寺田屋-補遺

2009年03月05日
寺田屋(京都府京都市伏見区南浜町)に建つ、寺田屋騒動碑です。
寺田屋騒動碑310
寺田屋旅宿は、維新前は東方に建っていました。
当時は舟宿で、女将とせの世話好きと、義侠心に助けられた志士は少なくありません。

文久2年4月23日夜、薩藩の急進派有馬新七以下35名が、関白所司代を血祭りにあげ、攘夷断行をしようと寺田屋に集まりました。
藩主久光は奈良原喜八郎以下鎮撫の者をつかわしましたが、屋内階下の乱闘となり、新七以下9名が死亡、鎮撫使側では道島五郎兵衛が斬死しました。
寺田屋騒動といいます。

後に龍馬もここで幕吏に襲われました。
写真でみる維新の京都より


龍馬とお龍とお登勢との話での方が、広く知られているかもしれません。
観光で来られる人のほとんどは、“龍馬”の史跡として来られているでしょう。
そして「寺田屋騒動って何?」と思われるのではないですか。
今は、NHK大河ドラマ「篤姫」の後なので、寺田屋騒動も知られたとは思います。

この騒動で亡くなった9名のお墓が、大黒寺(2009年1月29日の記事を参照してください)にあります。


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寺田屋

薩摩伏見邸跡

2009年03月01日
江戸時代を通じて、薩摩伏見藩邸(京都府京都市伏見区東堺町、下板橋西詰)があった場所です。
伏見薩摩藩邸跡
慶応2年1月23日夜、留守居役大山彦八のもとへ寺田屋からお龍が、龍馬の危機を報じて来ました。
そこへ三吉慎蔵も逃れてきたので、大山は急ぎ船を仕立てて薩摩藩旗を立て龍馬の潜伏する木材小屋へと駆けつけました。
西郷は一小隊の兵士と医師を派遣、龍馬は29日まで伏見邸にいて、月末に薩摩兵の警護の中、二本松邸に移りました。
お龍も同行し、以後、2人は一緒に鹿児島への新婚旅行へ向かうことになりました。

慶応3年12月25日、伏見方面の取締巡邏の命を受けた薩藩は、総督島津式部、参謀吉井友美、中原猶介、隊長鈴木五郎等の指揮で、藩邸に本部を置き、御香宮等に駐屯しました。

翌4年正月3日夕方、白井五郎太夫の率いる会津藩大砲隊は京橋から伏見へ入りましたが、行手にいた土佐藩兵は抗することなく、別路を示したので迂回し、漸く曳いていった一門の砲で、空巣となっていた薩摩藩邸を焼討ちしました。
写真でみる維新の京都&坂本龍馬大事典より


京阪電鉄、近畿日本鉄道丹波橋駅の南側の道を西へ向かいます。
尾張伏見邸跡の板橋小学校の前を通りすぎて、橋を渡った突き当たりが薩摩伏見藩邸跡の松山酒造になります。
酒造会社になっており、こちらも碑はありません。

寺田屋で危機に遭遇した龍馬が、匿われたのがここです。
この橋のかかる川を船を使い、龍馬を救出に行ったようです。
お龍が裸で浴室から飛び出し、龍馬に伝えに階段を上がった話はエピソードとして必ず語られます。
その後の舞台です。
が、何も残ってはいません。
残っているのは、川ぐらいです。

薩摩伏見藩邸など、この辺りの史跡巡りは難しいです。
京都の中心部のように、通り×通りで表記できません。
地図をみても町名が載っているものが少なく、また道も綺麗な碁盤状ではありません。
慣れないので、伏見は苦労しました。


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寺田屋 宿泊

浄福寺

2009年02月16日
知恩院の末寺で、一名村雲寺という浄福寺(京都府京都市上京区浄福寺通一条上ル西側)です。
浄福寺
元和元年現在地に移り、本尊阿弥陀如来で、現存する堂宇は享保18年の再建です。

