当時も静かな穏やかな場所だったのではないでしょうか?
住職の忍向の心の中は穏やかではなかったでしょうが。
忍向というより、月照という通称の方が有名ではないでしょうか?
月照が西郷吉之助と入水自殺したという話は、私も心の隅に残っていました。
西郷吉之助は助かったからこそ、維新の大業を成し得ましたね。
もし月照と一緒に亡くなっていたら、幕末維新は違った方に変わっていたかもしれません。
勝海舟との無血江戸開城もなかったかも…
歴史に「If」は禁物ですが、やはり考えてしまいますよね。
弟信海は、青蓮院宮の為に修法した攘夷祈願の護摩の件で、幕府側に捕えられ、江戸伝馬町の獄中で死にました。
安政6年3月18日、享年39歳。
両上人の墓は、清水寺山内、子安塔の西方墓地にあります。
また、忠僕大槻重助は、忍向の遺体を葬り、役人に連れられて京へ帰り、放免の後、茶屋を開いて主人の墓を守り暮らしていました。
「忠僕茶屋」と呼ばれ、「舌切茶屋」の西側にあります。
(三重塔修復工事により仮営業などで場所移動ありの可能性大)
忠僕大槻重助の墓は、忍向・信海の墓を守るように、両師の墓の東方、自然石の墓の下に眠っています。
写真でみる維新の京都より
西郷吉之助 月照
先師蔵海の後を嗣いで、成就院の住職となった忍向(月照)は、勤王の志厚く、近衛家に出入りし、尊攘の志士と交わったため、幕府に睨まれ薩摩に下りました。
忍向の弟も蔵海の弟子となり、僧信海となり、兄の去った後寺務を預かった近藤正慎の亡き後、成就院の住職を嗣ぎました。
清水寺へ向かう途中、左の道を行くと、月照・信海の碑があり、坂を下ると成就院です。
忍向(月照)は、京都清水寺成就院住職で、正式僧名は忍向です。
大坂の町医玉井宗江の長男で、俗名宗之のち久丸です。
文政10年4月14歳で、縁戚にあたる成就院蔵海の弟子となり、翌年得度して中将坊忍鎧また忍介と称し、天保6年5月、23歳で同院住職を継ぎました。
和歌の道を通じて、近衛忠熙に認められ、有馬新七、西郷吉之助、鵜飼吉左衛門ら諸藩の志士と交際し、尊攘運動に没頭しました。
安政元年2月、同じく清水寺で修行した実弟信海に寺務を任せて国事に奔走し、同月近藤忠熙と謀って、高野山で外夷退散の祈願を行ったあと、とくに水戸藩への勅諚降下につき、鵜飼吉左衛門父子や頼三樹三郎、梅田雲浜らと公卿入説に努めました。
大獄により、鵜飼父子、頼、梅田も逮捕され、身に危険が迫ってきたので、近衛の勧告に従って9月11日、僕大槻重助を伴い京を脱出し、西郷吉之助、有村俊斎の両薩摩藩士に守られて、海路大坂から下関へ逃れ、豪商白石正一郎宅に身を寄せました。
ついで福岡で薩摩脱藩士北条右門の隠れ家に潜み、西郷、有村が先に帰国したあと、山伏に姿を変えた平野国臣に連れられて、南部一条院門跡使僧静渓院鑁水の変名で苦しい旅を続け、11月10日やっと鹿児島に入りました。
同月15日夜、西郷が宿を訪れて忍向と平野、重助を連れ出し、酒肴を設けた舟を船頭3人に操らせて月明の薩摩湾へ漕ぎ出しました。
酒宴が開かれたあと、未明近く、突然西郷と忍向が海へ飛び込み、間もなく引き揚げられましたが、忍向はすでに水死していました。享年46歳。
西郷は蘇生しました。
せっかく薩摩入りしたものの、藩首脳の空気は冷たく、忍向の日向への追放を宣せられた西郷が前途を悲観して、これを忍向に伝え、ともに死を決したらしいです。
忍向の遺体は鹿児島の禅宗南林寺に葬られ、別に清水寺子安塔付近に、大獄に座して江戸で獄死した弟信海と並んで墓があり、また清水寺境内北側には明治8年、月照十七回忌に西郷の詠んだ詩の碑と忍向兄弟の辞世碑が建てられました。
贈正四位。
写真でみる維新の京都&幕末維新人名事典より
清水寺の仁王門を潜り、本堂には向かわずに、観光客のいない左(北)にそれていきます。
池の横を通り抜けると、成就院(本坊)があります。
清水寺本堂とは違い、人の気配は在りませんでした。
おそらく幕末当時も静かな穏やかな場所だったのではないでしょうか?
