2009年01月08日 (木) | 編集 |
吉村寅太郎寓居跡(京都府京都市中京区木屋町通三条上ル東側)が高瀬川沿いにあります。
吉村寅太郎は、土佐国高岡郡津野山郷芳生野村出身の土佐藩士です。
弘化4年、12歳の時に父の職を継いで高岡郡北川村の庄屋となり、以後、諸村の庄屋、大庄屋を歴任しました。
間崎滄浪に学び、文化元年8月に結成された土佐勤王党に加盟しました。
翌2年2月に武市半平太の紹介で長州藩士・久坂玄瑞と会談し、伏見挙兵計画に賛同し、3月7日に宮地宜蔵を伴って土佐を脱藩しました。
4月23日の寺田屋事件によって挫折した吉村は土佐に送還され、同年12月まで獄中にありました。
翌3年2月に再び脱藩、5月22日は京都に滞在中の勝海舟を訪れましたが、勝のもとにいた龍馬は他出していて対面できませんでした。
8月14日、中山忠光を擁して大和で挙兵しましたが、一八日の政変で形勢が逆転し、9月27日に壮烈な戦死を遂げました。
その最後の言葉が「残念」であったことから、「残念大将」と呼ばれて敬慕されています。享年27歳。
墓は奈良県吉野郡東吉野村鷲家。
吉野山風に乱るる紅葉葉は わが打つ太刀の血煙りとみよ
坂本龍馬大事典より
京阪電鉄三条駅を降りて、三条大橋を渡ると、高瀬川に架かる三条小橋があります。
池田屋事件で耳にする三条小橋です。
橋を渡る手前の木屋町通を北に曲がります。
高瀬川にかかる2つ目の橋(恵比寿橋→姉小路橋)の手前に吉村寅太郎寓居跡があります。
四条から三条までの高瀬川沿いは人も多いのですが、三条を過ぎると人通りが少なくなります。
しかし幕末の史跡はまだまだ多くあります。
建物の北端に石碑と説明板が建ています。
そう遠くない昔は、まだ当時を偲べるような建物だったようです。
私が見た写真には、木造家屋が写っていました。
仕方がないですが、京都という事を考えても、歴史的な建物は残して頂けると嬉しいです。
歴史の宝庫・京都ですから…と思うのは、住んでいない人間だからいえるのでしょうね。
吉村寅太郎寓居跡の隣が、武市半平太寓居跡というのは意味があるのでしょうか?
土佐勤王党の党首である武市半平太を追って、吉村寅太郎が隣に居を構えたのでしょうか?
それとも単なる偶然?

左が武市半平太寓居跡 右は吉村寅太郎寓居跡
吉村寅太郎は、土佐国高岡郡津野山郷芳生野村出身の土佐藩士です。
弘化4年、12歳の時に父の職を継いで高岡郡北川村の庄屋となり、以後、諸村の庄屋、大庄屋を歴任しました。
間崎滄浪に学び、文化元年8月に結成された土佐勤王党に加盟しました。
翌2年2月に武市半平太の紹介で長州藩士・久坂玄瑞と会談し、伏見挙兵計画に賛同し、3月7日に宮地宜蔵を伴って土佐を脱藩しました。
4月23日の寺田屋事件によって挫折した吉村は土佐に送還され、同年12月まで獄中にありました。
翌3年2月に再び脱藩、5月22日は京都に滞在中の勝海舟を訪れましたが、勝のもとにいた龍馬は他出していて対面できませんでした。
8月14日、中山忠光を擁して大和で挙兵しましたが、一八日の政変で形勢が逆転し、9月27日に壮烈な戦死を遂げました。
その最後の言葉が「残念」であったことから、「残念大将」と呼ばれて敬慕されています。享年27歳。
墓は奈良県吉野郡東吉野村鷲家。
吉野山風に乱るる紅葉葉は わが打つ太刀の血煙りとみよ
坂本龍馬大事典より
京阪電鉄三条駅を降りて、三条大橋を渡ると、高瀬川に架かる三条小橋があります。
池田屋事件で耳にする三条小橋です。
橋を渡る手前の木屋町通を北に曲がります。
高瀬川にかかる2つ目の橋(恵比寿橋→姉小路橋)の手前に吉村寅太郎寓居跡があります。
四条から三条までの高瀬川沿いは人も多いのですが、三条を過ぎると人通りが少なくなります。
しかし幕末の史跡はまだまだ多くあります。
建物の北端に石碑と説明板が建ています。
そう遠くない昔は、まだ当時を偲べるような建物だったようです。
私が見た写真には、木造家屋が写っていました。
仕方がないですが、京都という事を考えても、歴史的な建物は残して頂けると嬉しいです。
歴史の宝庫・京都ですから…と思うのは、住んでいない人間だからいえるのでしょうね。
吉村寅太郎寓居跡の隣が、武市半平太寓居跡というのは意味があるのでしょうか?
