新選組を中心に歴史の舞台を巡ります
即宗院−東福寺塔頭 壱
2008年12月21日 (日) | 編集 |
見たくても見られない田中新兵衛のお墓のある、即宗院(京都府京都市東山区本町15丁目)です。
即就院1

即就院3  即就院2
「西郷隆盛密議の地」
清水寺成就院の僧月照は勤王として活躍し、和歌のつながりで近衛家に出入りして、尊王志士と交わり西郷と志を一とした。
安政5年、井伊直弼は尊王攘夷運動に対して大弾圧を行った。
この頃水戸藩への朝廷密使事件があり、西郷は京都で井伊打倒の秘策を進めていた。
この時、僧月照と西郷は、当即宗院山中採薪亭にて密議を重ねた、当時東山三十六峰慧日山山麓は山深く狐狸が遊ぶ地でありました。
その後、月照と西郷は京を離れ西進、薩摩へ逃れ、だが月照は失意の中錦江湾に身を投じた。
西郷は大島へ流された。
右側の説明板より

即就院4
     鹿児島藩招魂碑

即就院5
  東征戦亡之碑

東福寺山内東北の地にある即宗院は、嘉慶元年島津氏の建立になります。
境内東端山上には、鹿児島藩招魂碑(東征戦亡之碑)があり、並び立つ5基の碑には、戊辰戦で亡くなった薩藩士524名の所属・肩書・氏名が刻まれています。

墓地には、中井弘(桜洲)、田中雄平(新兵衛)、奈良原喜左衛門な墓など、薩藩士の墓が林立しています。
即宗院は拝観謝絶で、墓石等の公開は許可されていません。

田中新兵衛は、薩摩藩士です。
開明佐幕派の天誅暗殺に活躍しましたが、姉小路公知暗殺の嫌疑を受け自殺しました。
名を雄平といいます。
商人あるいは船頭の息子の二説があり、出自は確認できません。
しかし大商人森山新蔵の庇護を受け、藩士の家来になりました。
示現流の達人として恐怖かつ尊敬されていました。

文久2年の島津久光上洛には、軽輩であるため随行できず、自費で上京しました。
寺田屋事件は終わっており失望しましたが、以後京都に滞在しました。

安政大獄の志士の逮捕の手先となった、島田左近、宇郷玄蕃頭、本間精一郎などの暗殺に関与しました。
「暗殺の隊長」の異名がありました。

文久3年5月20日、姉小路暗殺犯人として捕縛、京都西町奉行所での取調べでは、嫌疑を否定しましたが、証拠の刀を示されると、奪い取って切腹しました。
姉小路は即死でなかったことから、人斬り新兵衛とよばれる田中が暗殺に失敗し、まして刀を落とすのは考えにくく、無実説が強いそうです。

奈良原喜左衛門は、薩摩藩士です。
喜八郎の兄。
島津斉彬の命を受けて江戸に出ました。同藩の堀仲左衛門(伊地知貞馨)、有村俊斎(海江田信義)、越前の橋本左内らと組んで、一橋慶喜を将軍継嗣とする運動に奔走していました。
しかし井伊直弼のため運動が挫折して帰国しました。

安政6年11月、弟喜八郎とともに精忠組48人に加わり尊攘運動の新しい方向を進めていきました。
文久2年島津久光に従って上京しました。
久光より先に大坂に出た西郷隆盛に大久保利通、有村俊斎らとともに会見、伏見義挙に関する意見の相違について調整をはかりました。
この間、有馬新七をはじめとする伏見義挙派は大坂から伏見に続々と集まっていました。
これを知った久光は、奈良原と有村に鎮撫を命じ、2人は京都藩邸から淀川堤を下って大坂へ向かいましたが、大坂藩邸には誰もいず、伏見寺田屋に引き返した時には惨劇は終わっていました。

久光一行が勅使護衛の役を果たして江戸からの帰途、8月21日、生麦村で行列の前を横切った乗馬のイギリス人4人があり、奈良原兄弟と有村が斬りつけ、リチャードソンを殺しました。
薩摩藩は幕府と打ち合わせ、犯人は岡野新助という足軽だが、逃亡して行方不明と形式上の始末をつけました。
しかしイギリスは納得せず、謝罪と償金を要求して、文久3年7月に艦隊を鹿児島に送ってきました。
薩摩は要求を拒否して抗戦しましたが、奈良原兄弟はイギリス軍艦乗っ取り計画をたて、果物売りに化けて乗艦は出来ましたが、将官には近づけず、計画は失敗しました。

