光徳寺 - 新選組謹慎の寺

2018年02月16日
光徳寺(三重県桑名市新町54)も新選組隊士が謹慎していたお寺です。
謹慎していたのは、竹内徳雄です。

光徳寺3  光徳寺2

光徳寺1  光徳寺4

 
竹内徳雄

竹内篤平と同一人物ですか?
私が調べきれなかっただけです。

竹内篤平
箱館編成新選組、第一分隊所属隊士。
武内とも。
越後長岡の出身で、長岡城下表町生まれ。

新選組入隊の経緯は不明ですが、弁天台場で降伏しました。
最期の新選組隊長相馬主殿の家来だったといいます。

津軽藩お預かりとなり、東京送りとなり、旧藩に引き渡されました。
その後自由の身になりました。
新選組大人名辞典より


意外と善西寺まで行くのに時間がかかりませんでした。
そうなると気になるのが、光徳寺です。
十念寺の隣にあり、新選組隊士の謹慎のお寺です。
ここで行かなければ、ずっと気になって後悔するのでしょう。と、いう事で十念寺まで戻ることにしました。
戻るといっても650mほどで10分程度です。
十念寺の隣ですぐに見つかるか?だけの話です。

そしてやはりそこで時間を食いました。
十念寺を大きく一周してしまいました。
本当にお隣でした。

十念寺と似た感じのお寺です。
特に境内が広大というのではありませんが、緑に覆われていました。
ここは、新選組謹慎の地ではなく、沼波弄山の墓があることで有名だそうです。


沼波 弄山(ぬなみ ろうざん)
享保3年 - 安永6年は、萬古焼の始祖として知られる陶芸家。
本名は、五左衛門重長。
桑名・船馬町の商家に生まれました。
幼いころより茶道に親しみました。
20歳のころ、現在の三重郡朝日町に釜を開き、陶芸を始め、彼の作品は次第に有名となり、宝暦年間(1751年 - 1764年)に江戸に窯を開きました。
安永6年、60歳で死去。
Wikipediaより


桑名市での新選組関係で今回私が調べたのはこのお寺で終わりです。
近い範囲で謹慎していたのがよくわかりました。
謹慎といっても自由に行き来ができるようになったならば、気軽に行ける距離だったのですね。
故郷にいるというは心強かったでしょうし、同じ境遇の者が近くにいてるというはさらに心強かったかもしれません。

そしてこの史跡巡り中、同じように史跡巡りしている人には会う事はありませんでした。
やはり新選組は多摩地方や京都、会津、箱館がメインなのでしょう。

少し時間に余裕があったので、少し桑名を歩きました。
それは次回にUPします。













善西寺 - 関川代次郎の墓

2018年02月13日
善西寺(三重県桑名市西矢田町27-21)に関川代次郎の墓があるというので向かいました。

善西寺1  関川代次郎墓

本名は関川代次郎克海。
他に代治郎、代二郎。
伊勢桑名藩士(御下横目・八石二人扶持)
箱館新選組第四分隊隊士。
京都所司代時代には池田屋事件、禁門の変にも出動。
戊辰戦争時は藩主松平定敬の御供方の一員として各地に随行。
明治元年9月、仙台で新選組に入隊。
翌年5月、弁天台場で降伏。
同10年、西南戦争には桑名士族約300名が応募したが、代次郎もこれに参加。
その後は三重県尾鷲警察署巡査として永年勤務しました。
同42年夏、桑名で永眠。
享年72歳。



顕本寺から県道401号を真っ直ぐに西に約700m歩きます。
浅川交差点を左折、国道1号に入り一つ目の角に善西寺があります。

歴史を感じる墓石がありました。
この方、京都所司代時代があるのですね。
ということは、新選組を外から見ていた人です。
京都所司代ですからもちろん味方ですが、当時新選組を見てどう思っていたのでしょうか。
“強い”“できれば新選組に入りたい”とか思っていたのでしょうかね。

新選組が衰退していった箱館で、新選組に入隊していることから考えると今でいう、「憧れ」はあったのかもしれませんね。
西南戦争にも参加するほどですから、当時の考えのど真ん中にいた人なのでしょう。

その後、三重県で巡査として勤務というのは、斎藤一とダブってくるところありがありますね。
何だか容姿まで斉藤一とダブらせてしまうのは、少し行き過ぎですね。








顕本寺 - 新選組謹慎の寺

2018年02月12日
顕本寺(三重県桑名市萱町74)です。

顕本寺1  顕本寺2

顕本寺3


内山栄八、前田岩太郎が謹慎していました。

法盛寺を出て、左方向(南?)に真っ直ぐ約350m(5分)です。
萱町交差点の角にあります。


内山栄八
箱館編成新選組、第二隊所属隊士。
元伊勢桑名藩徒士。
生国は越後
戊辰北越戦争にさいして、御勘定方下役を務め六石二人扶持。

北越より転戦し会津へ。
さらに松平定敬の供をして会津を逃れ仙台に赴く。
明治元年9月に仙台で新選組に入隊しました。
10月蝦夷地えと渡航しました。
鷲ノ木に上陸して箱館へ向けて進撃し、10月24日の七重村戦闘では本道口を担当して、奮戦中に軽傷を負いました。

5月11日の新政府軍の箱館総攻撃では奮戦しましたが、15日に弁天台場で降伏しました。
津軽藩お預かりとなり、21日にイギリス商船・アルビオンに乗船させられ、22日に青森上陸のうえ油川明誓寺に護送されました。
6月9日には弘前城下の薬王院に移され謹慎生活を送りました。
10月24日に大坂艦に乗船、弁天台場送りの同志と別れ、東京送りとなりました。
11月9日夜に芝・増上寺境内の最勝院に入って、11日に旧藩に引き渡されました。
13日に東京を発ち23日に桑名へ到着。
国元で謹慎生活を続け、翌3年1月に許され自由になりました。