土佐勤王党の党首である武市半平太を追って、吉村寅太郎が隣に居を構えたのでしょうか?
それとも単なる偶然?

左が武市半平太寓居跡 右は吉村寅太郎寓居跡
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2009年01月07日 (水) | 編集 |
「仮名手本忠臣蔵」などで有名な、一力亭(京都府京都市東山区祗園町南側・四条通花見小路角)です。
一力とは、「万」という字を“一”と“力”に分けたもので、本来は万亭・万屋・万春楼といいました。
祗園では古い格式ある茶屋で、「赤前垂れ」の店と呼ばれ、正装には赤前垂れをつけます。
大石内蔵助が遊興したと伝えられています。
しかし茶屋株30軒の許可を受け、正式に茶汲み女・茶立て女を置いたのは享保17年で、さらに遊女が許可されたのは寛政2年であり、大石内蔵助は遊興する事は出来なかったはずです。
大石は山科の閑居から、伏見の撞木町に通っていたそうです。
一力亭の入口は、もとは四条通に面していましたが、大正4年、市電開通により花見小路側に変わりました。
文久3年の八月十八日の政変以来、佐幕派の会合(会・肥・薩などの周旋方)が日夜、料亭などで開かれました。
この年の10月10日の夕、一力亭の会合で、出席した近藤勇は意見を求められて、一席ぶったことがありました。
近藤の意見は、朝幕一致して攘夷を行おうという論であったといいます。
新選組史跡事典より
阪急電鉄河原町駅や京阪電鉄祇園四条駅から、八坂神社に向かって歩いていると、南側(右)に赤い壁の建物が見えてきます。
そこが一力亭です。
大きな(広い)建物で、壁が赤いので見落とすことはないです。
この花見小路沿いには、たくさんのお茶屋さんが並んでいます。
正直、ここで近藤勇が会合に出席したのが信じられませんでした。
今では格式ある店で、一見さんお断りです。
そんなお店に近藤勇が上って、諸藩の周旋方と会合…。
新選組ファンの私でも、信じられない感じです。
確かに新選組は大きな仕事をして来ていますが、やはり生粋の武士ではないです。
各藩を代表して来ている武士が、近藤の意見をどれだけ真剣に聞いていたのか疑問です。
もし万が一、私が一力亭に上れるチャンスがあったとしても
↑ 100%無いといえますが(笑)
格式が高すぎて、何も楽しめないままに終わってしまうでしょうね。
近藤勇は、自分の意見を発することが重要だったでしょうから、楽しむということには拘っていなかったのでしょうね。
一力とは、「万」という字を“一”と“力”に分けたもので、本来は万亭・万屋・万春楼といいました。
祗園では古い格式ある茶屋で、「赤前垂れ」の店と呼ばれ、正装には赤前垂れをつけます。
大石内蔵助が遊興したと伝えられています。
しかし茶屋株30軒の許可を受け、正式に茶汲み女・茶立て女を置いたのは享保17年で、さらに遊女が許可されたのは寛政2年であり、大石内蔵助は遊興する事は出来なかったはずです。
大石は山科の閑居から、伏見の撞木町に通っていたそうです。
一力亭の入口は、もとは四条通に面していましたが、大正4年、市電開通により花見小路側に変わりました。
文久3年の八月十八日の政変以来、佐幕派の会合(会・肥・薩などの周旋方)が日夜、料亭などで開かれました。
この年の10月10日の夕、一力亭の会合で、出席した近藤勇は意見を求められて、一席ぶったことがありました。
近藤の意見は、朝幕一致して攘夷を行おうという論であったといいます。
新選組史跡事典より
阪急電鉄河原町駅や京阪電鉄祇園四条駅から、八坂神社に向かって歩いていると、南側(右)に赤い壁の建物が見えてきます。
そこが一力亭です。
大きな(広い)建物で、壁が赤いので見落とすことはないです。
この花見小路沿いには、たくさんのお茶屋さんが並んでいます。
正直、ここで近藤勇が会合に出席したのが信じられませんでした。