翌元治元年には京都に出、禁門の変で戦って長州を敗退させました。

※中井弘(桜洲)は、2008年6月12日 中井弘寓居跡を参照して下さい。
写真でみる維新の京都&幕末維新人名事典より

1度目の即宗院は中に入れませんでした。
例年11月に特別公開があるというので、11月に再び訪れました。
墓地へは行けませんが、鹿児島藩招魂碑は見ることができました。
それが、上記の4枚目の写真です。

この招魂碑に行く途中に、西郷隆盛密議の地という場所がありました。
当時は、建物があったのでしょうが、今は竹林でした。
地面に筵でも敷いて密議したのかと思ってしまいました。
周囲も今ほど開けていなかったので、密議するには良かったのでしょう。
しかし月照は清水寺成就院の僧です、宗派など大丈夫だったのでしょうか?
特にこだわりはないのか?
密議した記録があるのですから、大丈夫だったのでしょう。

鹿児島藩招魂碑は、長く風雨に晒された為でしょうか、鉄枠で補強されていました。
こいう碑が5基並んでいます。(写真は3基しか写っていません。)
アップで撮ったものには、名前が半分程度読めます。
表面に4〜5段、名前などが刻まれています。
上部ほど痛みが激しいようで、読み難くなっています。

私の一番見たかったものは、墓地だったのですが、こちらは特別公開でも公開はしていませんでした。残念。
田中新兵衛のお墓を拝見したいです。
写真で見たことはあります。それでも出来れば実際に見てみたいです。
写真では、墓石には「田中雄平墓」と刻まれています。
“新兵衛”ではなく“雄平”なのですね。
新兵衛の方が、幕末を強く感じます。

もちろんお寺で大事に供養されているのはわかります。
それでもお参りにく来る人がいないのは、寂しいことではないのでしょうか?
その家の方はもちろん来られるでしょうが、そうひっきりなしに来られることはないでしょう。
薩摩藩というのは、鹿児島ですからね。
普段はし〜んと、静寂がただよっているのは、このお墓の下で眠る人々にとっては、静かでいいのか、寂しいと思うのか、どちらの思いが強いのでしょう。

確認した話ではありませんが、昔、沖田総司の墓が見たい(年に1度しかお参りできません)と行って、テレビに投書してヘリコプターを飛ばして上から見たという話を聞きました。
もし、そんな事が可能なら、私もヘリコプターを飛ばしてもらって、田中新兵衛のお墓を上空からでもいいので見てみたいものです。
“探偵ナ○イトス○ー○”にでも依頼したら、採用してくれるかな?(笑)
大久保利通旧邸跡
2008年11月08日 (土) | 編集 |
大久保利通旧邸跡(京都府京都市上京区石薬師通寺町東入ル南側)が京都御所の近くにあります。
大久保利通邸跡
大久保利通は、鹿児島藩士で大久保一蔵といいました。
西郷隆盛より3歳下で、親交がありました。

当初公武合体派でしたが、次第に討幕派となり、薩長連合の成った慶応2年正月以来、ここに居を構えて岩倉具視らと倒幕の策を練りました。

慶応4年6月、ここを引き払いました。

新政府の下、参与・参議となり、東京奠都、版籍奉還、廃藩置県等の改革を行いました。
明治11年5月14日、東京の紀尾井坂で暗殺されました。
写真でみる維新の京都より

※大久保利通については、2008年5月22日 青山霊園 大久保利通墓にも書いています。

京都御所 石薬師御門から出て、京極小学校の前を通り、寺町通を渡ります。道が若干南にずれていますが、その石薬師通を40mほど行くと、ポツンと碑が建っています。
塀の角に石碑だけが建っているので、見落とさないようにして下さい。

民家の塀の角、お隣の家の勝手口の横に建っているので、写真を撮るのには注意しました。
碑だけだと、回りの環境がわかりませんし、引きすぎると家が写ってしまいます。
素人ではこれが精一杯でした。

大久保利通の旧邸は、御所の石薬師門から100mちょっとです。
思いっ切りはしれば、30秒ほどで着きそうです。
やはり岩倉具視らと倒幕の策を練るために、近い場所を探したのでしょうか。