前田岩太郎
箱館編成新選組、第四分隊所属隊士。
元伊勢桑名藩徒士格。
越前鯖江藩・坂井宇右衛門の息子。
京都地組として桑名公に召し抱えられました。

江戸で立見鑑三郎らと行動を共にし、慶応4年3月15日に藩邸を抜けだし、旧幕府軍第七聯隊に属しました。
後に土方歳三らの旧幕脱走軍付属部隊となり、宇都宮攻城戦に参戦しました。
のち藩領越後柏崎で、桑名軍の神風隊に編入されています。
越後より転戦を重ね、会津から仙台に至りました。

同年9月、仙台で新選組に入隊しました。
松島から里浜へ、10月1日ごろから石巻に移動し、フランス式の調練を行いました。
7日ごろ渡波村へ向かい、10日に小舟で折浜沖の大江丸に乗船して蝦夷地へ行きました。

10月24日の七重村の戦闘では本道口を守りました。
明治2年5月15日に弁天台場で降伏しました。
津軽藩お預かりとなり、21日にイギリス商船・アルビオンに乗船させられ、22日に青森上陸のうえ油川明誓寺に護送されました。
6月9日には弘前城下の薬王院に移され謹慎生活を送りました。
10月24日に大坂艦に乗船、弁天台場送りの同志と別れ、東京送りとなりました。
11月9日夜に芝・増上寺境内の最勝院に入って、11日に旧藩に引き渡されました。
13日に東京を発ち23日に桑名へ到着。
国元で謹慎生活を続け、翌3年1月に許され自由になりました。
新選組大人名辞典より


旧桑名藩士で、箱館新選組と呼ばれる人々が謹慎生活を送ったお寺であり、特にお墓があるとかではありません。
なので正直、「そうか~」「広いな~」と思う程度でした。
確かに、十念寺、法盛寺と目と鼻の先ですから、自由に行き来できるようになってからは何度でも行き来できたと思います。

このお寺は、新選組謹慎の地というよりは、戦国時代 徳川家康の家臣であった水谷九左衛門の墓があるとして有名なようですね。
今回はそのお墓はお参りせずに次のお寺に向かうことにしました。
戦国時代でも徳川家康関係ですから、お墓に参るのもよかったのですが、時間的に余裕があまりなかったので門前で失礼してきました。












法盛寺 - 渡部平太夫の墓

2018年02月05日
法盛寺(三重県桑名市萱町93)では渡部平太夫の墓もみました。

渡部平太夫墓・法盛寺

さて、渡部平太夫ってどなたでしょうか?
桑名藩士で9石3人扶持 の下級武士。
矢田磧八幡瀬古庚申堂近くに住んでいた。

というのは書いてあるのをみました。
天保の頃の人みたいですね。
幕末とは少し時代が違いますね。

新選組関係の高木貞作はわからなかったのですが、この渡部平太夫の墓は墓地入り口に説明板付きでありました。
桑名では高木貞作より有名人なのかな?
雰囲気としては、整備されてもとあった場所とは違うのかな…って感じでした。
でも、きちんとされているってこと大事にされているって事で、喜ばしい事なのかもしれません。
が、私は元あるまま大事にされているのが一番うれしくて、ワクワクします。
これは単なるファンの我儘なのでしょうね。






桑名と柏崎に、離れて暮らした武士の親子があった。父は桑名で米蔵の出庫係、息子は柏崎で年貢の取り立て係として、それぞれ米に関わる仕事に就いていた。この二人が、十年にわたり、子供の成長、旅、暮らし、そして仕事の詳細を記し、交換し続けたのが、幕末の第一級史料、『桑名日記』『柏崎日記』である。


法盛寺 - 高木貞作の墓

2018年02月04日
法盛寺(三重県桑名市萱町93)には高木貞作の墓があるそうです。

法盛寺1  法盛寺2

高木貞作墓1  高木貞作墓2
          高木貞作の墓?


高木貞作
嘉永元年11月23日生まれ、昭和8年1月14日没。
本名は高木剛次郎貞廉。
変名は衝鋒隊で高橋一、新選組では神戸四郎。
維新後高木貞作と称しました。
伊勢桑名藩士。
御小姓役で三人扶持。
箱館新選組第四分隊隊士。

慶応4年3月、藩主松平定敬に随行して海路で越後柏崎へ向かう。
北越転戦後、明治元年9月、庄内で降伏。
翌年2月、箱館への使者として山脇隼太郎ともに潜行。
同年4月、箱館へ到着し、新選組に入隊しました。

維新後は山脇とともに渡米、商法を学び、帰国。
東京で没しました。
享年86歳。
桑名の法盛寺に合葬墓がある。
法名を「泰證院釈康巌居士」という。
Wikipediaより



十念寺から東へ道のり約300m、徒歩4分ほどでつきます。
県道613を渡ると大きなお寺があります。

住居の横に本堂があるような感じの、こじんまりとしたお寺ではなく、境内が広い大きなお寺です。
私のイメージとしては壬生寺…というより、西本願寺の方が似ているかな…。
広い境内の一角に墓地がありました。

ここに高木貞作の墓があるようなのですが、あちらこちら見ても見つかりませんでした。
新しいお墓も多くて、きれいに整備されて行っているのかもしれません。
写真は高木家の墓ですが、これが高木貞作と関係あるのかはわかりません。

でもこれだけ広い境内がありながら、このお寺には謹慎者は居なかったようです。
広いと一応監視の目が届かないってことなのでしょうか?
このお寺に全員を収容することもできたと思うのです。
政治的に色々とあるのでしょうね。








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