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青山霊園-補遺

2009年03月22日
青山霊園(東京都港区南青山2丁目32-2)の幕末関係のお墓です。
これで全部かはわかりませんが、お参りの参考にして下さい。
氏名のみです。

秋月悌次郎の墓(1種ロ12号22側) 会津藩士。明治33年1月5日死去。享年77歳。

有地品之允の墓(1種イ6号6側) 長州藩士。精銃隊を組織。大正8年1月17日死去。享年77歳。「有地家之墓」に合葬。

有村次左衛門の墓(1種ロ12号7/10側) 薩摩藩士。桜田門外で大老井伊直弼の首級をあげました。井伊の首を前に自決。安政7年3月3日自決。享年23歳。有村家墓域内に墓碑があります。
※2008年5月23日を参照してください。

有村雄助の墓(1種ロ12号7/10側) 薩摩藩士。海江田信義の弟、有村次左衛門の兄。桜田門外の変には参加していませんが、藩重役は後難を恐れて捕縛。国元へ送られた当日の安政7年3月23日に、大久保利通や精忠組の助命歎願がありましたが、即日切腹させられました。享年28歳。
「有村家之墓」に合葬。


安藤太郎の墓(1種イ20号3側) 旧幕艦回天乗務員。大正13年10月27日死去。享年79歳。

伊地知正治の墓(1種イ9号22/23側) 薩摩藩士。若松城を降伏させました。明治19年5月23日死去。享年59歳。

稲葉正邦の墓(1種イ13号28側) 淀藩主。京都所司代から老中に。明治31年7月15日死去。享年65歳。稲葉家の墓に合葬され、墓誌に名前があります。

馬屋原彰の墓(1種ロ20号14側) 長州藩士。選鋒隊士。大正8年1月8日死去。享年76歳。

大江卓の墓(1種イ13号24側) 土佐藩士。坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された後、京都で陸援隊に加入。紀州藩士三浦休太郎を天満屋で襲い、新選組と戦いました。
大正10年9月12日死去。享年75歳。「大江家累代之墓」に合葬され、墓誌に名前があります。


大久保忠尚の墓(1種イ1号22側) 遠江国の淡海国玉神社神官。報国隊を組織。明治13年6月18日死去。享年56歳。合葬墓ですが、墓誌に名前があります。

大久保利通の墓(1種イ2号15/17側) 薩摩藩士。明治11年5月14日、東京紀尾井坂で暗殺されました。享年49歳。
※2008年5月22日を参照して下さい。

大鳥圭介の墓(1種イ1号2/3側) 幕臣。明治44年6月15日死去。享年79歳。

大村純煕の墓(1種イ4号27側) 大村藩主。明治15年1月12日死去。享年53歳。

沖剛介の墓(1種イ10号1側) 鳥取藩士。元治元年9月5日、長州征伐に出兵を説く藩大目付堀庄次郎を増井熊太とともに暗殺。11日に切腹。享年22歳。

尾崎三良の墓(1種イ4号22/24側) 三条家家士。戸田雅楽。七卿落ちで長州へ。大正7年10月13日死去。享年77歳。

落合直亮の墓(1種イ13号3側) 国学者。益満休之助に応じて三田の薩摩藩邸に入り、浪士たち数百名と一隊を組織し、相楽総三を総裁として、みずからは副総裁となりました。
明治27年12月11日死去。享年68歳。


小野権之丞の墓(2種イ13号9/15側) 会津藩士。公用人として新選組とも交流がありました。会津戦争では次席家老として戦いました。明治22年4月2日死去。享年72歳。

小柳津要人の墓(1種イ18号4側) 岡崎藩士。沼津で伊庭八郎らの旧幕遊撃隊に投じました。
大正11年6月21日死去。享年79歳。小柳津・富沢両家の墓に合葬され、側面に名前が刻まれています。


海江田信義の墓(1種ロ12号7/10側) 薩摩藩士。桜田門外の変の有村雄助・次左衛門兄弟の長兄。生麦事件では、リチャードソンにとどめを刺しました。明治39年10月27日死去。享年75歳。「海江田之墓」に合葬。

香川敬三の墓(1種イ4号25側) 常陸国出身。流山で近藤勇を投降させています。大正4年3月18日死去。享年77歳。

加納鷲雄の墓(1種イ21号15側) 新選組隊士。御陵衛士。赤報隊や薩摩軍にも属しました。大久保大和として流山で投降した近藤勇の正体を見破っています。明治35年10月27日死去。享年64歳。