今では格式ある店で、一見さんお断りです。
そんなお店に近藤勇が上って、諸藩の周旋方と会合…。
新選組ファンの私でも、信じられない感じです。
確かに新選組は大きな仕事をして来ていますが、やはり生粋の武士ではないです。
各藩を代表して来ている武士が、近藤の意見をどれだけ真剣に聞いていたのか疑問です。
もし万が一、私が一力亭に上れるチャンスがあったとしても
↑ 100%無いといえますが(笑)
格式が高すぎて、何も楽しめないままに終わってしまうでしょうね。
近藤勇は、自分の意見を発することが重要だったでしょうから、楽しむということには拘っていなかったのでしょうね。
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2009年01月07日 (水) | 編集 |
高杉晋作寓居・魚品楼跡(京都府京都市東山区縄手通白川橋上ル)です。
高杉晋作が、加茂行幸に供奉した将軍家茂に向かって「征夷大将軍」と、叫んだのは有名な話です。
久坂玄瑞とともに、松陰門下の双璧の英才でしたが、一面天衣無縫ぶりを発揮した豪傑でした。
文久年間、よく上京した晋作は、魚品楼に来ることが多かったそうです。
近年まで「大まさ」という料亭でしたが、現在は建物は取り壊され、面影はありません。
写真でみる維新の京都より
京阪電鉄祇園四条駅を東側に出て、川端通を渡ります。
四条通の2つ目の角(交番のある角)を、北に曲がります。
150mほど行くと、白川に架かる白川橋があるので橋も渡ってさらに北へ。
橋を渡って30mの辺りに、駐車場などが東側(右)にあります。
その付近に魚品楼がありました。
写真は“写真でみる維新の京都”と同じアングルで撮ってみました。
お店や建物が同じなので間違いないです。
ここが魚品楼跡付近です。
この付近は京都を舞台にしたドラマなどでよく見ます。
「白川橋」「巽橋」はよく映っています。
京都らしい風景というのでしょうか。
お茶さんも多くあるようです。
しっとりとしたような場所を寓居としていた高杉晋作は、やはり風流人ですね。
新選組で似合いそうなのは、土方歳三かな。
山南敬助は優しくて穏やかな印象ですが、風流という言葉とは違うイメージですね。
沖田総司や藤堂平助はやんちゃなイメージですし、永倉新八や斉藤一もちょっと違うな〜。
土方歳三以外に誰かいますか?
高杉晋作
高杉晋作が、加茂行幸に供奉した将軍家茂に向かって「征夷大将軍」と、叫んだのは有名な話です。
久坂玄瑞とともに、松陰門下の双璧の英才でしたが、一面天衣無縫ぶりを発揮した豪傑でした。
文久年間、よく上京した晋作は、魚品楼に来ることが多かったそうです。
近年まで「大まさ」という料亭でしたが、現在は建物は取り壊され、面影はありません。
写真でみる維新の京都より
京阪電鉄祇園四条駅を東側に出て、川端通を渡ります。
四条通の2つ目の角(交番のある角)を、北に曲がります。
150mほど行くと、白川に架かる白川橋があるので橋も渡ってさらに北へ。
橋を渡って30mの辺りに、駐車場などが東側(右)にあります。
その付近に魚品楼がありました。
写真は“写真でみる維新の京都”と同じアングルで撮ってみました。
お店や建物が同じなので間違いないです。
ここが魚品楼跡付近です。
この付近は京都を舞台にしたドラマなどでよく見ます。
「白川橋」「巽橋」はよく映っています。
京都らしい風景というのでしょうか。
お茶さんも多くあるようです。
しっとりとしたような場所を寓居としていた高杉晋作は、やはり風流人ですね。
新選組で似合いそうなのは、土方歳三かな。
山南敬助は優しくて穏やかな印象ですが、風流という言葉とは違うイメージですね。
沖田総司や藤堂平助はやんちゃなイメージですし、永倉新八や斉藤一もちょっと違うな〜。
土方歳三以外に誰かいますか?