慶応3年3月初旬、薩摩の島津久光は、西郷以下家来700余名を従えて上京しました。
錦小路および二本松の藩邸に収容しきれない者は、浄福寺を屯所にしました。
血気に逸る若者達は、住職らを追い出し庫裡を占領し乱暴を働きました。
庫裡の柱には、数々の刀傷が残っています。
写真でみる維新の京都より


JR山陰本線・京都市営地下鉄東西線二条駅から千本通を北へ、約1.8㎞歩きます。
一条通で東に曲がり150m、全体で約2㎞歩きます。
広い境内のお寺なのでわかります。

藩邸に入れない者ばかりが集まっているのですね。
下級武士ばかりが集まっているというのでしょう。
藩邸だと羽目を外すことはできなくても、ここでだと好き放題していたのでしょう。

これは薩摩藩士だけではなく、長州藩や土佐藩、もしかして会津藩でもこんなものですか?
全員が品行方正とはいかないですね。
浄福寺における責任者なんてわざわざ任命しないのかな。
それにしても住職を追い出して占領だなんて、新選組でも西本願寺でそんなことはしていません…よね?!


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二本松薩摩藩邸跡

2009年02月03日
上京区にある薩摩(二本松)藩邸跡(京都府京都市上京区烏丸今出川東入ル北側)です。
薩摩藩邸跡(同志社大)
文久2年3月、薩摩の島津久光は手兵を率いて上洛し、中京にあった薩摩藩邸(2009年1月28日の記事を参照して下さい)に入りましたが、同所が手狭になったので、相国寺門前の約2万㎡の土地に薩摩邸が設けられました。
町名から二本松邸と呼ばれました。

文久3年6月、英艦との砲撃戦で敗れた薩摩は、攘夷の非を知り、会津と組んで長州を京から追いました。
その対立は幕末まで続きました。

維新後、この地は元会津藩士山本覚馬のものとなり、ついで同志社英学校に譲られました。
写真でみる維新の京都より


京都市営地下鉄烏丸線今出川駅を降りたところが、同志社大学ですが、その烏丸通に面した門の横に“薩摩藩邸跡”の碑が建っています。
この同志社大学が薩摩藩邸跡に造られました。
今はどう変わっているのか分かりませんが、私が学生の頃は、偏差値上位の私立大学を「関関同立」といっていました。
“同”が“同志社大学”です。

平日に行ったため、学生の出入りが多くて、写真を撮るのが少し恥ずかしかったです。
「学生の方が年下、私の方が人生の先輩。笑われるわけがないやん。」
と、人が聞いたら「何を言ってるの?」と思われるような事を、心の中で繰り返しながら、写真撮影に挑みました。
それで撮ったのが、上記写真ですから…。
(マナーとして、カメラを人に向けないように気は使いました。)
笑うしかないですね。

ここに薩摩藩邸がつくられたことよりも、その後この土地が、会津藩士の山本覚馬のものとなった方が驚きです。
山本覚馬で私が知っていることは、「失明」されたというぐらいでしょうか。

山本覚馬は、会津藩士。京都府顧問。
生家は砲術師範でした。
嘉永6年江戸に出て洋式兵学を修業し、勝海舟や西周ら進歩的幕臣と交際していました。
安政3年会津に帰り、軍事取調兼大砲頭取役として藩の軍制改革にあたりました。

元治元年2月に京都に出ました。
同年3月に将軍家茂の招請で上洛した佐久間象山の世話をしていました。
同年7月に象山が暗殺された後、
壬生の新選組屯所に近藤勇を訪ね、象山の遺児恪二郎の仇討について協力を求めています。
恪二郎は新選組に入隊し、名を三浦啓之助と改めています。

京都守護職松平容保に従い働く傍ら洋学塾を開いていました。

また、坂本龍馬が暗殺された慶応3年11月15日の夜は、同藩の永岡権之助・清治父子とともに
近藤勇を訪ね、醒ヶ井通の近藤の妾宅で深夜まで、酒を飲み歓談していました。