川路利良の墓(1種イ4号1/4側) 薩摩藩士。明治12年10月13日、欧州から帰国の船中で発病し死去。享年46歳。

木村喜毅の墓(1種イ20号4側) 幕臣。咸臨丸の遣米使節の責任者。明治34年12月9日死去。享年72歳。

黒田清隆の墓(1種イ1号1/10側) 薩摩藩士。榎本武揚の助命に尽力。明治33年8月23日死去。享年61歳。

黒田長知の墓(1種イ4号13/17側) 福岡藩主。明治35年1月7日死去。享年65歳。

黒田長溥の墓(1種イ4号13/17側) 福岡藩主。明治20年3月7日死去。享年77歳。

河野敏鎌の墓(1種イ11号10/11側) 土佐藩士。万寿弥。土佐勤王党。明治28年4月24日死去。享年52歳。

神山郡廉の墓(1種イ11号4側) 土佐藩士。左多衛。明治42年8月20日死去。享年81歳。

後藤象二郎の墓(1種イ13号24側) 土佐藩士。土佐勤王党を弾圧。明治30年8月4日死去。享年60歳。墓碑裏面に俗名が刻まれています。
※2008年5月25日を参照してください。

斎藤利行の墓(1種イ1号34側) 土佐藩士。渡辺弥久馬。明治14年5月26日死去。享年60歳。

酒井孫八郎の墓(1種イ16号3側) 桑名藩士。鳥羽伏見の戦いの時、国元で家老として開城に尽力しました。明治12年4月15日死去。享年35歳。「酒井家之墓」に合葬。

相楽総三の墓(1種ロ3号34側 立山墓地) 赤報隊隊長。慶応3年3月3日、下諏訪において同志7名と斬首。享年29歳。墓碑正面に戒名「天忠院教誉道順居士」、側面に「小嶋将満墓」と刻まれています。
※2008年5月27日を参照してください。

佐々木高行の墓(1種イ21号8側) 土佐藩士。明治43年3月2日死去。享年81歳。
※2008年5月26日を参照してください。

佐藤政養の墓(1種イ1号8側) 幕臣。勝海舟門人。明治10年8月2日死去。享年57歳。

沢太郎左衛門の墓(1種イ1号25側) 幕臣。鳥羽・伏見の戦いの時、開陽丸副艦長として、将軍慶喜を東帰させました。明治31年5月9日死去。享年65歳。

四条隆平の墓(1種ロ17号7側) 公家。四条隆謌の弟で高謌の養子。明治44年7月18日死去。享年71歳。

篠原泰之進の墓(2種イ12号3側) 新選組隊士。秦林親。御陵衛士。近藤勇を狙撃して重傷を負わせました。赤報隊に加わりました。明治44年6月13日死去。享年84歳。
※2008年5月24日を参照してください。

島本審次郎の墓(1種ロ3号5側 立山墓地) 土佐藩士。土佐勤王党。明治25年12月死去。享年60歳。死亡日未詳。

白峰駿馬の墓(1種ロ5号8側) 海援隊士。明治42年4月1日死去。享年74歳。墓碑は戒名ですが、俗名を刻んだ石碑が傍らに建てられています。
※2008年5月21日を参照してください。

杉孫七郎の墓(1種ロ3号5側 立山墓地) 長州藩士。大正9年5月3日死去。享年86歳。

周布政之助の墓(1種イ1号38側) 長州藩士。元治元年9月26日自刃。享年42歳。「周布家之墓」に合葬され、墓誌に名前が刻まれています。

尺振八の墓(1種イ4号1側 立山墓地) 幕臣。旧幕遊撃隊の伊庭八郎を一面識もなく自宅に匿いました。明治19年11月28日死去。享年48歳。

関義臣の墓(1種ロ17号10側) 海援隊士。大正7年3月30日死去。享年80歳。

副島種臣の墓(1種イ21号1側) 佐賀藩士。明治38年1月31日死去。享年78歳。

高崎正風の墓(2種イ17号1/6側) 薩摩藩士。明治45年2月28日死去。享年77歳。

立花種恭の墓(1種イ1号1側 立山墓地) 下手渡藩主。明治38年1月30日死去。享年70歳。

立見尚文の墓(1種イ1号5側 立山墓地) 桑名藩士。鑑三郎。倉田巴。土方歳三のもとで軍監となり、下妻陣屋、下館城を降伏させ、宇都宮城を攻略しました。明治40年3月7日死去。享年63歳。