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高杉晋作
2009年01月06日 (火) | 編集 |
西国屋跡(京都府京都市中京区中島町)付近です。
西国屋は三条通を挟んだ池田屋の西側にありました。
池田屋事変当日、土方隊は武市半平太寓居でもある“丹虎(四国屋)”に御用改めに入ったとされています。
しかし、四国屋を探索した記録はありません。
四国屋と字面のにている“西国屋”と間違われた可能性があります。
西国屋に御用改めが行われた記録はあります。
以上のことから、西国屋を新選組が探索を行った可能性もありえます。
新選組史跡事典より
京阪電鉄三条駅から三条大橋を渡り、さらに直進すると右手に池田屋跡があります。
その斜め前に当たりになるのでしょうか。
写真は撮った気がするのですが、見つけられませんでした。
この写真は中央に、
大村益次郎
佐久間象山 遭難の碑 北へ約・壱丁
とかかれた碑が写っています。
西国屋があったと思われるのは、写真左端、タクシーが写っている奥辺りではないかと思います。
本当に池田屋の前という感じです。
もし土方隊が西国屋を御用改めしたのが、近藤勇たちが池田屋に御用改めに入った時間より後なら、池田屋での戦闘に気付かないはずは無いと思うのです。
小説などでは、土方歳三が池田屋に着いた時には、本格的に戦闘が始まっています。
それなら、西国屋と池田屋の距離−徒歩1分弱−を考えると、池田屋の戦闘後に西国屋に入っていると思うのです。
やはり丹虎に行っていた方が時間の経過からすると合いそうです。
四国屋(丹虎)と西国屋、字面を見ると本当によく似ていますね。
西国屋は三条通を挟んだ池田屋の西側にありました。
池田屋事変当日、土方隊は武市半平太寓居でもある“丹虎(四国屋)”に御用改めに入ったとされています。
しかし、四国屋を探索した記録はありません。
四国屋と字面のにている“西国屋”と間違われた可能性があります。
西国屋に御用改めが行われた記録はあります。
以上のことから、西国屋を新選組が探索を行った可能性もありえます。
新選組史跡事典より
京阪電鉄三条駅から三条大橋を渡り、さらに直進すると右手に池田屋跡があります。
その斜め前に当たりになるのでしょうか。
写真は撮った気がするのですが、見つけられませんでした。
この写真は中央に、
大村益次郎
佐久間象山 遭難の碑 北へ約・壱丁
とかかれた碑が写っています。
西国屋があったと思われるのは、写真左端、タクシーが写っている奥辺りではないかと思います。
本当に池田屋の前という感じです。
もし土方隊が西国屋を御用改めしたのが、近藤勇たちが池田屋に御用改めに入った時間より後なら、池田屋での戦闘に気付かないはずは無いと思うのです。
小説などでは、土方歳三が池田屋に着いた時には、本格的に戦闘が始まっています。
それなら、西国屋と池田屋の距離−徒歩1分弱−を考えると、池田屋の戦闘後に西国屋に入っていると思うのです。
やはり丹虎に行っていた方が時間の経過からすると合いそうです。
四国屋(丹虎)と西国屋、字面を見ると本当によく似ていますね。
2009年01月05日 (月) | 編集 |
藤森神社(京都府京都市伏見区深草鳥居崎町609)に、近藤勇が腰痛を治したという塚があります。
藤森神社は、今から約1800年前に、神功皇后によって創建された深い古社です。
本殿は正徳2年、中御門天皇より賜ったものです。
藤森神社は、菖蒲の節句発祥の神社としても知られています。
今日では勝運と馬の神様として、競馬関係者(馬主・騎手等)、また、競馬ファンの参拝者でにぎわっています。
5月5日に行われる藤森祭の、武者行列と駈馬神事は有名です。
藤森神社境内の「旗塚」は「いちのきさん」と親しまれています。
ここにお参りすれば、腰痛が治るといわれていて、近藤勇が何度も詣でて腰痛を治したと伝えられています。
新選組とさらに関係があります。
伊東甲子太郎らを失った高台寺党の残党が、近藤勇への報復を謀り、その機会を窺っていました。
新選組は、慶応3年12月16日に、伏見奉行所に陣を移していました。
高台寺党の生き残り、三木三郎(伊東甲子太郎の実弟)、加納道之助、富山弥兵衛、篠原泰之進、阿部十郎、内海次郎に加え、佐原太郎、江田小太郎も、匿われていた薩摩藩伏見藩邸から、旧伏見奉行所屋敷の近藤勇・土方歳三を、間諜を送りその出入りを見張っていたそうです。
