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2009年 総司忌 最新情報

2009年05月18日
総司忌の日にち変更を教えていただきました。

6月27日(土)です。
その他には変更はないようです。




あさぎ様
この場を借りて御礼申し上げます。
ありがとうございました。
またご教授いただけますよう、お願い致します。
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2009年 総司忌

2009年05月15日
2009年の総司忌 ※変更あり

日 時 平成21年6月27日 午前11時より焼香。 (日にちが変更されています。)
場 所 専称寺(港区元麻布・地下鉄六本木駅、旧テレビ朝日の裏)

    午後1時30分から、国学院大学院友会館にて講演。
講 師 伊東成郎氏(歴史作家)
     『幕末新選組こぼればなし』(仮)

≪申し込み≫会費 2,000円(含・記念品)
       総司忌に参加する事を明記して、定額小為替にて、新人物往来社に申し込んでください。

という記事がありました。

※絶対に専称寺には問い合わせないで下さい。
 問い合わせがあった場合、来年の総司忌がなくなってしまいます。

東京タワー

2009年03月28日
東京タワー(東京都港区芝公園四丁目2-8)です。
東京タワー137
正式名称は建築主に因み「日本電波塔」です。

放送事業の将来性に着目した前田久吉と鹿内信隆によって計画されました。
当時、相次いで開局する各放送局の電波塔を一本化しようという構想でした。
塔はフランス・パリのエッフェル塔の324mより8.6m高く、当時の自立式鉄塔としては世界最高でした。エッフェル塔をこすためにこの高さになりました。
前田は「建設するからには世界一高い塔でなければ意味がない。科学技術が進展した今なら必ずできる」と高さの意義を強く主張しました。
本来東京全域に電波を送るには380mの高さを必要とされていたが、風の影響でアンテナが揺れ画像が乱れる可能性があったため、影響を受けないぎりぎりの寸法として全高333mと「3」が続く語呂合わせのような高さになりました。

「東京タワー」の名称は完成直前に開かれた審査会で決定しました。
事前に名称を公募し、最終的には86,260通の応募が寄せられました。
一番多かった名称は「昭和塔」で、続いて「日本塔」「平和塔」でした。他には当時アメリカとソ連が人工衛星の打ち上げ競争をしていたことから「宇宙塔」、皇太子明仁親王(今上天皇)の成婚が近いということで「プリンス塔」という応募名称もありました。
しかし名称の査会に参加した徳川夢声が「ピタリと表しているのは「東京タワー」を置いて他にありませんな」と推挙し、その結果「東京タワー」に決定しました。
「東京タワー」での応募は223通(全体の0.26%)だった。

昭和32年6月29日に増上寺の墓地を一部取り壊して建設が開始されました。
Wikipediaより


都営地下鉄大江戸線赤羽橋駅を出て、北へ歩きます。
東京タワーですから遠くからでも見えますよね。
迷う事はないと思うのですが。

東京近郊の人は東京タワーにわざわざ登らないんですよね?
関西の私が通天閣に登らないように。
(大人になってから、1度だけ登ってみました。)

東京タワーはやはり高いですね。
東京全体の雰囲気を見るにはやはり高い所はいいですね。
高いところ好きですし。
通天閣も負けじと、700mぐらいの塔に建て替えてみてはどうでしょう?
でもあの形であの広告だからこそ通天閣なんでしょうね。
って負け惜しみ?!

しかしもうすぐ、新東京タワー(東京スカイツリー)が出来てしまうのですね。


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通天閣
東京スカイツリー

池上本門寺墓地-参考

2009年03月25日
池上本門寺墓地(東京都大田区池上本門寺池上1丁目1-1)の幕末関係のお墓です。

阿部正蔵の墓(朗子会館裏手側) 江戸北町奉行。白河藩五代目藩主阿部正定と、七代目藩主阿部正外の実父。北町奉行遠山左衛門尉景元の後任。
嘉永元年8月7日死去。墓碑には生年もなく、過去帳も焼失しているため年齢は不明。
現在、五重塔のそばに阿部一族の墓がまとめられています。

大村藩士の合葬碑(西条藩松平家墓地隣接) 以前は西条藩松平家墓地と隣接して、大村藩関係者の墓が一画を占めていましたが、戦後、青山霊園などに改葬され、昭和39年秋には菩提寺の長崎県大村本経寺にほとんどの墓碑が移されました。
そのため、土台の部分に大村藩士の名前を刻んだ「大村家旧藩士之墓」という合葬碑が建てられました。
その中には、
針尾志馬山口茂助(明治元年9月15日東京で歿)の名前があります。
墓域内には、藩主大村純凞の嗣子の
純雄の墓も残されています。

岡本柳之助の墓(五重塔より松平家墓地に続く参道沿い) 和歌山藩士。明治45年5月14日、上海の豊陽館において客死しました。享年61歳。

河上彦斎の墓(細川家墓地) 熊本藩士。佐久間象山を暗殺。維新後も攘夷思想を持ち続けた為、明治4年12月3日東京市谷監獄において処刑。享年38歳。
最初、妙解院の白雲奄(品川区東海寺少林院)に葬られましたが、のちこの場所に改葬され、昭和2年に慰霊碑が建てられました。