田辺太一の墓(1種ロ8号16/17側) 幕臣。パリ万博に公使館書記官として渡仏。大正4年9月16日死去。享年85歳。「田辺家之墓」に合葬。

デュ・ブスケの墓(1種イ1号1/4側) フランス軍歩兵中尉。江戸で幕軍に歩兵訓練を行いました。明治14年5月18日死去。享年45歳。墓碑には「治部輔」と漢字をあてた名前が刻まれています。

外島機兵衛の墓(2種イ3号1/9側) 会津藩士。鳥羽・伏見の戦に敗戦後、紀州に落ちた藩士を海路で送還させるために尽力し、自身は陸路を戻りました。しかし心労のため慶応4年3月7日死去。享年43歳。
遺体は港区の青松寺に埋葬され、墓碑も建立されましたが現存しません。同寺より移転されたものと思われます。「外島家之墓」とある墓碑の側面に名前が刻まれています。

中牟田倉之助の墓(1種イ7号17/18側) 佐賀藩士。戊辰戦争では孟春丸艦長、箱館戦争では朝陽丸の艦長。大正5年3月30日死去。享年80歳。墓碑には「徳雄院殿一応道貫大居士」と戒名が刻まれています。
南部展衛の墓(1種イ21号6側) 土佐藩士。土佐勤王党。七卿と長州に落ちました。大正11年9月2日死去。享年79歳。

西川理三郎の墓(2種イ13号1/8側) 芸州藩士。応変隊隊長格。東京在住中の明治4年、火災にあって負傷し、11月10日病死。享年50歳。

西山志澄の墓(1種ロ14号9側) 土佐藩士。土佐勤王党。坂本龍馬のかつての恋人、平尾加尾を妻としています。土佐迅衝隊。明治44年5月27日死去。享年70歳。墓誌には加尾の名前も刻まれています。

二本松藩戦死者の慰霊碑(1種ロ7号14/15側) 戊辰戦争における二本松藩士の戦死者の慰霊。
「二本松藩士戦死者慰霊塔」と「武将戦死者慰霊塔」が、藩主丹羽長国の墓域内にあります。
二本松藩の戦死者は337名の名前があげられています。


丹羽長国の墓(1種ロ7号14/15側) 二本松藩主。水戸天狗党の鎮圧に出兵。明治37年1月15日死去。享年71歳。「丹羽家之墓」に合葬。

丹羽正庸の墓(1種ロ2号3側) 三条家諸大夫。三条実万・実美父子につかえました。明治15年8月4日死去。享年61歳。

野津鎮雄の墓(1種イ1号9側) 薩摩藩士。明治13年7月22日病死。享年46歳。「野津家之墓」に合葬され、墓誌に名前が刻まれています。

野津道貫の墓(1種イ1号26/27側) 薩摩藩士。野津鎮雄の弟。明治41年10月19日死去。享年68歳。「野津家之墓」に合葬され、墓誌に名前があります。

野村辰太郎の墓(1種イ7号1/9側) 海援隊士。大極丸の船長。海援隊解散後、振遠隊の幹部。明治36年5月7日死去。享年60歳。

橋本実梁の墓(1種イ5号20側) 公家。江戸城開城には勅使として徳川家処分の朝旨を伝えました。明治18年9月16日死去。享年52歳。「橋本家之墓」に合葬され、墓誌に名前があります。

林謙三の墓(1種イ4号25側) 備後国出身。維新後は安保清康。明治42年10月27日死去。享年68歳。

林菫の墓(1種ロ8号1/14側 警視庁墓地) 幕臣。菫三郎。榎本武揚が義兄。大正2年7月10日死去。享年64歳。「林家之墓」に合葬され、墓誌に名前があります。

林友幸の墓(1種ロ17号7側) 長州藩士。半七。奇兵隊参謀。槍隊隊長。鳥羽・伏見の戦いでは第二奇兵隊を率いました。明治40年11月8日死去。享年85歳。

藤井希璞の墓(1種イ12号1側) 有栖川宮家家士。明治26年6月27日死去。享年70歳。

船越衛の墓(1種イ5号6側) 芸州藩士。洋之助。大正2年12月23日死去。享年74歳。

牧野忠泰の墓(1種イ2号6側) 三根山藩主。明治15年8月1日死去。享年48歳。

三浦悟楼の墓(1種イ5号15/16側) 長州藩士。奇兵隊参謀になりましたが、刃傷事件を起こして謹慎。大正15年1月28日死去。享年81歳。墓碑裏面に名前が刻まれています。