小林啓之助は間諜であることが露見して、殺害されました。
元御陵衛士らは、近藤が二条城から帰る途中を、伏見街道上の藤森神社の北側と南側に別れて挟みうちにしようと、待ち伏せしたといいます。
藤森神社&新選組史跡事典より
京阪電鉄藤森駅よりも墨染駅の方が近く感じます。
墨染駅の東側の道を北に歩きます。
約500mほどで、東(左)側に藤森神社があります。
京阪電鉄藤森駅ならば、駅東側の道を南下してくることになります。
馬を走らせながら、逆立ちをしたり字を書いたりする駈馬神事が行われる境内は、広いというより駈け抜けるための長い直線の空間があります。
人間でも走りたくなるかもしれません(笑)
子供達はなおさら走りたくなるでしょうね。
時間的に子供は学校に行っているような時間で、そういう光景は目にする事はありませんでした。
本殿の横に「旗塚」があります。
近藤勇も腰痛だったのですね。
何度も訪れたと伝わっているという事は、慢性の腰痛持ちだったのでしょう。
近藤勇が「腰が痛い」といって、部屋でひとり腰をトントンと叩いているのは、まだなんとなく想像しうる範囲です。
が、土方歳三が腰痛で腰をトントン…あまり似合わないかも…。
沖田総司に見つかって、苦笑いをしているようなマンガはありそうですね。
あんなに重そうな刀を2本も差しているのですから、当時の人たちは腰痛持ちの人も多かったのでしょう。
※“清河八郎も藤森神社の祭礼をみて感激”という見出しがあった書籍です↓
藤森神社は、今から約1800年前に、神功皇后によって創建された深い古社です。
本殿は正徳2年、中御門天皇より賜ったものです。
藤森神社は、菖蒲の節句発祥の神社としても知られています。
今日では勝運と馬の神様として、競馬関係者(馬主・騎手等)、また、競馬ファンの参拝者でにぎわっています。
5月5日に行われる藤森祭の、武者行列と駈馬神事は有名です。
藤森神社境内の「旗塚」は「いちのきさん」と親しまれています。
ここにお参りすれば、腰痛が治るといわれていて、近藤勇が何度も詣でて腰痛を治したと伝えられています。
新選組とさらに関係があります。
伊東甲子太郎らを失った高台寺党の残党が、近藤勇への報復を謀り、その機会を窺っていました。
新選組は、慶応3年12月16日に、伏見奉行所に陣を移していました。
高台寺党の生き残り、三木三郎(伊東甲子太郎の実弟)、加納道之助、富山弥兵衛、篠原泰之進、阿部十郎、内海次郎に加え、佐原太郎、江田小太郎も、匿われていた薩摩藩伏見藩邸から、旧伏見奉行所屋敷の近藤勇・土方歳三を、間諜を送りその出入りを見張っていたそうです。
小林啓之助は間諜であることが露見して、殺害されました。
元御陵衛士らは、近藤が二条城から帰る途中を、伏見街道上の藤森神社の北側と南側に別れて挟みうちにしようと、待ち伏せしたといいます。
藤森神社&新選組史跡事典より
京阪電鉄藤森駅よりも墨染駅の方が近く感じます。
墨染駅の東側の道を北に歩きます。
約500mほどで、東(左)側に藤森神社があります。
京阪電鉄藤森駅ならば、駅東側の道を南下してくることになります。
馬を走らせながら、逆立ちをしたり字を書いたりする駈馬神事が行われる境内は、広いというより駈け抜けるための長い直線の空間があります。
人間でも走りたくなるかもしれません(笑)
子供達はなおさら走りたくなるでしょうね。
時間的に子供は学校に行っているような時間で、そういう光景は目にする事はありませんでした。
本殿の横に「旗塚」があります。
近藤勇も腰痛だったのですね。
何度も訪れたと伝わっているという事は、慢性の腰痛持ちだったのでしょう。
近藤勇が「腰が痛い」といって、部屋でひとり腰をトントンと叩いているのは、まだなんとなく想像しうる範囲です。
が、土方歳三が腰痛で腰をトントン…あまり似合わないかも…。
沖田総司に見つかって、苦笑いをしているようなマンガはありそうですね。
あんなに重そうな刀を2本も差しているのですから、当時の人たちは腰痛持ちの人も多かったのでしょう。
※“清河八郎も藤森神社の祭礼をみて感激”という見出しがあった書籍です↓
![]() | 新・京都の謎 (PHP文庫) (2008/05/01) 高野 澄 商品詳細を見る |
![]() | 西遊草 (岩波文庫) (1993/12) 清河 八郎小山松 勝一郎 商品詳細を見る |



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