住職の忍向の心の中は穏やかではなかったでしょうが。
忍向というより、月照という通称の方が有名ではないでしょうか?
月照が西郷吉之助と入水自殺したという話は、私も心の隅に残っていました。
西郷吉之助は助かったからこそ、維新の大業を成し得ましたね。
もし月照と一緒に亡くなっていたら、幕末維新は違った方に変わっていたかもしれません。
勝海舟との無血江戸開城もなかったかも…
歴史に「If」は禁物ですが、やはり考えてしまいますよね。
弟信海は、青蓮院宮の為に修法した攘夷祈願の護摩の件で、幕府側に捕えられ、江戸伝馬町の獄中で死にました。
安政6年3月18日、享年39歳。
両上人の墓は、清水寺山内、子安塔の西方墓地にあります。
また、忠僕大槻重助は、忍向の遺体を葬り、役人に連れられて京へ帰り、放免の後、茶屋を開いて主人の墓を守り暮らしていました。
「忠僕茶屋」と呼ばれ、「舌切茶屋」の西側にあります。
(三重塔修復工事により仮営業などで場所移動ありの可能性大)
忠僕大槻重助の墓は、忍向・信海の墓を守るように、両師の墓の東方、自然石の墓の下に眠っています。
写真でみる維新の京都より
西郷吉之助 月照
2008年12月27日 (土) | 編集 |
高台寺表門(京都府京都市東山区下河原町)が残っています。
高台寺表門で、この門から参道が続いていたそうです。
その坂道を登った所に中門があり、そこから北方向へ方丈へ繋がる石畳がありました。
今、駐車場となっているあたりには、塔頭や天満宮があったそうです。
青龍寺の向かいに、門だけが柵に囲まれて建っています。
仮に門を潜れたとしても、建物は何もありません。
最初に見た時、いったい何の門なのだろう?と不思議に思いました。
現在、この門から200mは離れた場所に、高台寺があります。
幕末の頃の高台寺も、広大な寺地があったようです。
大まかにですが、大雲院の南あたりから、東は高台寺そのまま、霊山観音に表門を結んだ内側が寺地な感じのようです。
この表門も、幕末の頃には、ポツンッと建っている感じは無かったのかもしれません。
高台寺表門で、この門から参道が続いていたそうです。
その坂道を登った所に中門があり、そこから北方向へ方丈へ繋がる石畳がありました。
今、駐車場となっているあたりには、塔頭や天満宮があったそうです。
青龍寺の向かいに、門だけが柵に囲まれて建っています。
仮に門を潜れたとしても、建物は何もありません。
最初に見た時、いったい何の門なのだろう?と不思議に思いました。
現在、この門から200mは離れた場所に、高台寺があります。
幕末の頃の高台寺も、広大な寺地があったようです。
大まかにですが、大雲院の南あたりから、東は高台寺そのまま、霊山観音に表門を結んだ内側が寺地な感じのようです。
この表門も、幕末の頃には、ポツンッと建っている感じは無かったのかもしれません。
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2008年12月26日 (金) | 編集 |
青龍寺の並び、東へ200mの場所に、翠紅館跡(京都府京都市東山区高台寺桝屋町)の料亭大和があります。
文久3年正月27日、翠紅館内、送陽亭に長州はじめ尊攘派の志士たちが集まり、将軍家茂に対して、攘夷期限を決定せよとの要望書を呈出しよううと、会議を開きました。
さらに洛中において、攘夷倒幕派のリーダーとなった長州藩の志士たちは、加茂・石清水への行幸の後、いよいよ討幕御親征の機は近づいたと、大和・伊勢への行幸とともに大号令を発して頂こうと、同年6月17日、長州・土佐・肥後などの志士たちは再び翠紅館に集まり、夜を徹して会議を開きました。
写真でみる維新の京都より
青龍寺と200mしか離れていません。
霊山墓地(坂本龍馬・中岡慎太郎・木戸孝允らの墓や、440余りの墓・碑があります)へ向かう、急な坂道の入口にあります。
ここで長州の人たちが集まって会議をしました。
今は高級料亭のようで、気軽に会議は出来なさそうです。
当時の翠紅館はどのような格だったのでしょう?