三島通庸の墓(1種イ9号12/16側) 薩摩藩士。弥兵衛。有馬新七らの寺田屋事件にかかわり、謹慎。明治21年10月21日死去。享年54歳。

山川浩の墓(1種ロ18号5側) 会津藩士。会津城籠城戦では、家老として防衛総督をつとめました。明治31年3月6日死去。享年54歳。

吉井友美の墓(1種イ6号4側) 薩摩藩士。幸輔。精忠組に参加。明治24年4月22日死去。享年64歳。「吉井家先祖墓」に合葬され、墓碑側面に名前があります。

渡辺昇の墓(1種イ12号4側) 大村藩士。近藤勇とも面識があり、誠衛館道場に出入りしていたといいます。坂本龍馬と下関に商社設立計画を談じ、京都で討幕運動を展開して新選組に狙われました。大正2年11月10日死去。享年76歳。「渡辺家之墓」に合葬され、墓碑側面に名前が刻まれています。
幕末維新江戸東京史跡事典より
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相楽総三墓-青山霊園Ⅷ

2008年05月27日

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相楽総三の墓 (1イ-3-1 立山墓地)

相楽総三は本名小島将満、通称四郎左衛門、のち四郎といい、下総(千葉県)北相馬出身の郷士で江戸赤坂に豪邸を持つ小島兵馬の末子です。
草莽の志士、赤報隊隊長。

慶応2年頃から京都に入り、志士と交流を深めました。
長州藩主毛利敬親にも知られました。
伊牟田尚平、益満休之助を通じて西郷隆盛、大久保利通と関東擾乱計画を練りました。
同じ年、伊牟田・益満とともに薩摩江戸屋敷にはいり、相楽総三と名乗り、野州、甲州、相州など各地に挙兵しました。
慶応4年、京で西郷から東征軍先鋒嚮導隊参加を求められました。その後、近江愛知川の妙寿院金剛輪寺において赤報隊を編制、鈴木三樹三郎(元新選組)、油川錬三郎とともに、軍裁に就任、一番隊長となりました。

租税半減をゆるされ、通過の村で実施しました。
慶応4年1月25日、東海道鎮撫使の指揮下に入ることを命ぜられましたが受けませんでした。
そのため、偽官軍として捕縛の布告が出されました。
2月18日、美濃大垣の東山道総督府で、捕縛命令は撤回され、薩摩藩の指揮下に入る指示を受けました。
29日、下諏訪の総督府に出頭、逮捕されました。
3月3日、同志7人とともに斬罪に処せられました。

長谷川伸は「相楽総三とその同志」において冤罪を明らかにしました。
幕末維新人名事典より

青山霊園での今回の目的は、相楽総三のお墓にお参りすることでした。
ちょうどこの頃、漫画で「るろうに剣心」(和月伸宏氏)が人気でした。
テレビでもアニメ化されていたのもこの頃だったと思います。
新選組&幕末ファンとしては、新選組の斉藤一(藤田五郎)が出ていますし、剣心の相棒の相楽左之助が新選組の原田左之助をイメージさせるのですから、読まないわけがないでしょう。

そこで左之助のテーマが「赤報隊 相楽総三」だったのです。
名前は知っていました。
が、それより少し前の大きな事件で、赤報隊を名乗る犯人がいたりで、あまりいいイメージは持っていませんでした。
漫画で少し興味を持ってみたら、ようやくそのイメージが変わりました。

お墓も大きな道を渡った、立山地区にありました。
探しても分からないので、管理事務所で訊ねたのですが、「そんなお墓ありました?」みたいな感じだったのです。
著名人のお墓のリストにも載っていませんでした。
やはり私が最初に持っていたのと同じようなイメージがまだあるのでしょうか?

やっとお墓に辿りつきました。
幕末の頃の人のお墓に行くと思うのが、若くして亡くなったのだな…。という事です。
近藤勇や土方歳三に坂本龍馬は30代。
沖田総司や相楽総三が20代。
彼らがもっと長生きしていたら、世の中は変わっていたでしょうか?