鳥羽・伏見の戦いに出陣して薩摩軍に捕われ、京都で入牢、兵部省の預かりとなっていましたが、小松帯刀らに提出した『管見』がきっかけとなって京都府勧業御用掛となりました。明治2年のことでした。
戦場で失明していましたが、初代知事の槙村正直や明石博高を助け、プロシャ人レーマン兄弟を技術顧問に招いて、種々の近代工業の創立に功績がありました。

京都府議会初代議長、商工会議所会長をつとめ、また新島襄と(夫人が覚馬の妹)の同志社英学校創立をしました。
同志社の臨時総長を務めたこともあります。

墓は京都府京都市左京区の若王子山上。享年65歳。
幕末維新人名事典&新選組大事典より


山本覚馬の略歴をみると、薩摩軍に捕われています。
その時に小松帯刀にその才を見出されているようですので、元会津藩士でも薩摩藩邸跡の土地を譲り受けることが出来たようです。

そして近藤勇とは何度も会っているのですね。
近藤の醒ヶ井の妾宅に招いたりと、わりと深く関わっていたようです。
土方歳三とはどうだったのでしょう?
会津藩士と土方歳三なら、生理的に受け付けない場合を除いて、それなりにお付き合いしてそうですよね。
私が知らないだけか、山本覚馬が残した近藤勇、土方歳三、新選組についての評を聞いたことがないはず…、何も語らずなのでしょうか。
多方面に活躍した人なので、山本覚馬が記録に残してくれていたら、詳細にいろいろなことを記していてくれそうなのに。

お墓には行った事がないのですが、哲学の道の近くの若王子神社から山を登るようです。
地図で見る限り、本当に山の中にあるように思うのですが…。
今も京都を見渡しているのでしょうか?


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大黒寺

2009年01月29日
大黒寺(京都府京都市伏見区鷹匠町西側)には、九烈士の墓があります。
大黒寺1401  大黒寺2402

大黒寺3403
  伏見寺田屋騒動九烈士墓

大黒寺は円通山と号し、真言宗の寺で初めは長福寺といいました。

元和元年、伏見奉行山口駿河守が、薩摩藩主島津侯の懇望で、同藩の武運長久の祈願所となし、本尊の大黒天にちなんで大黒寺と改めました。
一般には薩摩寺と呼ばれました。

境内・墓地には、寺田屋騒動で死んだ有馬新七ら九烈士の墓、宝暦年間、幕命で薩摩藩が行った木曾川改修工事の多大な出費の責任を負って自刃した家老平田靱負の墓、天明の伏見義民の遺髪塔などがあります。
写真でみる維新の京都より


京阪電鉄か近畿日本鉄道丹波橋駅から西へ約400m、伏見中学校の手前を南に曲がると、すぐの所に大黒寺があります。
門を入ると本堂が見えます、その脇を奥に入ると墓地があり、お墓が横に並んでいます。

旧写真でみた墓石は、長い月日を感じさせるものでしたが、墓碑銘の石は綺麗になっていました。
台座と墓碑銘石の色が余りにも違い、違和感を感じてしまいました。
墓碑銘(復元)は西郷隆盛の筆だそうです。
傷んだ墓石をそのままにして、朽ち果ててしまっても困るので、こればかりは仕方がない事なのでしょう。
古い墓石はどこかに保存されていると嬉しいです。

私が訪れた時は、お参りに来られる人はいませんでしたが、去年NHK大河ドラマ「篤姫」で薩摩がスポットを浴びました。
有馬新七を的場浩司氏、橋口壮介を石川賢三氏が演じられたことによって、お参りに訪れる人も増えているのでしょうか?
今まで静かに眠っていたのに、急に訪れる人が多くなて驚いているのではないでしょうか?
彼らにすれば、静かに眠っているのが嬉しいのか、多くの人に自分達のやったことを知ってもらえるのが嬉しいのか…。一度聞いてみたいものです。

これはあくまでも噂ですが、寺田屋に泊まると聞こえるという武士の声は、彼らが戦っていた時の声ってことですよね?

大黒寺に眠る志士達を紹介したいと思います。


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