今の政治かも、高級料亭で会合や密談(?)をしてますし、某御曹司はホテルの会員制バーが安いと言っていますし、当時の志士も高級料亭で会合でしょうか?
でもそれは嫌ですね〜。
幕末の頃の志士は、下から這い上がって来た人も多いですから、贅沢三昧というのはイメージが崩れます。
庶民程度まで質を落とせとはいいませんが、それなりに質素倹約(当時ですから、そういう場所で遊ぶのは横に置いておきましょう。)でいて欲しいです。
料亭で会合とか言って、高級料理ばかりを食べてブクブクは嫌です。
いくら新選組からみたら敵でも、美しくあって欲しいです。
この付近は、勤王派がよく利用したいようですね。
噲々堂、青龍寺、翠紅館、月真院と勤王派が中心です。
新選組は市中見廻で来ていたのでしょう。
勤王派が多い場所に行くときは、やはり緊張したのでしょうか?
一発即発の可能性もあるわけですから。
文久3年正月27日、翠紅館内、送陽亭に長州はじめ尊攘派の志士たちが集まり、将軍家茂に対して、攘夷期限を決定せよとの要望書を呈出しよううと、会議を開きました。
さらに洛中において、攘夷倒幕派のリーダーとなった長州藩の志士たちは、加茂・石清水への行幸の後、いよいよ討幕御親征の機は近づいたと、大和・伊勢への行幸とともに大号令を発して頂こうと、同年6月17日、長州・土佐・肥後などの志士たちは再び翠紅館に集まり、夜を徹して会議を開きました。
写真でみる維新の京都より
青龍寺と200mしか離れていません。
霊山墓地(坂本龍馬・中岡慎太郎・木戸孝允らの墓や、440余りの墓・碑があります)へ向かう、急な坂道の入口にあります。
ここで長州の人たちが集まって会議をしました。
今は高級料亭のようで、気軽に会議は出来なさそうです。
当時の翠紅館はどのような格だったのでしょう?
今の政治かも、高級料亭で会合や密談(?)をしてますし、某御曹司はホテルの会員制バーが安いと言っていますし、当時の志士も高級料亭で会合でしょうか?
でもそれは嫌ですね〜。
幕末の頃の志士は、下から這い上がって来た人も多いですから、贅沢三昧というのはイメージが崩れます。
庶民程度まで質を落とせとはいいませんが、それなりに質素倹約(当時ですから、そういう場所で遊ぶのは横に置いておきましょう。)でいて欲しいです。
料亭で会合とか言って、高級料理ばかりを食べてブクブクは嫌です。
いくら新選組からみたら敵でも、美しくあって欲しいです。
この付近は、勤王派がよく利用したいようですね。
噲々堂、青龍寺、翠紅館、月真院と勤王派が中心です。
新選組は市中見廻で来ていたのでしょう。
勤王派が多い場所に行くときは、やはり緊張したのでしょうか?
一発即発の可能性もあるわけですから。