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佐々木高行-青山霊園Ⅶ

2008年05月26日
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佐々木高行 (1イ-21-8-8)

佐々木高行は、土佐国吾川郡長浜村瀬戸出身の土佐藩士です。
慶応3年、薩土盟約の件に関して、龍馬や中岡慎太郎と京都で会談を行っています。
この後、イカルス号事件に際し、龍馬はさらに佐々木との接触を深めています。
さらに土佐商会責任者として長崎行を命ぜられ、龍馬と長崎に向かっています。
長崎では、龍馬と頻繁に交流を続け、龍馬や海援隊士らに、物心にわたって援助しています。
龍馬も酒宴に誘うなどしています。
龍馬ががハットマン商会からライフル銃を購入する際、費用捻出の為の協力をしました。
慶応3年9月18日、ライフル銃とともに土佐へ向かう龍馬の震天丸を見送ったのが永訣となりました。
維新後は参議や枢密顧問官等を歴任しました。
坂本龍馬大事典より

龍馬とは太く短いお付き合いだったようですね。
それでもこれだけ、龍馬や海援隊の為に骨を折っているという事は、龍馬に惚れ込んでいたのでしょうね。


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後藤象二郎墓-青山霊園Ⅵ

2008年05月25日
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後藤象二郎の墓 (1イ-13-24-1)

後藤象二郎は土佐国高知城下片町出身で、後藤助右衛門の長男として生まれた、土佐藩士です。
義叔父吉田東洋に学びました。
土佐勤王党を弾圧し、武市半平太以下を断罪して公武合体を推進しました。

慶応3年1月、長崎清風亭で坂本龍馬と出会い、意気投合しました。
龍馬に「近頃の人物ニて候」と評されています。
後藤も龍馬を評価して、脱藩罪を解いています。
大政奉還の実現に向けて行動し、大政奉還の建白書を幕府に提出、徳川慶喜の決断を仰ぐために二条城にも赴いています。

維新後は大阪府知事、左院議長、参議など歴任。
実業界では成功せず、政界に復帰しています。
坂本龍馬大事典より

後藤象二郎で思い出すのは、今から10年前の出来事です。
ある女優さんの元夫の大祖父が後藤象二郎だそうです。
この元夫という人は、ある事件を起こして裁判がありました。
その時に、「後藤象二郎」という名前が、スポーツ新聞に大々的に載っていました。

後藤象二郎の写真をみると、体格のいい人です。
勝手なイメージですが、土佐系の顔というより薩摩系の顔だと思いませんか?
私だけでしょうか?


龍馬の愛した町 幕末を歩く [マイコミ旅ブック] (マイコミ旅ブック―「大人の修学旅行」シリーズ)龍馬の愛した町 幕末を歩く [マイコミ旅ブック] (マイコミ旅ブック―「大人の修学旅行」シリーズ)
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篠原泰之進墓-青山霊園Ⅴ

2008年05月24日
青山霊園には新選組隊士であった、篠原泰之進のお墓もあります。
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篠原泰之進の墓 (2イ-12-3-5)

篠原泰之進、篠塚友平、秦河内、秦泰之進、秦林親と名乗っていました。
筑後国生葉郡高見村出身の新選組隊士。
諸国を遊歴した中で、加納鷲雄と出会い、佐野七五三之助らと尊攘活動を約しました。
また加納を通して伊東甲子太郎を知りました。

元治元年、江戸での隊士募集に応じて上京し、入隊に至りました。
のち伊東甲子太郎らと新選組から分離し、孝明天皇の御陵衛士(高台寺党)として勤王活動を行いました。
油小路事件では、謀殺された伊東の遺体を同志と回収に向かいましたが、新選組の襲撃にあい薩摩藩邸へ入り、中村半次郎に庇護されました。
翌月、阿部十郎らと伏見墨染で近藤を銃撃し、負傷させています。
鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩軍に属して戦い、のち赤報隊に加わっています。

維新後は弾正台出仕などを経て、実業界に進出しました。
晩年はクリスチャンとなりました。
新選組大事典より

篠原泰之進の写真はよく目にします。
晩年の写真ですが、威厳がありながらも、優しいおじいちゃんという雰囲気の写真です。
新選組の全盛期を知る人で、「秦林親日記」を残しているのです。
明治44年というと、私達の年代の祖父母が生まれた時には、ご存命だったかもしれないのですね。
そう考えると、明治はすぐそこという感覚です。



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