図説 西郷隆盛と大久保利通 (ふくろうの本)図説 西郷隆盛と大久保利通 (ふくろうの本)
(2004/02/04)
芳 即正

商品詳細を見る
薩藩都城六勇士の墓
2008年10月17日 (金) | 編集 |
薩藩都城六勇士墓(京都府京都市南区唐橋井園町、狐塚墓地)があります。
薩藩都城六勇士・狐塚墓地1

薩藩都城六勇士・狐塚墓地2  薩藩都城六勇士・狐塚墓地3
八条通りを東寺裏から西へ六孫王神社を経て、さらに新幹線ガード沿いに200m程行くと、左側に西寺所管の墓地があります。

墓地の中央やや手前西寄りに東面して、顕彰碑と阿刀氏の墓に並んで都城六勇士、
内藤将左衛門、大峰壮之助、安藤惣兵衛、野辺納右衛門、坂本与八郎、横山藤助の墓があります。

慶応3年12月21日夜、伏見方面への偵察行動を卑怯扱いされ、謂れなき恥と揃って26日に切腹しました。
宿谷の阿刀慶増氏は彼らに同情して自殺しかけるが、のち墓碑建立に尽力しました。
写真でみる維新の京都より

新選組を中心に幕末を見ていると、この都城六勇士という人達は出てきません。
全く知りませんでした。
「写真でみる維新の京都」という書籍を参考に、史跡巡りをしていたので知りました。

地図と参考資料を持って、ウロウロするのが大好きなので、“幕末維新関係”ということで行って見ることにしました。
私はJR京都から、線路沿いにずっと歩きましたが、JR東海道本線(京都線)の西大路駅からの方が距離的には近いです。(京都駅だと普通・快速・新快速何でも止まるので便利かも)

JR京都駅南側を西に歩き始め、壬生通を過ぎた頃から雰囲気が変わりました。
京都の華やかな感じではなく、下町っぽい感じでした。
地元の人以外は歩きにくい感じというのでしょうか。人通りも少なくて…。

歩いて、歩いて、墓地らしい塀が見えて来ました。
墓地の入り口にそれを示した石柱がありました。
中に入ると、古いお墓も多くて、墓地らしい墓地とでもいうのかな、肝試しをしたら怖そうな雰囲気でした。
六勇士の墓はすぐにわかりました。

六勇士のお墓自体が古く、表面が剥げ落ちているものもありました。
一人一人のプロフィールが分からないのですが、この人達も幕末を生きた人達なのです。
都城の人なのに、故郷に帰る事も出来ず、ここで眠ることになったのかと思うと、どんな思いで眠っているのかなと、すこし寂しく思えてきました。
土方歳三は遺体さえ、何処にあるのかわからないのですから、それの方が淋しいことなのかもしれません。
それでもこちらの六勇士の方が、物悲しく感じてしまいました。
何故でしょう。


会津藩VS薩摩藩 (ベスト新書 185)会津藩VS薩摩藩 (ベスト新書 185)
(2008/07/09)
星 亮一

商品詳細を見る
中村半次郎寓居跡
2008年05月31日 (土) | 編集 |
浮蓮亭から高瀬川沿いに、北に向かって進んで行きたいと思います。

四条小橋の東側に中村半次郎(桐野利秋)寓居跡(京都市中京区四条通小橋東詰)があります。
中村半次郎寓居跡
中村半次郎は薩摩藩士です。
示現流の達人で“人斬り半次郎”と呼ばれていました。
島津久光の供をして上京してきました。
四条小橋東詰の煙管屋田村の娘おさとと仲好くなり、禁門の変後は同家に潜伏し、長州の桂小五郎などと密議をしたそうです。

維新後は陸軍の幹部になりましたが、西郷隆盛の下野にともない官職を棄てて、鹿児島に帰りました。
明治10年9月、西郷に殉じました。
写真で見る維新の京都より


四条小橋から数m?
2軒目が寓居跡になります。
特に碑が建てられているわけでもありませんので、写真を撮るにはちょっと勇気がいりました。

私個人的には、
桐野利秋よりも、中村半次郎。
木戸孝允よりも、桂小五郎。
井上馨よりも、井上聞多。
維新後の名前より、幕末当時の名前の方が好きですね。
若々しさを感じる?仰々しくない?響きが好き?
私の中で、どれもが微妙に交じり合っているのでしょうね、きっと。

中村半次郎の写真をみると、意外と男前!?