竹本正雅の墓(善国寺墓地) 幕臣。明治元年10月7日死去。享年43歳。最初、新宿区の善国寺に葬られましたが、明治9年頃この場所に改葬されました。

十九貞衛の墓(承教寺墓地) 大村藩士。無声隊参謀。東京において明治25年12月2日死去。享年63歳。

野口之布の墓(法養寺墓地付近) 加賀藩家老。高杉晋作らと交わりました。加賀藩勤王党の先駆け。明治31年3月22日死去。享年69歳。

花房義質の墓(五重塔より松平家墓地に続く参道沿い) 岡山藩士。適塾に入門。東京市芝区白金台町2-9の自宅で、心臓麻痺のため大正6年7月9日死去。享年76歳。

松平頼学の墓(西条藩松平家墓地) 西条藩9代目藩主。慶応元年8月14日死去。享年58歳。

松平頼英の墓(西条藩松平家墓地) 西条藩10代目藩主。東京市麻布区飯倉片町の自宅で、明治38年12月3日死去。享年63歳。
幕末維新江戸東京史跡事典より


都営浅草線西馬込駅から国道1号を南へ500m行くと、本門寺入口交差点です。
そこから本門寺へと入ります。

私はまだお参りした事がないのですが、河上彦斎のお墓にお参りしたいです。


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池上本門寺

染井霊園-参考

2009年03月23日
染井霊園(東京都豊島区駒込5-5・7-2~4)の幕末関係のお墓です。
染井霊園は明治5年11月に開かれました。
もと播州林田藩建部家と津藩藤堂家の屋敷跡です。

私はまだお参りする機会がないのですが、参考に書き出しておきます。

井上正直の墓(1種イ8号6側) 遠江浜松藩藩主。文久・慶応年間に老中を務めました。明治37年死去。享年68歳。正三位。子爵。

井上正順の墓(1種イ7号6側) 下総高岡藩藩主。明治37年1月6日死去。享年51歳。

小河一敏の墓(1種ロ1号4側) 豊後岡藩士。東京深川の自宅で明治19年1月30日病死。享年74歳。正五位。勲五等。

酒井忠績の墓(1種イ4号16側) 姫路藩藩主。文久3年に老中上座、慶応元年に大老。明治28年11月30日死去。享年69歳。墓の左側に顕彰碑が建っています。

酒井忠惇の墓(1種イ4号8側) 姫路藩藩主。慶応3年老中上座。姫路城は無血開城。明治40年11月10日死去。享年69歳。

宍戸璣の墓(1種イ3号1側) 長州藩士。吉田松陰の兵学門下生。明治34年10月1日死去。享年73歳。子爵。

下岡蓮杖の墓(1種ロ6号5側) 写真師。慶応3年横浜弁天町に写真館を開業。大正3年3月3日死去。享年92歳。

坪井信良の墓(1種イ8号6側) 医師。福井藩主松平慶永に招かれ、藩侍医および教授。安政4年、将軍の奥医師となり、家定、慶喜に侍しました。明治37年11月9日死去。享年82歳。

藤堂高猷の墓(1種ロ4号8~12側) 津藩藩主。明治28年2月9日死去。享年83歳。
津藩下屋敷は現在の駒込4、5丁目、巣鴨2丁目と文京区駒込6丁目の一部にありました。染井霊園もその中に含まれています。

徳川昭武の墓(1種イ5号14側) 水戸藩藩主。徳川斉昭の18男。徳川慶喜が実兄。本所の屋敷で明治43年7月3日死去。享年58歳。
茨城県常陸太田市の瑞龍山に埋葬されました。


戸田光則の墓(1種イ2号9側) 信濃松本藩藩主。明治25年死去。享年65歳。

土方久元の墓(1種ロ6号12側) 土佐藩士。楠左衛門。土佐勤王党。七卿と長州に落ちました。大正7年11月4日死去。享年86歳。伯爵。従一位。勲一等。墓所は正面に「奏山堂」と彫られた石室です。

福岡孝弟の墓(1種イ8号3側) 土佐藩士。吉田東洋門下生。新おこぜ組を結成。大正8年3月5日死去。享年85歳。子爵。従一位。勲一等。

松平定敬の墓(1種イ4号2側) 桑名藩藩主。京都所司代。京都守護職松平容保は実兄。明治41年7月21日死去。享年63歳。
染井霊園開設には、定敬の高祖、松平定信が始めた積立金も使われました。

松浦詮の墓(1種ロ4号) 肥前平戸藩藩主。明治41年4月13日病没。享年69歳。広い墓域中央の土饅頭型の墓です。

山脇十左衛門・隼太郎の墓(1種イ4号19側15番) 桑名藩士。十左衛門の長男が隼太郎。
十左衛門は明治11年8月26日死去。享年59歳。墓碑には山脅臥雲とあります。
隼太郎は明治38年5月6日死去。享年57歳。
幕末維新江戸東京史跡事典より


都営三田線巣鴨駅を降りると、国道17号を板橋(北、とげぬき地蔵)方面へ歩きます。
約250mで東側に染井霊園が見えてきます。

染井霊園の幕末関係のお墓には、藩主が多いですね。
藩邸跡に造られたということも関係しているのでしょうか。


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監修・八幡和郎

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